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異世界外交官クラリス ~魔法が無い世界で魔法が生まれる瞬間に立ち会ってしまいました~  作者: 飯山知 春。


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第44話 これは何なのか

翌朝。


クラリスは昨日の報告書を前に、同じ一行を三度書き直していた。


『説明困難な事象の習得試験について』


一度読み、線を引く。


『説明困難な事象に関する習得事例』


また止まる。


「進んでませんね」


向かいからローウェンの声がした。


「進んでいます」


「さっきから一行目しか見ていませんけど」


「そこが進まないんです」


クラリスはペンを置いた。


昨日までなら、『説明困難な事象』でよかった。


石の落下が遅くなった。


冷えた鉄に熱が戻った。


水が不自然な動きをした。


炉が火もないのに熱を持った。


何なのか分からない。


だから、分からないものとして記録した。


けれど昨日、一つ事情が変わった。


これまで何も起こしたことのない人間を選び、試行を重ねた末、その本人が意図して同じ変化を二度起こした。


クラリスは昨日の報告を開く。


『本事例において、現象の習得を確認。』


自分で書いた一文だった。


「習得できるのに、説明困難な事象なんですよね」


「何が起きているのかは、まだ説明できないでしょう」


「はい。でも、昨日までと同じ扱いでいいのかなって」


現象の正体は分からない。


誰にでも習得できるわけでもない。


何が必要なのかも、まだ十分には分かっていない。


それでも。


起きるのを待つしかなかったものが、人間の側から試し、比較し、習得を確かめられるところまで来た。


そこには、昨日までとは明らかな違いがある。


「名前がないからじゃないですか」


ローウェンが言った。


クラリスは顔を上げる。


「名前?」


「まとめて指せる言葉がない。だから、報告を書くたびに最初から説明し直すことになる」


ローウェンは机に並ぶ書類を示した。


石の件。


熱の件。


水の件。


そして習得試験。


一件ずつなら、起きたことをそのまま書けばいい。


だが、これらを比較し、三国で情報をやり取りするようになった今は、それでは足りない。


クラリスは書きかけの一行へ目を戻した。


文章が書けないのではない。


何について書いているのかを、一言で示す言葉がまだなかった。



午前中。


クラリスとローウェンは、三国から届いた記録を机いっぱいに広げた。


今度は現象そのものを調べ直すためではない。


それぞれが、どう記録されているのかを見るためだった。


同じような出来事でも、書き方は揃っていない。


起きた結果をそのまま記したもの。


異常な事例としてまとめたもの。


本人の証言を中心にしたもの。


再現の有無を詳しく残したもの。


「当然と言えば当然ですね」


ローウェンが一枚を置いた。


「共通の呼び方がないんですから」


「今までは、それでも困らなかったんですよね」


「一件ずつ扱っていましたから」


クラリスは昨日の習得記録を見る。


これをプレアリアとバルクへ伝える。


その時、何を習得した、と書けばいいのか。


金属の温度変化。


それなら今回の一件だけは説明できる。


だが、三国で調べているのは熱だけではない。


「全部が同じものなのかも、まだ分かってませんよね」


クラリスが言った。


「ええ」


石と熱。


水と炉。


現れ方だけを見れば、まるで違う。


共通しているように見えるのは、人間が関わっていること、一部は意図して繰り返せること、人によって結果が異なること、本人の経験との関係が疑われること。


そして今は、少なくとも一例で習得まで確認された。


「同じ原因だと決めてしまうような名前は、まだ危ないですね」


「名前によります」


「どういう意味です?」


ローウェンは少し考えた。


「正体を説明する名前と、同じ対象について話すための呼び名は、別でしょう」


クラリスは黙った。


外交文書では、決着していない問題にも呼称を付ける。


国境問題。


交渉事項。


事件。


協議。


正体を知っているから名前を付けるとは限らない。


同じものについて話すために、まず言葉を揃える。


そう考えればいい。


「正体を決めるためじゃなくて」


クラリスが言う。


「正体を調べるために、同じものを指せる言葉」


「今必要なのは、そちらでしょうね」


クラリスは紙の余白へ書いた。


『共通呼称』


その下は。


まだ空白のままにした。



午後。


三国へ送る次回報告の草案を作り始めると、問題はさらに分かりやすくなった。


クラリスは昨日の習得試験について書く。


『エストラド国内において、これまで未発生であった人物による――』


そこで止まった。


「またですか」


ローウェンが言う。


「またです」


クラリスは紙を見せた。


「何を習得したって書けばいいんでしょう」


ローウェンは考え込んだ。


「今回だけなら、金属の温度変化でしょうけど」


「それだけを送っても、他国の事例と比べにくいですよね」


プレアリアやバルクが知りたいのは、一人の職人が金属を温められるようになったという事実だけではない。


自国で起きている別種の事例にも、同じような調べ方が使えるのか。


未発生者を選び、経験を比べ、習得を試せるのか。


そこまで伝えなければ、三国で情報を交換する意味が薄くなる。


クラリスは過去に送った文書を並べた。


当初は、一つひとつの異変について報告すれば足りた。


次第に事例が増え。


比較が始まり。


再現の記録が加わった。


今は習得の記録まである。


そのたびに、文書の冒頭で「今回どの一群について話しているのか」を説明する文章が長くなっていた。


「このままだと」


クラリスが言う。


「プレアリアから返事が来ても、向こうの言う事例がこちらのどれに当たるのか、また確認が必要になります」


「バルクも同じでしょうね」


同じものを指しているのか。


似ているだけなのか。


別のものなのか。


言葉が揃っていないだけで、文書の往復が増える。


外交官としては、ひどく身近な問題だった。


「共通して使える呼び方を考えた方がよさそうですね」


クラリスが言った。


「エストラドだけで決めます?」


ローウェンに問われ、クラリスはすぐに首を横に振った。


「それだと共通じゃありません」


国内で勝手に決めて、他国にも同じ言葉を使わせる。


それでは、エストラドの見方まで押しつけることになりかねない。


「まず、向こうが今どう書いているのか確認しましょう」


「その上で三国で使えるものを考える?」


「はい」


クラリスは草案の末尾へ一項目を追加した。


『本件に関する共通呼称について』


一行置き。


各国における現行の表記を照会する旨を書き始める。


先ほどまで止まっていたペンが、ようやく動いた。



草案を持って局長室へ入ると、エリアスは最後に追加された項目を読み、そこで手を止めた。


「やっとここまで来たのね」


クラリスは瞬きをした。


「やっと?」


「前にも聞いたでしょう」


エリアスが顔を上げる。


「これを何と呼ぶの、って」


クラリスは思い出した。


三国が情報を持ち寄ることを決めた時だった。


あの時は答えられなかった。


そして今も、答えそのものはない。


「まだ名前を決められるほど、何なのか分かっていません」


「そうね」


エリアスはあっさり認めた。


「では、分かるまで名前を付けない?」


クラリスは少し黙った。


「それは……もう難しいです」


「でしょうね」


エリアスは草案を机へ置いた。


「名前を付けることと、正体を知ることは同じではないわ」


午前中、ローウェンとも似た話をした。


だがエリアスは、その先を続けた。


「ただし、付ける言葉には気をつけなさい」


「原因まで決めるような名前にはしない、ということですか」


「それもある」


エリアスは指先で紙の端を揃えた。


「人は、名前が付くと分かった気になるから」


クラリスは黙って聞いた。


「危険だと名付ければ、危険なものとして見る。恵みだと名付ければ、ありがたいものとして見る。何かの仕業だと呼べば、その何かが原因だと考え始める」


ただ便利な呼び方を決めればいい。


クラリスは、どこかでそう考えていた。


だが三国が同じ言葉を使い始めれば、その言葉は報告書に残り、人から人へ伝わる。


その言葉を通して現象を見る者も出てくるだろう。


「では、できるだけ何も決めつけない名前がいいんでしょうか」


エリアスは少し考える。


「それも簡単ではないでしょうね」


「なぜです?」


「何も表さない言葉なら、何のための名前なの?」


クラリスは答えられなかった。


意味を持たせすぎれば、分かっていないことまで決めてしまう。


かといって。


何を指すのか分からない言葉では、共通呼称の役目を果たさない。


「難しいですね」


「言葉で国と国の間をつなぐのが外交局でしょう?」


エリアスが少し笑った。


クラリスも苦笑する。


「こういうところで外交の仕事になるとは思いませんでした」


「私もよ」


エリアスは草案を返した。


「まず三国へ確認しなさい。今、それぞれがどう呼んでいるのか」


「はい」


「こちらから候補を出すのは、その後でいいわ」


クラリスは頷いた。


名前を付けるということは。


ただ空欄を埋めるだけではなかった。



執務室へ戻ると、クラリスは三国へ送る草案を最初から整え直した。


昨日確認した習得事例。


試験条件。


成功までの経緯。


現時点で確認できていること。


まだ分かっていないこと。


その最後に、新しい項目を置く。


『共通呼称に関する確認』


現在、各国で同種または類似すると判断している事例について、どのような表現を用いて記録しているか。


それらを三国で共有する際、共通して使用できる呼称が必要と考えるか。


すでに原因や性質を示す呼称を使用している場合、その理由は何か。


確認事項を書き終える。


ローウェンが横から文面を読んだ。


「こちらから名前の候補は出さないんですね」


「今は」


クラリスは答えた。


「向こうが何と呼んでいるのかも知らないので」


「では返事待ち?」


「それだけじゃありません」


クラリスは別の紙を一枚取った。


中央に。


『名称』


と書く。


その下は空白。


ローウェンが覗き込む。


「何も書かないんですか」


「考えるための紙です」


「白いですが」


「これからです」


クラリスは机に並んだ報告書を見た。


石。


熱。


水。


炉。


そして。


昨日までできなかった人間が、できるようになったという記録。


これらを一つの言葉で指すなら。


何を共通するものとして扱うのか。


その言葉によって、何までを含めるのか。


反対に。


何をまだ決めないのか。


考えなければならない。


クラリスは空白の紙を、三国から届いた報告の横へ置いた。


正体は。


まだ分からない。


けれど。


それについて話し続けるための言葉は。


もう必要になっていた。

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