第1話「焦げ付いたブレーキと路地裏に立ち込める異臭」
ゴムと鉄が大音量で擦れ合う。
生み出された刺すような煙の匂いが、狭い車内に立ち込めていた。
ペダルを踏み込む右足の裏に、通常あるはずの固い抵抗は返ってこない。
足首の力をどれだけ込めようとも、鉄の機構は虚しく床に沈み込むだけだった。
眼前に広がるのは、「く」の字に近い鋭角を帯びた下り坂のコーナーだ。
ハンドルを強く握りしめる両手に、滑りそうになるほどの冷や汗がにじむ。
急な重力の変化が、シートベルトを通してみぞおちを乱暴に圧迫する。
車体を制動する力が失われたことを、タクミの頭の片隅にあった経験則が冷たすぎる事実として警告する。
(ブレーキが、利かない)
言葉にならない衝動が胸の奥で渦巻く前に、遠心力が車体ごとタクミの体を斜め外側へと投げ出した。
視界を覆うほどの濃緑の木々の連なりが、不自然な角度に傾いていく。
金属が砕け、何かが激しく弾け飛ぶ耳を劈く音が両耳の鼓膜へ容赦なく叩きつけられた。
無重力に似た浮遊感が、胃袋を掴み上げてひっくり返すように下から迫る。
凄まじい衝撃の波が四肢を粉砕するかのように襲いかかり、タクミの意識は光を失うようにして深い闇の底へと沈降していった。
◆ ◆ ◆
視界がはっきりとする過程は、長く深い水の膜を何層も突き抜けるような感覚だった。
背中に張り付いた硬くて冷たい感触が、タクミの思考を少しずつ現実に引き戻す。
鼻腔をくすぐるのは車のレザーシートの匂いや排気ガスではない。
ぬかるんだ土の匂いと腐りかけた生ゴミが混ざり合った、顔を背けたくなるような鋭い臭気だ。
閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げる。
灰色の分厚い雲が、細く切り取られた空の合間から覗いていた。
自身の左右を遮っているのは、苔むして所々が欠け落ちた粗末なレンガの壁面である。
全身を満たしていたはずの激痛は、どこにも存在していない。
頭を支える首の筋肉を使ってゆっくりと上体を起こすと、手のひらにざらりとした石畳の砂利が食い込んだ。
タクミは目を丸くしたまま、目の前に持ち上げた自らの両手を見つめる。
長年の間、老舗の和菓子屋の厨房に立ち続けてできた火傷の痕や、細かく刻まれた職人としての皺がそこにはない。
白く滑らかな肌と弾力を持った指先が、不思議なほどの軽やかさを伴って手のひらを形成している。
それは高校を卒業したての頃の、若々しくしなやかな自分の手そのものだった。
着ている服も、配送先に向かうための白衣ではなく、くすんだ亜麻色のゆったりとしたシャツと飾り気のない茶色のズボンへと変わっている。
(ここは、どこだ。助かったのか)
周囲の風景は、日本の地方都市の山あいや街並みとは大きくかけ離れていた。
見上げるほど高く積まれたレンガ作りの建物には、窓の代わりに木の板が無造作に打ち付けられている。
風が通り抜けるたびに、遠くから動物の鳴き声とも人の笑い声ともつかない騒がしさが、見知らぬ言語の響きを伴って耳に届いた。
タクミは手をついて立ち上がろうと足に力を込める。
その瞬間、身体の奥底から込み上る重い疲労感と、胃袋を雑巾のように強く絞るような空腹感が急激に襲いかかってきた。
膝に力が入らず、ぐらりと景色が歪む。
めまいが脳を揺らし、立ち上がりかけた体はあっけなく冷たい壁面に叩きつけられた。
熱病にうなされているかのように、額から脂汗が滲む。
自分がどのような理由でこの得体の知れない場所に倒れ伏しているのかは何も分からない。
しかし、このまま何もしなければ飢えと衰弱によって生命活動が停止してしまうことだけは、肉体を支配する冷たい震えが饒舌に物語っていた。
地面を這うようにして、わずかに開けた大通りのような場所へ向けて身をにじる。
衣服の上から伝わる石畳の凹凸が、残された体力を削り取るように皮膚を擦った。
「誰、か……」
かすれ切った声は、自らの喉で鳴るのを最後にどこへも届かない。
頭上がゆっくりと翳り、何かが近づいてくる気配だけがタクミの鼓膜に拾われた。
布が擦れる微かな音。
軽やかな足音が、タクミのすぐそばでぴたりと止まる。
視線を上げる力もなく、路地裏の湿った壁を見つめたまま息を乱すタクミの鼻先に、突然ふわりとした温かな香りが降ってきた。
それは先ほどまでの臭気を塗り潰すような、焼けた小麦と素朴な油脂が混ざり合った、懐かしく甘い匂いだった。
凍えかけた体に一条の熱を伴った細い指先が、タクミの震える肩にそっと触れる。
「こんなところで、どうしたの。体調が優れないの?」
透き通るような清涼さを持った響きだった。
何を見つけ、どう判断したのか。
その声にわずかな焦燥と隠しきれない優しさが混ざっているのが、言葉の意味を超えて伝わってくる。
日本語とは違う不思議な抑揚のついたその言語が、ごく自然な形で大脳に翻訳され、意味を持って響いていた。
タクミは必死に顔を傾け、声の主を見る。
そこには色落ちしたエプロンをきつく締め直し、夕暮れのような深い色合いの瞳に心配の色を宿した年若い少女がしゃがみ込んでいる。
陽の光を透かしたような長い金色の髪が、細いうなじのあたりで緩くまとめられていた。
彼女の手には、粗末な布に包まれた何かが握られている。
(優しい、匂いだ)
「これ、売れ残りなんだけど。とてもお腹が空いているように見えたから」
その少女は、布を開いてタクミの口元へと近づけた。
中から現れたのは、ごつごつとした岩のように固く焦げ茶色に焼かれた、手のひらサイズの小さな固焼きの菓子だった。
美しさも柔らかさもないその見栄えに反して、立ち昇る確かな栄養の匂いが、タクミの生存本能を狂おしいほどに刺激する。
震える手でそれを受け取ろうとしたが、指先に力は入らない。
見かねた彼女が、自らの両手で固い菓子を二つに割り、小さな欠片をタクミの荒れた唇へそっと寄せてきた。
遠慮などしている余裕はなかった。
タクミは浅い呼吸とともに、差し出された欠片に喰らいつく。
パサパサとした乾きと、えぐみのある麦の風味。
けして上等とは言えないその味の奥に確かな甘みが潜んでいる。
それをかみ砕いて喉の奥へ流し込んだ瞬間、乾ききった胃袋が熱を発してそれを迎え入れた。
「少しずつでいいから。はい、これも」
少女の声に急かされるように、タクミはもう半分の菓子もむさぼるように口へ入れる。
唾液の分泌が追い付かずむせ返りそうになる喉を、彼女が水筒から注いでくれたぬるい水で押し流した。
ゆっくりと全身に水分と糖分が浸透し、視界の白んだブレが少しずつ収まっていくのを感じる。
壁に背を預けたまま、タクミは長いため息をこぼして目蓋を閉じた。
生存の実感が、脈打つ心臓の底から湧き上がってくる。
「……助かりました。本当に、ありがとうございます」
タクミが自身の知る言葉で感謝を紡ぐと、思いのほか自然にそれは音声となって響いた。
言葉の意味を理解したように、少女は顔をほころばせる。
「大事に至らなくてよかった。ここは平民街でもひどく治安が悪い路地だから、そのまま倒れていたら何もかも身ぐるみ剥がされてしまうわ」
そう言うと、彼女はじっとタクミの服装や細い体つきを観察するように横へ首を傾けた。
「見ない顔だけど……どこから来たの?」
「……自分でも、どうしてここにいるのか分かりません。ただ、すごく遠い場所から来たような気がします」
タクミの嘘偽りのない言葉に、彼女の瞳は数秒の沈黙のあとに伏せられた。
これ以上詮索することは野暮だと思っているような、思いやりのある視線の細め方だった。
「私はルミナ。この近くで、小さな焼き菓子の店をやっているの。訳ありなら、少しの間だけど店の中へ隠してあげる。立てそう?」
ルミナはタクミの手首をそっと引き、自らの肩を支えにするようにして立たせた。
まだわずかに震える膝だったが、腹の中に落ちた固焼きの菓子の熱が、確実にタクミの足の筋肉に立つ力を与えていた。
アスファルトの照り返しなど存在しない。
馬糞と湿った土が入り混じる生々しい匂いが鼻をつく。
自分が生きていた現代日本とは、根源的な法則すら異なる異界の空気が、肌を粟立たせていた。
それでも、隣を引きずるように歩幅を合わせてくれる彼女の温もりと、衣服から立ち昇る甘い小麦の匂いだけが、タクミにとって唯一の真実としてそこに在った。




