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リディアは、ようやく城へ戻った。
馬から降りた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「リディア様!」
側にいた侍女が慌てて支える。
「……大丈夫です」
そう答えたものの、声にはほとんど力がなかった。
川沿いの遊水地を抜ける際、靴も裾も泥だらけになっていた。
冷たい泥水が乗馬用のブーツに染み込み、長いあいだ冷気に晒されていた指先は、感覚がほとんどなくなっている。
城へ戻るまで、気力だけで身体を動かしていた。
自室に入ると、侍女たちがすぐに濡れた衣服を脱がせ始めた。
「……手が、震えております」
「分かっています」
リディアはそう答えようとしたが、自分の声が震えていることに気づいた。
冷え切った指先、膝の震え、歯が小さく鳴る。
椅子に座らされても、身体の震えは止まらなかった。
ようやく安全な場所へ戻った、そう思った瞬間。今まで押し込めていた恐怖が、一気に胸の奥から込み上げてきた。
もし、あの場で正体を見抜けなかったら。遊水地へ誘導できなかったら。護衛たちが斬り殺されていたら。
そして――もし、自分が連れて行かれていたら。
ふと、リディアは父との会話を思い出した。
あの日、父はいつになく険しい顔をしていた。
「いいか、リディア。これからは、必ず複数の護衛をつけて移動するのだ」
「もちろんです」
リディアは素直に頷いた。
「領主として、一人で出歩くのが危険なのは理解しています」
「……そういう意味ではない」
「え?」
父はしばらく黙ってから、低い声で言った。
「お前は、自分が襲われれば殺されるかもしれない。それだけを考えているだろう」
リディアは答えられなかった。
「だが、相手が欲しいのは、お前の命ではないかもしれない」
父の言葉に、リディアは眉を寄せた。
「お前を生きたまま攫い、どこかへ閉じ込める。そして脅して、婚姻の誓いを口にさせる」
「……婚姻?」
「教会法では、婚姻において当人同士の同意が重視される。それを悪用する者がいるのだ」
父の表情が険しくなる。
「刃を突きつけ、家族を殺すと脅し、それでも『婚姻を望む』と言わせる。後になって、その言葉だけを取り上げ、本人の同意があったと主張する」
「そんなもの……脅迫でしょう」
「もちろんだ。だが、だからこそ厄介なのだ」
父は静かに続けた。
「さらに、お前が傷つけられた後なら、相手は別の手段も使える。この社会では、女性の貞潔は家の名誉と結びついている。そこにつけ込み、『すでに男女の関係になったのだから、婚姻させるべきだ』と周囲に思わせることもできる」
リディアは息を呑んだ。
「そして婚姻が成立すれば、相手は夫として、お前の財産や領地に対する権利を主張できる」
その言葉に、リディアは初めて気づいた。
狙われるのは、自分だけではない。
この領地そのものなのだ。
「だから、護衛を増やせと?」
「ああ。お前を守るためだけではない。お前を奪われないためだ」
父はリディアを真っ直ぐに見つめた。
「だから、絶対に一人になるな」
「……はい」
あのときのリディアは、まだ父の言葉の本当の意味を理解していなかった。
だが、今なら分かる。
遊水地で自分を取り囲んだ男たち。
もし護衛を倒され、自分まで捕らえられていたら。
どこかへ連れ去られ、逃げられない場所に閉じ込められていたら。
そして、家族や領民の命を盾に、婚姻を迫られていたら――。
父があれほど必死に複数の護衛をつけろと言っていた理由が、今になって胸に突き刺さる。
自分が知らなかっただけなのだ。
女領主である自分の身柄そのものが、領地を奪うための道具になり得ることを。
夜。静寂の闇に、蜜蝋が僅かな光を描いていた。
レオンハルト陛下から贈られたマントをリディアは身体にそっと掛けた。
厚手の布が肩を包む、それだけだった。
彼がいるわけではない。声が聞こえるわけでもない。助けに来てくれたわけでもない。
それでも、リディアは、マントの端を両手で握った。
「……怖かった」
誰にも聞かせるつもりのなかった言葉が、唇から漏れた。
そして次の瞬間、一粒の涙が頬を伝った。続いて、もう一粒。
今まで必死に耐えていたものが、堰を切ったように溢れ始める。
マントを握りしめながら、何度も小さく息を震わせた。




