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私は領主として、また、この地が国を発展させる礎になるように、と力を注いできた。
結果が見えつつある、と感じ始めた頃にそれは起きた。
それは、ひとつの緊急報告だった。
――麻酔に用いる阿片の使用量に異常あり。特定の医官によるもの。
古参の医官で、長く仕え、信頼も厚い人物だ。軽々しく疑う類の話ではない。私は、詳細の報告を求めた。
上がってきた記録は整っていた。整いすぎている、と言ってもいい。使用量、日付、対象
、すべてが丁寧に記されている。けれども。
「……ここだな」
指でなぞったのは、一人の名。
とある伯爵への処方記録。
――歯痛のため、阿片投与。
それ自体は珍しくない。だが問題は、その「期間」と「量」だった。
「長すぎる」
歯の痛みであれば、通常は数日。長くとも処置までの間だ。だが、この記録は違う。断続的に長期間、しかも。
「量が、微妙に多い」
致命的ではない。だが、確実に“効きに慣れる”量だ。
「……歯を抜かぬのも、不自然だな」
痛みがそれほど続くなら、抜歯の段階に入っているはずだ。
「普通に問いても、逃げるでしょうね」
マルクが低く言う。
私は、机の上の小さな印章を指で弾いた。
「例の商人に回す」
マルクの視線が、わずかに上がる。
「あの者に、ですか」
「“耳”は多い方がいい」
それ以上の説明は不要だった。
数日後、戻ってきたのは書簡ではなく、直接の報告だった。商人は静かに頭を下げる。
「ご依頼の件、確認いたしました」
余計な前置きはない。
「伯爵家に出入りする薬の量は、記録と一致しております。ですが、使用者が一致しておりません」
私は、視線だけで続きを促した。
「阿片は、奥方様の居室に運ばれております。頻度は増加傾向、従者は複数おりますが、受け渡しは特定の者に固定」
淡々とした声が、事実だけを並べる。
「医官は?」
私が問う。
「承知の上で記録を整えております」
即答だった。
沈黙が落ちる。
「……以上です」
商人は、それ以上何も言わなかった。
商人が退室した後、私は小さく息を吐いた。
「……耳としては、十分だな」
マルクが頷く。
「ええ。ですが――」
「見て、選び、決めるのはこちらだ。……逃げ場を潰す」
私は短く告げた。
まず、医官には何も伝えない。そして。渡す「時間」と「経路」を洗うと、偏りが見えた。特定の日、特定の従者が確かに受け取っている。
「この者だ」
伯爵家付きの従者。
その従者を呼び出し、問いただす。最初は口を閉ざしていたが、薬の供給停止を匂わせると、あっさりと崩れた。
「……奥方様にございます」
静かな声だった。
事実は簡単だった。ある日、伯爵は自らの歯痛のために処方された阿片を、妻に与えた。頭痛に苦しむ妻を見かねてのことだった。
それは、あまりに効いた。痛みは消え、思考は軽くなり、身体は楽になる。その“救い”を、一度知ってしまった。
「……もう一度」
そうして、求めるようになった。最初は少量。やがて間隔が縮まり、量が増える。
伯爵はそれに応えた。医官もまた、理由を知りながら、記録を“整えた”。
「……なるほどな」
私は、息を吐いた。
「面会を求める。伯爵と、その妻だ」
通達を出すが、返答は、拒否だった。
――夫人は体調不良により面会不能。
予想通りだ。
「では、こう伝えろ。阿片の処方を本日限りで停止する」
私は、淡々と言った。間を置かず、返答が来た。
――面会を受け入れる。
「……分かりやすいですね」
マルクが小さく呟く。私は何も言わず、席を立った。
通された部屋は、薄暗かった。窓は閉ざされ、空気は淀んでいる。伯爵は疲れた顔をしていた。そして、その隣に夫人がいた。
「……」
視線を向けた瞬間、違和感は確信に変わる。
顔色は不自然に青白い。唇は乾き、わずかに震えている。目は、焦点が定まらない。
こちらを見ているようで、見ていない。そして。
「……薬は」
かすれた声が漏れた。
「今日は、持ってきてくださったのですか」
その一言に、すべてが詰まっていた。
指先は落ち着きなく動き、衣の端を握っては離す。呼吸は浅く、速い。落ち着こうとして、落ち着けていない。
「頭が……痛むのです」
訴える声は切実だ。けれど。
「……まだなの?」
小さく、苛立ちが混じる。
痛みそのものよりも、「与えられないこと」への焦燥。私は、静かに言った。
「処方は止めた」
夫人の目が、大きく見開かれる。
「そんな……」
次の瞬間、顔が歪む。
「お願い……少しでいいの……」
声が揺れる。懇願に変わる。
「頭が割れるように痛いの……何も考えられないの……」
伯爵が、目を伏せた。
「……違うな。それは“痛み”ではない。欠乏だ」
私は、淡々と告げた。
部屋の空気が凍り、夫人の指が、ぴたりと止まった。
医官は、即日、医師免許を剥奪した。あわせて領地からの追放を命じる。
情は挟まない。挟めば次が崩れる。伯爵と伯爵夫人は、王都へ搬送することにした。
伯爵位は軽くない。私一人で結論を出すべき事案ではない。
「準備を」
短く命じた。
馬車は揺れながら、街道を進んだ。最初の異変は、半日も経たぬうちに現れた。夫人の指先が、落ち着きなく震え始める。何かを探すように、衣の端を繰り返し掴んでは離す。
「……寒い」
そう言った直後、額には汗が浮かんでいる。
呼吸は浅く、速い。瞳は定まらず、時折、意味のない方向へと向けられる。やがて。
「いや……いや……」
小さな声が、漏れた。身体が小刻みに震え出す。背を丸め、腹を押さえ、歯を食いしばる。
「頭が……割れる……」
呻くような声。しかし、それは“痛み”だけではない。
「来る……来る……」
何かに追われるように、視線が揺れる。現実と、内側の何かが混じり始めている。伯爵が、その手を取った。
「大丈夫だ、すぐに着く」
だが、その声は震えていた。夫人は、すがるように見上げる。
「……お願い」
掠れた声。
「少しでいいの……ほんの少しで……」
その言葉に、伯爵の顔が歪む。
「殿下……!どうか……どうか、与えてください……!」
涙が落ちる。
馬車の中に、重い沈黙が落ちた。
与えることは、簡単だ。だが、それは同時に続けるということでもある。
「……」
私はしばし目を閉じ、そして決めた。
「最低限だ」
夫人の様子を見極めながら、ぎりぎりの量を投与する。知識は無いが、突然止めるのは危険だと感じた。
震えはわずかに収まり、呼吸が整う。だが、それは“治った”のではない。ただ、先送りにしただけだ。
私は伯爵を見た。
「王都に着いたら、もう少し厳しくする」
はっきりと告げる。
伯爵は、何も言えず、ただ深く頭を下げた。
王都に着くと、すぐに動いた。
国王、王妃、そして兄に面会を求める。事の経緯、こちらの不手際、医官の処分、そして夫人の状態。
すべてを、隠さず報告した。
「中毒患者として、治療を行いたい」
最後にそう述べる。
阿片の扱いは厳重に改めるべきだと。静かなやり取りの後、王は頷いた。
「……会おう」
その面会は、公にはされなかった。
夜、人払いされた一室。伯爵と夫人は、控えめな灯りの中に座らされていた。
夫人は、すでに落ち着きを失い始めている。視線は揺れ、指先は止まらない。
扉が開き、国王、王妃、そして第一王子が入ってくる。
伯爵は即座に膝をついた。夫人もそれに倣おうとして、体が言うことを聞かない。
「……そのままでよい」
王の声が、静かに落ちる。
王妃は、夫人を見た。その目は厳しく、同時に、深い憂いを含んでいた。
兄は、一歩前に出る。何も言わず、ただ、夫人の様子を観察する。すべてを見逃さない。
誰も、言葉を発さなかった。否定も断罪も、慰めもない。ただ、事実だけがそこにある。
私は、その中で口を開いた。
「私が扱う阿片は、人を治しますが――壊しもします」
視線を、まっすぐに向ける。
「取り扱いには、細心の注意を」
誰も、すぐには応じなかった。
だが、その沈黙こそが、答えだった。




