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戦時下であっても、学院は閉じない。
学院設立の協議が一段落した為、第一王女エリシアは私を案内していた。
石造りの講義室。高壇に立つ教授。整然と並ぶ机。学生たちは皆、良家の子息。貴族か、高位聖職者の家系に限られている。
誰もが静かに筆を走らせ、誰も口を挟まない。講義が終わると、礼をし、整然と退出する。廊下に出ても、議論の声はない。
「……完璧ですね」
私は言った。エリシアは誇らしげにうなずく。
「この学院は、大陸随一です」
「ええ。完成しています」
少し間を置いて、私は続けた。
「完成しすぎている」
金色の瞳が、わずかに動く。
「どういう意味です?」
私は壁に掲げられた学則を見る。
規律。沈黙。師への絶対的敬意。
「質問は、いつするのですか?」
「講義後、許可を得て」
「許可を得て、ですか」
小さく息を吐く。
「それでは、問いは育ちません」
静かな声だったが、はっきりしていた。
「学問は、問いから始まります」
エリシアは黙る。私は続けた。
「ここでは、すべてが整いすぎている」
エリシアは私を見た。
「貴族の子息ばかりだからこそ、秩序は守られる。ですが」
私は講義室を振り返る。
「同じ家柄、同じ教育、同じ価値観。視点が、似通っていませんか」
エリシアの歩みが、わずかに止まる。
「私の理想では」
私は言葉を選ぶ。
「討論の時間を、講義の中に組み込みます」
「講義の中に?」
「教師は半分だけ話す。残り半分は学生に話させる」
エリシアは眉を寄せる。
「無秩序になりませんか?」
「なります」
あっさりと言う。
「ですが、混乱からしか新しい考えは出ません」
風が回廊を抜ける。
「いまの学院は、“正解を学ぶ場所”になっている」
エリシアの黒い髪が、揺れた。
「ですが本来は、“正解を疑う場所”のはずです」
戦時下。国家を支える者に、誤りは許されない。だからこそ、沈黙が美徳になる。私は続ける。
「もう一つ」
机の上の写本を指した。すべて同じ学派、同じ解釈。
「異論を唱える場は、ありますか?」
「……公式には、少ないでしょう」
答えが、遅れる。
「系統が近い者ばかりが学べば、思想も近くなる」
私は静かに言った。
「それは安定を生みます。ですが同時に、盲点も生む」
「盲点とは?」
「盲点とは、誰も疑わぬ前提のことです。疑われないものほど、崩れた時に大きい」
エリシアは少し、目を見開いた。
「国家を支えるなら、発言できる人材を育てるべきです」
長い沈黙。鐘が鳴る。
エリシアは、ゆっくりと息を吐いた。
「……改革は、反発を生みます」
一瞬、視線を伏せる。
「私はずっと、気になっていました……」
私は黙っている。
「……けれど教授たちが黙ってはいません」
「でしょうね」
即答だった。
「ですから、段階的に。まずは選抜制の討論講義を一つだけ設ける」
一拍。
「貴族の子息の中でも、あえて異なる家系を混ぜる。そして、成果が出れば、広げる」
エリシアは私を見る。
理想ではない。感情でもない。構造の話だ。
「……出過ぎたことを、言いました」
ようやく、私は気づく。この学院は、大国の誇り。その根幹に触れたのだ。
だがエリシアは、静かに微笑んだ。金色の瞳が、わずかに柔らぐ。
「いいえ。あなたは、私たちが当然と思ってきたものに、問いを向けられる」
その言葉に、私はわずかに息を呑んだ。
咎められる覚悟を、していたからだ。
午後の光が石床に伸びる。学院は、まだ静かだ。だがその沈黙の奥で、確かに、ひとつの亀裂が入った。
そしてそれは、崩壊ではなく、変革の始まりだった。
エリシア視点
学院の石段を下りようとしたその時だった。
前方から歩み寄る一団に、私はすぐ気づいた。
――あれは。先頭に立つ男の顔を見て、記憶が結びつく。父の覚えのめでたい、侯爵。条約締結の折、使節団を率いていた人物だ。
(なるほど。学院の様子を見に来た、という名目かしら)
私は一歩だけ、王子より前に出る。紹介するつもりだった。
ところが。彼はまず、私に深く一礼した。
「王女殿下。ご健勝のご様子、何よりにございます」
完璧な礼。非の打ち所がない。そして、視線が滑るように王子へ向く。
「殿下も、お変わりなく」
「お久しぶりです」
――あら?私はわずかに瞬きをした。
(ご存知でしたのね)
形式を崩さぬ声音。静かな微笑。久しぶり、と言った。つまり、条約締結のあの場で、ただ居合わせていただけではない。
私は何も言わず、二人を見守ることにした。
「あの条約は、誠に見事なものでございました。武力ではなく、往来を増やすことで均衡を保つ。素晴らしい構想でございます」
第三王子は、わずかに首を振った。
「まだ、始まりです」
……そう。条約は紙。運用して初めて意味を持つ。それを分かっているからこその、あの温度。
侯爵は満足げにうなずく。
「学院設立は、いかがですか?」
問いは柔らかいが、探る色もある。
第三王子は答えた。
「難しい所もありますが、良くしたいです」
嘘は言わない。理想だけも語らない。
侯爵は一瞬、第三王子を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「そのお言葉があれば、十分でしょう」
私は、隣で沈黙していた。
侯爵は小さく呟いた。
「……やはりな」
第三王子は聞き返した。
「何か?」
彼は苦笑する。
「殿下のようなお方が、我が国におられたなら、と」
――あらあら。それは、冗談ではない?
「それは過分な評価です」
「いえ。本心でございます」
一瞬、間が落ちる。
「王家とは血統でございますが、国家を動かすのは思考です。……思考を持つ殿下は、宝です」
私は、わずかに視線を動かす。
その言葉は称賛であり、同時に確認だ。
「条約も、学院も」
侯爵は続ける。
「殿下は、戦わずして勝つ道を設計なさる。そういう方を、人は手放したくないものです」
第三王子は静かに答えた。
「私は、私の国の者です」
その言葉に、侯爵は満足げに微笑む。
「それがまた、惜しい」
惜しい。そうね。あなた方にとっては。
私は静かに思う。侯爵は、計算している。
あの王子が我が国にいれば、どれほどの利益になるかを。
だが同時に、理解もしているはずだ。
他国の王子を望むことが、どれほど危ういかを。優秀な人材ほど、国境を越えて価値を持つ。
だからこそ――軽々しく望んではならない。
私はただ、何も知らぬ顔で微笑んだ。
「失礼いたします!」
回廊の静寂を破り、近衛が膝をついた。
エリシアの眉がわずかに寄る。
「申せ」
「前線より急報。敵が丘より後退したとの報を受け、好機と見て進軍いたしました。しかし――」
近衛の喉がわずかに鳴った。
「それは偽退でございました。敵は川上へ兵を伏せ、我らを誘い込んだのです」
エリシアの眉がわずかに寄る。
「敵の逆撃を受け、川上を制圧されました。橋は落とされ、各隊は分断寸前にございます」
空気が凍る。
「各個撃破も……時間の問題かと」
エリシアの顔から血の気が引いた。
「……どう、立て直す」
その声は冷静だったが、ほんのわずかに掠れていた。
「軍議が始まります。急ぎ戻らねばなりません。王女殿下、案内はここまでで。失礼いたします」
踵を返そうとした、その時。
「差し出がましいが」
私は静かに言った。
「その軍議、私も同席させていただけませんか」
エリシアが振り返る。
「これは我が国の戦です」
「承知しています」
私は一歩も引かない。
「ですが、目の前で困っている同盟者を、見ているだけというのも……性に合いません」
一瞬の沈黙。
「許されるなら、ともに考えさせてほしい」
その声に、打算はなかった。
エリシアはわずかに目を伏せ――そして言った。
「……参りましょう」




