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条約が結ばれてから、半年が過ぎた。
私は、かの鉱山を訪れていた。
かつては細い荷車道しかなかった山道は、いまや石を敷き詰めた街道へと変わり、大型の荷馬車が行き交っている。道の脇には、新しい宿屋と倉庫が並び、見慣れぬ数の人影があった。
鉱山長が、深々と頭を下げる。
「殿下。お陰で、山が生き返りました」
私は、崖を削るように作られた採掘場を見下ろした。規則正しく組まれた足場。増設された巻き上げ機。
「巻き上げ機が、新しくなっているな」
「はい。隣国から技術者が参りまして。採掘効率が二割ほど向上しております」
私は、わずかに目を細めた。足場の上で、見慣れぬ滑車が静かに回っている。
そのとき、鉱山長が小さく笑った。
「……とは申しますが、始めは、ひどいものでしたな」
私は視線を向ける。鉱山長は、作業の指揮を執っていた一人の男に声をかけた。
「お前、殿下に申し上げてみよ。最初にこの仕組みを見たとき、何と言ったか」
呼ばれた男はゆっくりと振り向いた。
日に焼けた肌。鋭い顎の線。無駄のない体躯。山の風に削られたような、精悍な顔立ちだった。
私の前まで歩み寄り、静かに一礼する。
「……失礼ながら、『こんなもの、使えるか』と」
低く、よく通る声だった。周囲に小さな笑いが起きる。
「歯車ばかり多く、構造は複雑。壊れれば山を止める。見慣れぬ技術に、人の命は預けられぬと考えました」
言い訳はしない。ただ事実を述べる。
「余所者のやり方に従うくらいなら、旧式で十分だ、と」
私は静かに問う。
「だが、今は違うのだな」
男は背後の巻き上げ機を振り返る。
規則正しく回る滑車。軽い力で引き上げられる鉱石。
「……力は半分で済みます。綱の断裂も減った。若い者でも扱える」
短く、きっぱりと。
「悔しいが、良い仕組みです」
その言葉に、現場を預かる者の誇りが滲んでいた。鉱山長が続ける。
「三日三晩、技術者と言い争っておりましたがな」
男はわずかに眉を寄せる。
「山を預かる以上、軽々しくは受け入れられぬ。しかし――条約がある以上、向こうも本気で技術を差し出している。我らが拒めば、約を軽んじることになる」
私は静かに息を吐いた。
恐れは、国境だけにあったのではない。未知への警戒もまた、守るための本能だ。だが守るために、変わる覚悟をした。
条文は鉄の価格を定めただけではない。人の意地と誇りにも、静かに触れていた。
巻き上げ機は、今日も揺るぎなく回り続けている。
働く人間の数も、明らかに増えていた。
「人手が増えたな」
「はい。周辺の村から若者が戻ってまいりました。賃金が安定すると聞きつけて。逃げるように出ていった者たちが、今は自ら帰ってきます」
私は、ゆっくり頷いた。
鉄の価格が条約によって固定され、さらに最低供給量が保証されたことで、鉱山の収入は安定した。
安定は、投資を生む。投資は、雇用を生む。
そして雇用は、人を呼び戻す。
「宿屋も新しく建ちました。鍛冶屋も、食料商も、皆この道沿いに店を出しております」
鉱山長は、ふと思い出したように続けた。
「……そうそう。殿下にお伝えせよと、頼まれておりましたことがございます」
私は視線を向ける。
「何だ」
「かつては出稼ぎで山に来ていた者たちが……いまは家族を呼び寄せております」
私は、わずかに目を細めた。
「呼び寄せた、か」
「ええ。賃金が安定し、通年で働けるようになりましたゆえ」
少し考え、鉱山長は言った。
「……ひとり、呼びましょうか」
私は小さく頷いた。
若い男が、落ち着かぬ様子で駆け寄る。
「あの……俺、嫁と、赤ん坊がいるんでさ」
帽子を握りしめながら続ける。
「今は、一緒に暮らせていて……」
深く頭を下げた。
「ありがとう、ごぜえました」
私は静かに言った。
「山を支えているのは、お前たちだ。家族と暮らせるのは、当然のことだ」
若者は顔を上げ、目を見開く。
私は遠くの集落へ視線を向けた。
屋根が増え、煙が上がり、子どもが走っている。
鉄は、国境を越えた。だがそれ以上に――
暮らしが、この山に戻ってきた。
かつてこの地は、「鉄は出るが、人は減る土地」と呼ばれていた。
今は違う。鉄を運ぶ道が、そのまま人を運ぶ道になっている。




