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第12話「みぃつけた②」

 得体が知れない未知の恐怖に直面した際、人の身体に生じる本能的な反応は、硬直だ。

 熱い冷たい、そんな直接的な神経反応に落とし込めれば、生命が何万何億年と積み重ねて獲得してきた脊髄反射が機能するだろう。

 しかし理性、すなわち観念で味わう恐怖とは、思考の空白化。現実からの逃避に他ならない。


 現実的には1秒にも満たないその刹那、俺の頭では数十秒も経過したかのような錯覚の後、振り返ると、そこには『誰』もいなかった。

 いや、正確には『何か』がいたのかもしれないが、今となっては確かめる余地もなかった。


「おい、何をしている!早く逃げるぞッ」


 フランツの怒号が、この生い茂る山林の斜面下方から聞こえた。

 何をするべきか、遅れてくる思考の波よりも先に、身体に染み込んだ恐怖が応じてくれたのは幸いと言うべきか。

 俺たちは一目散で、この場から全力で立ち去る。


 そこから先のことは、あまりよく覚えていない。

 隣にいたシャルロットに腕を引かれていたような気もするし、そうでなかった気もする。

 しかし、全員無傷で岸辺までたどり着けたのは幸運であった。


 ―――俺たちは結局、何者にも遭遇することなく、海岸の小舟に辿り着くことができたのだ。

 そして、ようやく安堵の一息をつけたのは、小刻みに震える身体を海上で揺蕩いながら、島が沈みゆく夕日と重なるのを見たときであった。

 何もかも朧気で、現実感がなかった。恐怖後特有の、あのふわふわとした夢心地だった。


 船上では長らく沈黙が支配していた。

 

 空気が重く、何だか妙に息苦しく感じる。

 皆、直前に体験した恐怖で、まだ警戒感を解かずにいるのだろうか。

 意を決し、俺は閉ざしていた口を開き、疑問を投げかけることにした。


「...結局、あの怪奇現象は何だったんですかね」

「...さぁ。冒険者組合の報告書には適宜目を通しているが、迷宮はまだまだ謎が深い。今日もまた、人類の理解が及ばない不可思議が一つ起きただけだ」


 フランツは去り行く繭島を遠目に、そう呟く。

 船尾で舵を取る彼女は、淡々と自らの仕事に取り組んでおり、その声には感情がなかった。

 何度も迷宮と生死のやり取りを重ねる彼女にとっては、この怪奇現象も他愛のない日常茶飯事なのだろうか。


「ラクラウさんもご存じないですか」

「ああ。わしも知らんことのほうが多いさ」

「そうですか...」


 それは、歴戦のドワーフもまた同様であった。彼もはるか遠くを眺めており、その表情を伺うことは叶わない。

 それなら、いつも強気のイブはどうだろうか。

 

 そう思って、白眉の狐を探すが―――彼女は船上にはいなかった。


「....え?」

「どうしたの、ファムくん。そんなに慌てなくても、もう大丈夫だよ。」

「え、いやッ。だって! イブさんがどこにも....」


 俺は声を荒げ、おかしいと叫ぶ。

 先ほどから続く気持ちの浮遊感が、違和感が、空気の重さが、どれも一層深刻に心臓を締め付け、安堵の世界が暗転する。 


 全身が酸素不足で、肺が潰されるような息苦しさに悶えるが、声は出ない。

 目を覚ましてくれ!気づいてくれ!俺たちは攻撃されているのかもしれないッ!


 そんな言葉にならない叫びを繰り返し、優しい声音で俺を宥めるシャルロットに訴える。

 みんな気が動転して、イブを置き去りにしてしまったのだろうか。それならすぐに引き返さないと大変なことになるはずだ。

 しかし、何故こうも落ち着いていられるんだ!なぜッ...!


 隣に座っているシャルロットの袖を掴み、ふと顔を上げた瞬間だった。

 

「―――ッッ!!!」


 それは、悪夢であった。

 いつも優しい目で宥めてくれる彼女の顔が、怖気立つほど醜悪に歪曲していた。

 綺麗な二重が特徴であるパッチリとした彼女の瞳が、驚くほど肥大化しており、顔面の大半を占めるよう他のパーツを押し出している。その押し出された耳鼻咽喉部位は焼けたように垂れ下がり、今にも彼女の膝上から覗き上げる俺の顔に滴ってきそうな、流動体を形成している。そして極めつけは、左右から強圧力を受けたかの如く、顔の輪郭が細長い線状形に握り潰された様相を呈していた。


 俺は声なき悲鳴を上げるが、船上では沈痛が虚しく轟くばかりで、何の変化を齎すことはなかった。

 波で小舟が軋む音、夕暮れ時の蜩の鳴く声が、白黒の世界で無常に流れるのみであった。


「―――」


 冒頭の繰り返しになるが、観念的恐怖とは、生存本能を脅かされた際の反射反応と異なる。

 現代社会では人間工学の技術革新にて、人間を模したロボットの産声がけたたましく叫ばれるが、技術者は不気味の谷と呼ばれる現象に悩まされてきた。

 これが虚構(フィクション)であれば、安全地帯から谷を観察するに留まれただろうが、残念ながら俺自身も一緒に谷の中で蠢いているのだ。


 怪異という、おおよそ人の理性および観念を打ち砕く根源的恐怖に直面した際、人は現実から逃げ切れるだろうか。

 答えはYesだ。ただし、それは思考の空白化―――すなわち意識の離脱という、生存本能を切り離す本末転倒な方法で、だが。


 ―――薄れゆく意識のなか、軍服と老戦士の二人も醜悪で歪んだ笑みをこちらに向けていた。




ーーー




 私の意識が覚醒したとき、眼前に映ったのは一つの祭壇だった。


 周囲を見渡しても誰もおらず、見たことがない古い家屋様式の内部に自分が倒れていたということは推察できたが、それ以外は不明慮。

 家屋の窓から外界を眺めると、そこは月明かり一つない暗闇。夜であることが分かったぐらいか。


 また、怪しいこの場所から急いで逃げようとするも、身体は思うように動かず、麻痺しているかの如く全身に痺れを感じた。

 この身体では、精々芋虫のように地面を這うので精いっぱいだろう。


 仕方ないので視点をずらし、眼前の祭壇を再度見る。

 古めかしい木製の祭壇の中には、何重にも衣類を羽織ったヒトが二体いた。

 いや、よく見るとヒトではない。人形だ。

 祭壇には、二体一組と思わしき人形が祭られているのであるが、その顔はひどく不気味に彫られていた。 


「...まぁ迷宮都市で信仰されている宗教、ではないよな」


 まだ朧気である脳味噌を叩き起こし、特に注視してみると、片方は真っ白な顔に細目で歯が黒く塗られた像。

 もう片方は顔の造りが人間を模しているものとは思えず、獣のように鼻口が突き出た造りになっている。顔を真っ白に塗られた前者と異なり、後者の像は特段何も塗られていないのか、表面に木材の節目のようなものが見えることから、おそらく原材料は木材。それもかなり素朴な造りであるため、何の獣か特定はできなかった。


 これが迷宮都市ならび大陸で広く信仰されている宗教のご神体、すなわち女神様を模しているものとは到底思えない。

 一体、誰が何のためにこの不気味な像を祭っているのか。

 そしてここは何処で、皆は無事なのか。

 

 瞬時にして多様な疑問や懸念が沸々と湧き出るが、フランツ・フェルディナンドは深呼吸して、冷静に状況整理に努める。


 まず意識が途切れる直前の記憶。

 それは、迷宮探索中に立ち寄った繭島の山林、突如として出現した謎の家屋。生い茂る森林で差し込む日光が乏しい中、仄かな火の明かりと炊煙の立ち昇り。

 これが迷宮外であれば、盗賊のアジトかと警戒するに留まるが、ここは迷宮である。

 明らかな異常事態だと判断した自分と仲間たちが、一斉に撤退を決めた瞬間であった。


「―――」


 しかし、記憶を辿っても行き着く先は断絶だった。

 最後の記憶と現在自分が置かれている状況に整合性がないのだ。

 

「強いて言えば、ここは謎の家屋の中...ということか?」


 改めて周囲を見渡すと、家屋中央は床から一段下げて造られており、灰のような粉が溜まっている。

 その一角には木々が焚べられており、煙がゆらゆらと天井へ延びていた。そして、天井から吊るされた粥窯のようなものがグツグツと煮えているが、やはり誰かがいる様子はなかった。


 粥窯から溢れ出した汁が炎に滴り、水蒸気へと気化する音が室内に響き渡る。


 不可解極まりないこの状況に、フランツ・フェルディナンドは恐怖する。


 しかし、彼女が何より畏怖するのは、先程まではこのような粥窯や煙は『無かった』はず、という点である。

 いかに意識が覚醒した直後とはいえ、熟練冒険者として警戒心が強く、些細な変化に敏感な彼女が、こんな大きな物的事象を見逃すはずがなかった。

 

 それが意識を向けた途端、粥窯や炊煙が出現した。

 因果関係としておかしな話である点は重々承知であるが、自身のいる場所が謎の家屋ではないかと推察した結果、直前の記憶にあった炊煙から連想されて、これらの物的事象が出現した。

 自分の注意力がよほど散漫になっていない限り、そう思わざるを得ない。

 内心は眉唾程度に考えながらも、彼女は大胆な仮説を置いてみることにしてみた。


「仲間はここにいる。そうだよな?」


 フランツは、離れ離れになったと思われる仲間たちを想起する。

 自分が気を失ってから如何ほど時間が経過したのか、残念ながら推測する余地はないが、現に彼らはこの場所にいない。

 もしも先の仮説が正しいのであれば、彼らを思い浮かべることで、この場所に出現させることはできないのか。


 藁にも縋る思いであったが、果たして仮説は検証された。


「ふげっ」


 そんな気の抜けた声と共に、驚くべきことに虚空からシャルロットが墜ちてきた。

 彼女は盛大に尻もちをついてしばらく悶絶していたが、ハッと我に返ったかと思うと、強打したおしりをイタタと擦りながら立ち上がった。

 

 フランツは何だか悪いことをしたかなと思いつつも、その様子を見て一息つくことができた。

 何はともあれ、一人の仲間の無事を確認できたのである。喜ばしいこと限りない。 


 しかし、彼女の内心では、同時に他の仲間がいない焦りも生じた。

 確かに仲間を想起する際にシャルロットを念じたのは事実であるが、そこに誰かを特に強く念じる等の優劣性はなかったはずだ。

 であるならば、イブ、ラクラウ、それにファムがいないのは何故だろうか。

 想像したくないが、まさか自分が気を失って以降、最悪の事態が起きてしまったのか。

 

 彼らの身を案じ、再度仲間を想起してみたが、結果は変わらなかった。

 ここには情けなく床を這いつくばる程度にしか動けない自分と、杖を構えながら恐ろしい顔で見つめてくるシャルロットしか―――


「ひっ!う、動かないでくださいッ!そっちがその気なら、わたし、う、打ちますからね!」

「蠕□▲縺ヲ」


 そこで、初めて気が付いた。

 私の身体は麻痺して動けなかったんじゃない。

 全身が痺れて、地面に伏していたわけではない。


 私が、醜く大きな蚕になってしまっていたことに、そこで、初めて気が付いたのだ。



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