第14話「みぃつけた④」
皆さんは、柳田國男という人物をご存じだろうか。
柳田は戦前日本の官僚であり、東京帝国大学法学部を卒業後、当時の貴族院書記官長(現在の参議院事務総長)まで昇り詰めたエリートである。
しかし、彼の名が知れ渡るのは政治家としてではなく、民俗学者としての側面であろう。
列強諸国が群雄割拠する帝国主義の時代、学問もまた帝国主義的統治手法に重宝されてきた。
その時代のうねりで産み落とされ、興隆したのが、文化人類学である。
文化人類学とは端的に言えば、人間の社会的・文化的側面に焦点を当て、フィールドワークという手法を用いて異なる文化や社会の共通点と相違点を明らかにし、人類全体の理解を深める学問である。
そのうち、地域の土着文化や信仰、習慣、思考様式の解明を図るのが民俗学と言えよう。
つまり、植民地主義が支配する当時の世界情勢において、文化人類学、ひいては民俗学とは、より効率的かつ確実的に、他文明社会を植民地化するプロセスを助長したのである。
これが今日、植民地主義の反省を契機として開催される世界経済フォーラム―――通称ダボス会議まで尾を引く、コロニアリズムの始まりであった。
その意味で柳田の研究は、旧大日本帝国の台湾統治に利用された側面がある。
だが今日まで続く彼の名声は、決して当時の体制翼賛によるものではなく、その時代背景を勘案しても極めて先駆的である、純粋な民俗学者としての名声であろう。
それは何故か。
俺が思うに、一つの答えは、彼の代表的著作『蝸牛考』と『東野物語』の存在だ。
明治政府の教育勅語発令以前、日本の各地域で話される言語は分断されていた。
今日的な視座では、それは方言として未だに残滓していると言えよう。
『蝸牛考』とは、カタツムリの呼称問題を一例に、近畿地方では「デデムシ」、中部中国地方では「マイマイ」、関東四国地方では「カタツムリ」、東北九州地方では「ツブリ」と呼称変化している点に着目し、各方言が京都を軸とした同心円状に分布しているのでは、という仮説を提示した論考である。
これは、コトバの変遷が中核から周辺にかけていく様相を捉えており、山間僻地の方言が、古い時代の有所ある中央語だった可能性を論証しようとする試みであった。
実際、『蝸牛論』は民俗学における言語学的アプローチとして非常に示唆に富んでおり、極めて興味深い論考ではあるのだが、残念ながら今日の学説としての支持は高くない。
もちろん、アンチテーゼとして民俗学の弁証法的発展には多大に貢献しており、柳田國男の名声を一躍揚げた著作と言ってよかろう。
とまあ、それはさておき。
実は、前世で俺が興味を惹かれたのは『東野物語』の方である。
『東野物語』は、現在の岩手県東野市を中心とした一帯の民族伝承をフィールドワークした著作だ。
同書の序章には、「如何に出版が容易になった明治時代とはいえ、当たり前過ぎることを書物に記録するなんて無作法だ」とする当時の庶民感覚を反駁し、土着の文化や風習こそ記録されるべきだと記されている。
ここにも柳田の先見性が現れていると言えようが、俺が何より衝撃を受けたのは、その題目だった。
それは、現代の日本社会でも、広く周知されているような有名どころの怪異。
つまり、座敷わらしや天狗、雪女に河童など、創作物や物語によく登場する妖怪は、そのルーツを辿ると、実は『東野物語』が初出なのである。
柳田國男とは、小泉八雲と並び、フィクション界隈における妖怪・怪異の原作者なのだ。
しかし、本当に驚愕なのは『東野物語』では、これら妖怪以外に、俺が今まで創作物で見たことも、伝聞で認知したこともないような怪異が、他にも多数いる点だ。
この衝撃の意味が分かるだろうか。
僅か百年少しではあるが、現代に至るまで人々に名前が記憶された怪異と、時代変遷の過程で忘却された怪異。
『サピエンス全史』で有名なノア・ハラリが指摘した通り、人間は虚構を信じる力によって団結でき、弱肉強食の食物連鎖の外側に飛び出した。
同様に、古来より村社会における恐れや危険事象への対応策として怪異が成立したのであれば、その原因となる恐れや危機事象が社会発展と共に薄れたことで、怪異も忘却されたのかもしれない。
しかし、怪異が科学的に存在しないと、本当に証明できるのだろうか。
少なくとも、俺は今こうして異世界転生を果たしているわけである。
異世界転生は、前世の世界において科学的に証明できるのか、その答えはNOであろう。
ともすれば、怪異の成り立ちとは、原因―結果論で容易に棄却してしまって良いのだろうか。
こちらも反語となり、答えはNO、または分からないだ。
さて。ここまで来れば、俺の言いたいことも分かってもらえるかもしれない。
異世界転生を果たした時、俺は一つの疑問を抱いた。
一般的に、人は二度死ぬと言われる。
一度目は、生命活動を停止した時。
二度目は、周囲の記憶から完全に忘却された時だ。
この世に自分が生きた形跡が失われた時、人は完全に死を迎えるというわけだ。
それで、俺は思ったのだ。
忘却された怪異たちは、二度目の死を果たしているが、彼らは一体どこに行くのだろうか。
前世で一度目の死を迎えた俺は、二度目の死は迎えていない。
にもかかわらず、異世界に転生を果たした。
それでは、既に二度目の死を果たした彼らは―――
もしかしたら、彼らもまた異世界に転生しても不思議ではないのでは、と。




