第15話 忘れられた盟約
森へ入ると、空気が変わった。
陽光は木々の枝葉に遮られ、昼だというのに薄暗い。
旧王道は細く、苔むした石畳がところどころ顔を覗かせていた。
「本当に道だったんですね。」
門番の一人が感嘆する。
「何百年も前の。」
ローウェンは馬を進めながら石畳へ目を落とした。
「少なくとも、王国が整備した街道ではありません。」
「建国以前の街道であっても、おかしくはないでしょう。」
クラリスは馬上から周囲を見渡した。
石畳は崩れている。
それでも完全には土へ埋もれていない。
枝葉は払われ、倒木も不自然なほど少なかった。
「放棄された道ではありません。」
クラリスが静かに言う。
「今も誰かが通っています。」
門番たちは足元へ目を向けた。
言われてみれば、轍は古いものばかりではない。
新しい蹄の跡も、ところどころ残っていた。
やがて森はさらに深くなる。
風が弱まり、鳥の声も遠ざかっていく。
聞こえるのは、馬の蹄が石畳を打つ音だけだった。
カーン――。
その時。
森の奥から鐘の音が響いた。
一度だけ。
四人は同時に馬を止める。
「西です。」
クラリスが耳を澄ませる。
ローウェンも頷いた。
「第二中継所で聞いた音と同じですね。」
しばらく待つ。
だが、二度目の鐘は鳴らなかった。
「鐘で合図を送っているのでしょうか。」
門番が小声で尋ねる。
「旅人へ?」
「あるいは仲間へ。」
ローウェンは断定しない。
再び歩き始めると、ほどなく道は左右へ分かれた。
片方は尾根沿いへ。
もう片方は森の奥へ続いている。
分岐には一本の木杭が立ち、その先には小さな青銅の鐘が吊るされていた。
風はほとんどない。
青銅の鐘は、静かに吊るされていた。
クラリスは馬を降りた。
鐘へ近づく。
表面には古い文字が刻まれていたが、長い年月でほとんど擦り消えていた。
「読めますか。」
ローウェンが尋ねる。
クラリスは目を凝らし、小さく首を振った。
「欠けていて判読できません。」
「ただ、かなり古い刻字です。」
ローウェンは周囲へ視線を巡らせた。
争った跡はない。
落ち葉も自然に積もっている。
しかし、鐘にも杭にも苔はほとんど付いていなかった。
「手入れされていますね。」
「ええ。」
クラリスも頷く。
「しかも最近です。」
クラリスは鐘から木杭へ視線を移した。
どちらにも、新しい擦り傷が残っていた。
その時だった。
カサリ。
右手の茂みが揺れる。
門番たちが一斉に槍を構えた。
「誰だ!」
返事はない。
代わりに一頭の若い鹿が姿を現した。
こちらを一瞥すると、道を横切り、静かに森の奥へ消えていく。
門番が安堵の息を吐いた。
「驚かせないでくれ……。」
しかしローウェンは鹿ではなく、地面へ目を落としていた。
「馬です。」
クラリスもしゃがみ込む。
鹿の足跡とは別に、新しい蹄の跡がいくつも残っていた。
「数は二十頭前後。」
「しかも、この分岐で待機しています。」
踏み固められた地面が、それを物語っていた。
誰かが偶然通った跡ではない。
ここで、人を待っていた。
クラリスが顔を上げた、その時だった。
森の奥で木々が静かに揺れる。
一人。
また一人。
灰色の外套をまとった騎馬の影が、ゆっくりと姿を現した。
◇
灰色の外套をまとった騎馬の一団は、音もなく木立の間から姿を現した。
十騎。
いや、その奥にもまだ影が見える。
全員が槍を持ち、顔の半分を布で覆っている。
門番たちは反射的に槍を構えた。
しかしローウェンは片手を上げ、その動きを制した。
「待ってください。」
騎馬隊は一定の距離で馬を止めた。
互いの間には、十数歩ほどの空間が残されている。
しばらく誰も口を開かない。
森には風もなく、張り詰めた空気だけが流れていた。
やがて、一人の騎手がゆっくりと馬を進める。
年齢は五十前後。
灰色の外套の下には革鎧を身につけていた。
腰の剣は古いが、丁寧に手入れされている。
男はクラリスたちを順に見渡し、静かに口を開いた。
「王都からか。」
「はい。」
ローウェンが一歩前へ出る。
「エストラド王国外交局です。」
男の表情は変わらなかった。
「外交局。」
その言葉だけを繰り返す。
「この道を知る者は、今では珍しい。」
クラリスは懐から外交局の徽章を取り出した。
男はそれを一瞥すると、小さく頷く。
「偽物ではなさそうだ。」
門番の一人が眉をひそめた。
「あなた方は何者です。」
男は答えない。
代わりに視線を旧王道へ向ける。
「その問いに答える必要はない。」
決して威圧する声ではない。
ただ、長年そうしてきた者の口調だった。
ローウェンも無理には追及しない。
「では一つだけ。」
「この道は、あなた方が管理しているのですか。」
男は少しだけ間を置いた。
「管理というほど立派なものではない。」
「荒れすぎれば人が通れなくなる。」
「それでは困る者がいる。」
「だから整えている。」
簡潔な答えだった。
それ以上を語る気はないらしい。
クラリスは分岐の鐘へ目を向ける。
「鐘も。」
男は頷く。
「あれも昔からある。」
「壊れれば直す。」
「鳴らすこともある。」
「道に迷う者がいるからだ。」
思っていたより現実的な答えだった。
門番たちの表情からも緊張が少し和らぐ。
クラリスは改めて尋ねた。
「十五年前、この道を大規模な使節団が通りませんでしたか。」
男の視線が止まる。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけだった。
「……通った。」
短い返答。
「第三使節団です。」
「その名までは知らない。」
男は静かに首を振る。
「だが、大勢だった。」
「エストラドだけではなかった。」
クラリスは思わず息をのむ。
「他国の者も?」
「そうだ。」
「草原の民も。」
「山の民も。」
「皆、西へ向かった。」
プレアリア。
そしてバルク。
第二中継所で得た推測が、一つ事実へ変わる。
ローウェンが慎重に言葉を選ぶ。
「その後は。」
男はゆっくり首を横へ振った。
「知らない。」
「我々は送り出しただけだ。」
「戻ってきた者はいなかった。」
再び沈黙が訪れる。
森は静まり返っていた。
やがて男は馬首を返す。
「もし十五年前を追うなら。」
「話を聞くべき者がいる。」
クラリスが顔を上げる。
「案内していただけますか。」
男は少しだけ考え、
静かに頷いた。
「ついて来い。」
灰色の騎馬隊がゆっくりと馬を進める。
クラリスたちも互いに目を合わせ、小さく頷き合った。
彼らが追ってきたのは伝説ではない。
十五年前に、この道を実際に見た人々だった。
◇
灰色の騎馬隊の後を追い、一行は旧王道を西へ進んだ。
道幅は馬が二頭並べるほどしかない。
左右から枝葉が覆いかぶさり、昼なお薄暗い森が続く。
それでも石畳には大きな崩れがなかった。
長い年月が過ぎても、人の手が入っていることが分かる。
「不思議ですね。」
クラリスが前を行く男へ声を掛けた。
「ここまで手入れを続ける理由は何なのでしょう。」
男は振り返らない。
「道は、人が使わなくなれば消える。」
「残したい者がいる。」
それだけ言って再び前を向く。
答えになっているようで、なっていない。
クラリスはそれ以上は尋ねなかった。
外交でも同じだった。
相手が話したくないことを無理に聞き出そうとしても、得られるものは少ない。
代わりに、話してくれた事実を積み重ねる。
それが真実へ近づく一番の近道だった。
しばらく進むと、森の景色が少しずつ変わり始めた。
倒木は脇へ寄せられ、小さな木橋も架け替えられている。
古い道でありながら、放置された気配はない。
やがて木々の向こうに煙が見えた。
門番の一人が思わず声を漏らす。
「集落……。」
森が開ける。
二十軒ほどの木造家屋が、小さな広場を囲むように建っていた。
どの家も質素だが、屋根は新しく葺き替えられている。
薪を割る老人。
井戸で水を汲む娘。
洗濯物を干す女性。
穏やかな日常がそこにあった。
子どもたちは騎馬隊を見ると遊ぶ手を止める。
だが怯えた様子はない。
むしろ、帰りを待っていた者を見るような表情だった。
「外から人が来るのは珍しい。」
前を行く男が言う。
「商人も旅人も、この道は通らん。」
広場へ入ると、人々の視線がクラリスたちへ集まる。
好奇心。
警戒。
そして、どこか懐かしむような色も混じっていた。
一人の老人がゆっくり近づいてくる。
背は曲がっているが、足取りはしっかりしていた。
灰色の髭を胸まで伸ばし、木の杖を手にしている。
騎馬隊の男は馬を降りると、老人へ一礼した。
「長老。」
「王都からのお客様です。」
老人は静かに頷き、クラリスたちを見つめる。
「遠いところを、ようこそ。」
穏やかな声だった。
しかし、その目だけは鋭い。
一人一人を確かめるように見つめている。
やがて視線がクラリスで止まった。
「外交局。」
「はい。」
クラリスは胸元の徽章を示す。
「エストラド王国外交局のクラリス・ヴァインと申します。」
老人はその名をゆっくり繰り返した。
「ヴァイン……。」
わずかな沈黙。
その後、小さく頷く。
「なるほど。」
「それで、この道を選んだのですね。」
クラリスは思わず息をのんだ。
「父をご存じなのですか。」
老人はすぐには答えなかった。
代わりに空を見上げる。
木々の隙間から、夏の青空がのぞいていた。
「まずは旅の疲れを癒してください。」
「話は、その後にいたしましょう。」
それは断る余地のない、静かな申し出だった。
クラリスたちは互いに視線を交わし、小さく頷く。
十五年前を知る人物が、ようやく目の前に現れた。
しかし、その口はまだ固く閉ざされたままだった。
◇
通された家は、集落の中でもひときわ古い建物だった。
太い梁が天井を支え、壁には長年使い込まれた道具が静かに並んでいる。
囲炉裏には火が入り、湯気を立てる鉄鍋から香草の香りが漂っていた。
木椀に温かなスープが注がれ、焼きたての黒パンが並べられる。
「質素なものですが。」
長老が穏やかに言う。
「旅人を迎えるには十分です。」
「ありがとうございます。」
クラリスたちは礼を述べ、ようやく腰を下ろした。
長い緊張が少しだけほどける。
食事を終える頃には、外は夕暮れへと色を変え始めていた。
囲炉裏の火が静かに揺れる。
長老は火を見つめたまま口を開いた。
「さて。」
「あなた方は十五年前のことを知りたいのでしたね。」
クラリスは姿勢を正した。
「はい。」
「父、レオン・ヴァインが最後に向かった場所を追っています。」
長老は静かに頷いた。
「その方のことは覚えています。」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「父は、こちらへ来ていたのですね。」
「ええ。」
「数日ほど滞在されました。」
クラリスは思わず身を乗り出す。
「何を調べていたのですか。」
長老は首を横に振る。
「詳しくは聞いておりません。」
「ですが、あの方は毎日のように人を訪ねて歩いておられました。」
「若い者にも。」
「年寄りにも。」
「旅人にも。」
「商人にも。」
「同じことを繰り返し尋ねておられました。」
「何を。」
クラリスが問い返す。
長老は静かに答えた。
「昔、この道を通った人々の話です。」
クラリスはローウェンを見る。
ローウェンも小さく頷いた。
「父らしいですね。」
クラリスが小さく笑う。
長老も穏やかに目を細めた。
「あの方は、人の話を最後まで聞く方でした。」
「否定もせず。」
「急がせもせず。」
「だから皆、話したくなったのでしょう。」
囲炉裏の薪が、小さく音を立てる。
しばらく静寂が流れたあと、長老は続けた。
「ですが。」
「数日後、この集落へ大勢の人々が集まりました。」
クラリスの表情が引き締まる。
「使節団ですか。」
「そう呼ばれていたかは知りません。」
「ですが、王国の者だけではありませんでした。」
「草原の装いの者。」
「北の山国の者。」
「皆、この集落で一夜を過ごしました。」
第二中継所で得た情報と一致する。
三国の人々が、この道を通った。
それはもう疑いようがなかった。
「翌朝。」
長老は囲炉裏の火へ薪を一本くべた。
「皆、西へ向かいました。」
「レオン殿も、その中におられました。」
「それが、私が見た最後です。」
部屋は静まり返る。
父を最後に見た人物が、今、目の前にいる。
それだけでクラリスの胸は熱くなった。
しかし長老は、それ以上を語らなかった。
「私が知っているのは、ここまでです。」
「その先を見た者は、この集落にはおりません。」
クラリスはゆっくりと息を吐いた。
手掛かりは確かに増えている。
それでも、答えはまだ見えなかった。
◇
夜も更け、囲炉裏の火は小さく揺れていた。
家の外では虫の声だけが静かに響いている。
クラリスは卓上へ羊皮紙を広げ、一つずつ今日得た情報を書き留めていた。
「第三使節団だけではない。」
小さく呟く。
「プレアリア。」
「バルク。」
「三国の人々が、この道を通った。」
ローウェンも頷く。
「第二中継所の証言とも一致しました。」
「偶然ではありません。」
クラリスは羽根ペンを置いた。
ここまで集めた証言は、少しずつ一つの形になり始めている。
十五年前。
三国の人々は、それぞれ別々に西へ向かったのではない。
同じ時期に。
同じ道を。
同じ目的地へ向かっていた。
しかし、その目的だけが分からない。
「外交使節。」
クラリスは静かに考える。
「普通の会談なら、王都でも、国境の町でもできます。」
「わざわざ人里離れた旧王道を通る理由がありません。」
ローウェンも腕を組んだ。
「しかも地図から消された道です。」
「意図的だったのでしょう。」
「ええ。」
クラリスは頷く。
「秘密裏に集まる必要があった。」
そこまでは見えてきた。
だが、その先が続かない。
部屋の隅で長老が静かに口を開く。
「一つだけ。」
二人は顔を上げた。
「この集落にも、昔から伝わる言い伝えがあります。」
クラリスは身構えたが、長老は穏やかに笑った。
「大した話ではありません。」
「昔から、この道では余計な詮索はするな、と。」
「知るべき時が来れば、自然と知ることになる。」
「だから旅人には、そう伝えてきました。」
言い伝え。
それ以上でも、それ以下でもない。
長老自身も、何かを知っている様子ではなかった。
クラリスは小さく息を吐く。
「ありがとうございます。」
「十分です。」
長老は少し驚いたように目を見開く。
「十分、ですか。」
「はい。」
クラリスは微笑んだ。
「分からないことが増えました。」
「ですが、確かな事実も増えました。」
「父はこの集落へ来ていた。」
「三国の人々も、この道を通った。」
「そして、その証言は互いに一致しています。」
「それだけでも、大きな前進です。」
長老は静かに頷いた。
「あなたは、お父上によく似ています。」
その一言に、クラリスは少し照れたように笑う。
囲炉裏の火が静かに揺れる。
明日から、さらに西へ進む。
十五年前、人々が歩いた道を。
父が歩いた道を。
その先に答えがあるかは、まだ分からない。
それでもクラリスは迷わなかった。
外交官として。
一つの証言を、一つの事実を積み重ねながら。
十五年前に何が起きたのか。
その真実を追い続けるために。
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