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やがて今日の議論は収束へと向かった。
条件の擦り合わせ、文言の修正、運営開始時期の確認。しかし、保留の件もあった。
形式上の合意は整えられ、記録官が筆を走らせる音だけが室内に残る。
「本日の協議は以上といたします」
宰相の低い声が告げた。
椅子が引かれ、重臣たちがゆっくりと立ち上がる。
扉が開かれ、控えていた近衛が一礼する。
私は席を立ち、軽く頭を下げた。
「本日は貴重なお時間をいただき、感謝いたします」
エリシアもまた、形式通りに応じる。
「今後とも、建設的な往来を」
互いに礼を交わす。
それ以上の言葉はない。私は退室した。
重厚な扉が、静かに閉じた。
――その瞬間。
室内の空気が、変わった。廊下を進む足音が遠ざかるのを確認してから、宰相が口を開く。
「さて」
低く、重い一言。円卓を囲むのは、大国の重臣のみ。先ほどまでの“象徴”は消え、残ったのは血統と既得権を守る者たちの顔だ。
「平民登用は認められませぬ」
老侯爵が即座に言う。
「一割といえど前例となる。いずれ拡大を求められましょう」
騎士団長が腕を組む。
「だが、完全に退ければ条約に亀裂が入る。姉妹学院の件もある」
宰相は静かに卓を叩いた。
「平民登用の是非を論じているのではない。
今、それを認める余力が我が国にあるかが問題だ」
視線が、卓の一角へ向く。エリシアは沈黙している。老侯爵が杖を打ち鳴らす。
「なぜ、そこまでする必要があるのだ、殿下!」
エリシアは一歩も退かない。
「条約は、象徴ではなく構造であるべきだと申し上げました」
だが、怒声は収まらない。
「姉妹学院など認めれば、小国は力を得る!」
「その上、平民登用だと? 二重の譲歩ではないか!」
そして、ついに一つの声が上がった。
「――殿下」
宰相だった。
低く、だがはっきりと響く。
「姉妹学院を認めること自体が、我らにとって大きな譲歩。平民登用まで受け入れれば、貴族の威信は地に落ちます」
一拍。
「もし平民登用をなさるなら――それは小国側のみとされよ」
議場が静まる。
「我が国の学院は、あくまで貴族子弟に限る。血統は責任の証。その原則は動かさぬ」
重ねるように声が続く。
「さもなくば、姉妹学院そのものを認めるわけにはいかぬ」
事実上の、最後通牒。
姉妹学院は必要だ。一方にのみ置けば、力は偏る。偏りは、いずれ亀裂になる。
だが――平民登用までを同時に通すのは、まだ早い。
あの第三王子は言った。血ではなく、才を取り込む構造を、と。
理に適っている。だからこそ、火種になる。
議場の視線が、すべて彼女に集まっていた。
条約を守るか。理想を押し通すか。それとも、どちらかを切るか。
長い沈黙の末、エリシアは口を開いた。
「……承知いたしました」
空気が揺れる。
「我が国の学院は、従来通り貴族子弟に限ります」
ざわめきが、安堵へと変わる。
「ただし、小国側の学院においては、能力に応じた登用を妨げません。これは条約の範囲内と解釈いたします」
静かな声だった。だが、それは明確な線引きだった。
こうして。姉妹学院は設立される。
だがその内実は異なる。
身分に固執する大国の学院。才に門戸を開く小国の学院。同じ理念を掲げながら、異なる運営。
均衡か、分断の芽か。
散会後、誰もいなくなった議場で、エリシアは小さく息を吐いた。
姉妹学院許可までが、やっとだった。
……あの第三王子め。平民に道を開けと、軽やかに言う。だが、血統を守る壁の重さは、この国で受け止めねばならない。
それでも。
小国に芽は蒔かれた。
それがいずれ、何を生むのか。
「――厄介な構図を残してくれましたね」
静かな呟きは、石壁に吸い込まれていった。
議場を後にし、石造りの回廊に出たとき。
夕陽が高窓から差し込み、床に長い影を落としていた。
エリシアは足を止める。そのとき、背後から足音が一つ。振り返らずとも分かる。側近のものだ。
「殿下」
低く、抑えた声。彼は周囲を確かめると、そっと身を寄せた。
「国境付近の緊張が、限界に近づいております。小競り合いが拡大する恐れあり。……まもなく、火の手が上がるやもしれません」
一瞬の沈黙。予定にはなかった報せ。だが、想定の外というわけでもない。
エリシアはゆっくりと息を吸う。
「……そう」
それだけを言って、視線を夕陽へ向ける。
国境は、もともと燻っていた。物資を集め、防備を固め、同盟を確かめていたのは事実。
だが、今この瞬間に火が上がるかどうかは――運の領域だった。そして、火は上がろうとしている。
「都合がいいわ」
側近が目を伏せる。
「第三王子は、まだ王城に?」
「はい。条約関連の日程が残っております」
「ならば変更は不要。むしろ、安全確保のため城内滞在の意見を国王に申請せよ。国境が不安定な状況で、賓客を動かすわけにはいかないでしょう?」
声音は穏やかだった。だが命じているのは、実質的な足止め。戦端が開けば、王子は動けない。条約の名の下に保護され、同時に拘束される。
偶発的な緊張の激化。それに伴う安全措置。
誰も、そこに意図は見ない。
「……承知いたしました」
側近は深く一礼し、去る。エリシアは再び歩き出す。
最初は、こちらが優位に立つはずだった。
あの条約。名目は対等。だが実際には、小国に不利な条件を呑ませる構図。
そのはずだった。だが。あの第三王子が、盤をひっくり返した。
今回は、姉妹学院。才の登用。構造の均衡。
理を突かれ、押し切れなかった。
貴族会議を宥め、譲歩を重ね、ようやく形にしたのは、痛み分けに近い妥結。
――してやられた。
だが。それで終わりではない。
エリシアの唇が、静かに歪む。
あの第三王子が、未来の形を描くのなら。
私は、この時をどう使うかを選ぶ。
前から懸念していたあの国との戦争。それは予定ではない。だが――利用はできる。
「簡単には、帰れなくてよ」
囁きは、夕陽の中に溶けた。
石壁に映る影は、揺らがなかった。
そして――彼女は微かに、口角を上げた。




