第6話「銀貨の背後に隠された冷えた流通網」
三倍の量を買い込んでいたはずの最高級の砂糖は、連日の爆発的な売れ行きにより、わずか数日で底をついてしまった。
嬉しい悲鳴どころか、これは商機を逃す致命傷になりかねない。
広場を埋め尽くす多様な人種のざわめきと、香辛料のむっとする強い匂いは、いつ何度訪れても市場が巨大な生命体であることを思わせた。
午前の少し落ち着いた太陽が照りつける中、タクミとルミナは手押し車を転がしながら目的の問屋街へと歩みを進める。
周囲を見渡せば青い果実や山のように積まれた岩塩はいつも通り豊かに溢れているが、タクミの中に何か小さな違和感が引っ掛かる。
すれ違う大商人と思われる装具を身に付けた男たちが、時折ルミナの顔を見てはふいと不自然に視線を逸らすのだ。
「不思議ね。今日は紅魔豆を山積みしている店が見当たらないわ」
ルミナが大通りの入り口を左右に見渡して首を傾げた。
家畜の飼料としての取引が大きいため本来であれば泥だらけの麻袋が一番手前に投げ出されているはずのものが、今日は綺麗に片付いている。
タクミの手が車輪から離れ、少し顎に手を当てた。
「ええ。それに砂糖や小麦粉を量り売りしている主要な店の入り口の色が……活気がない」
なじみにしている大きな穀物問屋の看板の下で、女主人が手持無沙汰に外を眺めていた。
ルミナが気丈に近づき、いつも通りに声を張る。
「こんにちは。今日は紅魔豆をまるごと八袋と、東南で採れた最上の砂糖を樽で二つお願いできますか」
女主人はその声を聞いた瞬間に顔をしかめてビクッと両肩をすくませた。
こちらに視点を合わせようとせず、自身の荒れた両手を汚れた前掛けでしきりにこすり始める。
「……悪いね。お嬢ちゃんとこの注文は、今日からこの店では受けられなくなったんだ」
その言葉は予想もしていなかった角度からルミナの胸元へ突き刺さった。
彼女は理解が追いつかない顔で、手に握った重い銀貨の袋を見せる。
「お金ならちゃんと持ってきています。前のツケも払ったし、何も迷惑は……」
「金の話じゃないんだよ」
女が低い声で遮り、周囲に聞こえないような小さく震える響きで言い募った。
「あんたの店が飛ぶように売れている平べったい魔法の菓子。あれのおかげで、貴族向けの老舗の焼き菓子屋や、中流でそこそこうまくやっていた菓子ギルドの連中の売上が半分以上吹っ飛んだ。それに関わっている黒金の秤から、今朝正式なお触れが出ちまったんだよ。新参の店に物資を流す裏切り者は組合として扱わないってね」
言葉の意味を噛み砕く間、タクミは女の言葉の裏にある理屈を急速な回転で頭に浸透させていった。
この市場の流通は、一つの巨大な利益至上主義という生き物の胃袋で管理されていたのだ。
末端の小売店一つがいきなり大きな金と評判を独占し、既存の生態系に対して無配慮に成長することは、上位に座するギルドや豪商にしてみれば体制の崩壊をもたらす秩序への裏切り行為となる。
それは物理的な刃物や乱暴さを持たないかわりに、問屋という命の血管を一瞬にして止める、冷徹極まりないビジネスによる弾圧であった。
「なによって。そんなの彼らの焼き菓子が口に合わないから、みんなこっちに来ただけじゃない! 私が両親を亡くしてギリギリで日をつないでいた時は誰も助けてくれなかったのに!」
「商売ってえのはそういうもんだろうが。大元を統括するギルドの許可証を持たずに頭を持ち上げりゃ、真っ先に刈り取られるのが道理ってもんだよ」
冷たい問答を制したのは、背後から近づいてきた重みのある複数の足音だった。
靴底に打ち付けられた金属が、石畳に嫌な甲高い摩擦音を響かせている。
振り返るとそこに立っていたのは、身ぶりの大きな青褐色の外套を羽織り、胸元に秤の形をした豪奢な徽章をつけた三人の男たちだった。
先頭に立つ少し垂れ目の男が、薄い唇を吊り上げながらルミナを見下ろしていた。
「市場の仕組みを良く分かってくれたようで何よりだ。うちは正当な商人の権利を護る組合だからな。新参の野良犬どもが許可もなく相場を荒らすのを静観するほど、呑気でも優しくもないわけだ」
刺すような嫌悪の籠もった響きだった。
彼の言葉を聞くや否や、周囲を通りかかっていた中流の商人たちはそそくさと目を逸らし、蜘蛛の子を散らすように遠ざかっていく。
商いの力関係の差違がそこにはあった。
男はつまらなそうにタクミの細い体つきへ視線を向け、鼻の中で冷たい息を鳴らした。
「とはいえ、この市場から追い出されたくなければ、方法はただ一つだけだ。その妙な粒あんの製造方法を全て我々の工房へ引き渡し、売上の全額をギルドに収めて我々からの配給金のみを賜り生きていくこと。それができなければ、この街で豆一粒、粉一握りとしてお前たちの手に入ることは永遠になくなると思え」
一方的な隷属の通達。
ルミナは顔から血の気を引かせ、手押し車の木枠を爪が白くなるほどに強く握りしめていた。
これまでの苦難を乗り越えてようやく掴んだ温かい軌道と光が、理不尽に強固な柵で突然取り囲まれ押し潰されようとしていることへの無力感が彼女を襲う。
だが、タクミは一切表情を変えずに立ち続けていた。
彼の双眸には恐怖はおろか焦りや怒りの温度さえ灯っておらず、水面のように静かだった。
(なるほど。この嫌がらせは、市場を一つの城として籠もっている連中だからこそできる策だ)
流通権という名の囲い込みが行われているのであれば、単純にそれを突破する力を持って反発させることもできるはずだった。
職人としての意地を売り渡す気など微塵もない。
タクミは手押し車の持ち手に手を伸ばすと、その冷たい手の感触を確かめ直すかのように力を込め、震えるルミナの腕を静かに後ろへ引いた。
「ご親切な忠告を感謝します。あなた方がやっているのは、単なる流通の独占に過ぎない。ですが、お客が本当に求める味の前では、そのような利権など砂の城と同じです。素材の流れを止めたところで、職人の技術と工夫は決して殺せない。そういうことであれば、ここではもう買い付けを行う意味がないようだ」
彼はギルドの使者へ向けて冷笑もせずに頭の先だけをわずかに下げ、滑らかに踵を返した。
手押し車の車輪がギシンと高い音を鳴らして転がり始める。
「ちょっと。そのまま逃げ出せば、二度とあちこちへ首を出せなくなるという理屈がまだお前には理解できていないのか!」
使者の声がイラつきを含んで背中に突きつけられたが、タクミの手順はすでに明確な次の一手へと思考が進められていた。
この閉じられた大市場の流通が使えないのであれば、豆を育てている農村の根本と直接交渉をする。
天然の糖分を別の自然物から引き出すことで商流そのものを自らの手で新しく造り出すのだ。
相手の作り上げた盤上の不利なコマの上で戦うのではない。
外からの別の流れによって押し流すための設計図がすでに彼の脳内で構築され始めていたのだった。




