第13話 包囲の夜
蹄の音は、闇の中を絶え間なく駆け巡っていた。
北から。
南から。
そして、西街道の彼方から。
姿は見えない。
だが、音だけが宿場町を取り囲むように近づき、また遠ざかる。
門番たちは槍を握り締め、城壁代わりの柵へ並んでいた。
「数が分からん……。」
一人が呟く。
「松明を持っていない。」
「狙っているんだ。」
別の門番が歯を食いしばる。
「位置を悟らせないために。」
クラリスは門の隙間から外を見つめた。
月明かりだけが草原を淡く照らしている。
草は揺れている。
だが、人影はない。
馬の姿すら見えなかった。
それでも、蹄の音だけは消えない。
まるで町そのものを囲む輪が、暗闇の中を回り続けているようだった。
「矢は。」
ローウェンが門番へ尋ねる。
「届きません。」
「撃っても当たる相手が見えない。」
門番は首を振った。
「相手は、こちらからの距離を測っています。」
その言葉に、ローウェンは静かに頷いた。
「こちらも撃つな。」
門番たちが驚いたように振り返る。
「しかし……。」
「闇へ矢を放てば、位置を教えるだけです。」
ローウェンは町の周囲を見回した。
「相手は、焦っていない。」
「ならば、こちらも焦る必要はない。」
クラリスは昼間に救助した五人を思い出していた。
彼らは生かされた。
伝令も生かされた。
町も、まだ攻撃されていない。
「襲う気なら。」
クラリスが口を開く。
「もう始まっていても、おかしくありません。」
ローウェンが小さく笑う。
「同じことを考えていました。」
「包囲すること自体が目的なのでしょうか。」
「それとも。」
ローウェンは夜空を見上げた。
「包囲しているように見せたいだけか。」
その時だった。
東門の見張りが叫ぶ。
「動いた!」
全員の視線が東へ向く。
街道の先。
月明かりの中を、一騎だけが近づいてくる。
白い馬だった。
速度は遅い。
駆けているのではない。
歩いている。
門番が弓を構えた。
「待て。」
ローウェンが制する。
騎手は、門から五十歩ほど手前で馬を止めた。
外套をまとい、頭巾を深く被っている。
男か女かも分からない。
その人物は、ゆっくりと馬から降りた。
腰の剣にも、弓にも触れない。
代わりに、小さな袋を地面へ置いた。
そして両手を上げ、一歩だけ後ろへ下がる。
敵意のないことを示す仕草だった。
門番たちが顔を見合わせる。
クラリスは目を細めた。
「あれは……。」
袋の口には、白い布が結ばれている。
王国で、交渉や停戦の使者が用いる印だった。
「使者でしょうか。」
門番が呟く。
ローウェンは即答しない。
静かに騎手を見つめ続ける。
やがて、その人物は一礼すると、再び馬へ乗った。
何も言わない。
何も残さない。
そのまま闇の中へ消えていった。
宿場町は静まり返る。
「開けますか。」
門番が尋ねた。
ローウェンは首を振る。
「まだだ。」
クラリスも頷いた。
「袋だけを回収しましょう。」
門が、人一人通れるだけ開く。
盾を構えた門番二人が慎重に進み、袋を拾い上げる。
矢は飛んでこない。
蹄の音も止まない。
門が閉じられた。
袋は詰所の机へ置かれる。
誰も手を伸ばさなかった。
もし毒なら。
もし罠なら。
ローウェンは革手袋をはめ、紐を解いた。
中から出てきたのは、一枚の羊皮紙。
封印はない。
短い一文だけが書かれていた。
『夜明けまで、誰も町を出すな。』
その下には署名も紋章もない。
だが。
羊皮紙の端には、小さな焼印が押されていた。
円の中に、二本の交差する葦。
クラリスは、その印を見たことがなかった。
「王国の紋章ではありません。」
ローウェンも首を横へ振る。
「プレアリアでもない。」
焼印を見つめながら、クラリスは静かに息を呑んだ。
「……第三の勢力。」
◇
詰所の中は、息を潜めたような静けさに包まれていた。
机の上には、白い布で結ばれていた羊皮紙。
門番たちも、宿の主人も、誰も口を開かない。
クラリスは焼印を見つめていた。
円の中で交差する二本の葦。
王家の紋章でもない。
七大商家の印でもない。
十五年前の資料にも見覚えはなかった。
「何か思い当たりますか。」
ローウェンが尋ねる。
クラリスは首を横へ振った。
「初めて見ます。」
「私もです。」
ローウェンは羊皮紙を裏返した。
透かすように灯りへかざす。
隠し文字も、別の印もない。
ただ一文だけだった。
『夜明けまで、誰も町を出すな。』
「妙ですね。」
クラリスが呟く。
「包囲している側が、わざわざ伝えてくるでしょうか。」
「私も、それが気になります。」
ローウェンは腕を組んだ。
「出た者を襲えば済む話です。」
「止める理由はありません。」
門番の一人が口を開く。
「脅しているのでは。」
「町を混乱させるために。」
「その可能性もあります。」
クラリスは頷いた。
「ですが。」
羊皮紙へ視線を落とす。
「伝令も。」
「昼間の商人も。」
「戻れと言いました。」
ローウェンも静かに続ける。
「同じ内容です。」
「偶然とは思えません。」
詰所に沈黙が落ちる。
外では相変わらず蹄の音が町を回っていた。
一定ではない。
速くなる。
遠ざかる。
また近づく。
その音だけが、町の人々の不安を煽っていた。
「一つ、確かめたいことがあります。」
クラリスは立ち上がった。
「何でしょう。」
「鐘です。」
門番たちが顔を上げる。
「包囲が始まってから、鐘は一度だけ鳴りました。」
「東門で荷馬車が見つかった時です。」
「それ以外では鳴っていません。」
ローウェンは意図を察したようだった。
「つまり。」
「相手は、町へ近づいていない。」
クラリスは頷く。
「蹄の音は聞こえます。」
「ですが。」
「見張りは、一度も敵を見ていません。」
門番が考え込む。
「音だけ……。」
「はい。」
クラリスは窓の外を見た。
「包囲されていると思わせること。」
「それ自体が目的なら。」
ローウェンが羊皮紙を手に取る。
「この文も。」
「町を閉じ込めるため。」
「そういうことになります。」
その時だった。
詰所の扉が勢いよく開く。
若い門番が飛び込んでくる。
「報告です!」
息を切らしながら敬礼した。
「北の見張りからです!」
「言え。」
「蹄の音を追いました!」
部屋の空気が張り詰める。
「それで。」
若い門番は信じられないという顔で答えた。
「誰も、いませんでした。」
「何?」
「草原を二里ほど追いました。」
「音は聞こえるのに、人影も馬影もありません!」
詰所の全員が顔を見合わせた。
「あり得ない……。」
宿の主人が呟く。
「馬が走れば、月明かりで見えるはずだ。」
若い門番は強く頷いた。
「それでも。」
「音だけが移動していました。」
クラリスはゆっくりと息を吐く。
音だけが動く。
敵は姿を見せない。
そして町を外へ出さない。
「相手は。」
クラリスが静かに言う。
「私たちに戦わせたいのではありません。」
「私たちを、この町へ留めたいんです。」
その言葉に。
ローウェンの視線が、ゆっくりと東の街道へ向いた。
「では。」
「夜明けに来るのは。」
誰も答えられなかった。
◇
夜は更けても、宿場町を囲む蹄の音は途絶えなかった。
眠る者はいない。
宿の食堂では旅人たちが灯火を囲み、小声で囁き合っている。
窓には板が打ち付けられ、門番たちは交代で見張りを続けていた。
詰所では、街道図が机いっぱいに広げられている。
クラリスは昼から集めた記録を一枚ずつ並べていた。
空になった商隊。
騎手のいない馬。
第二中継所との連絡途絶。
血文字。
そして、名もない使者が残した羊皮紙。
「すべてが。」
クラリスは静かに言った。
「私たちを同じ場所へ留めています。」
ローウェンが頷く。
「人を集めるのではない。」
「動かさない。」
「それが目的です。」
門番の一人が地図を覗き込んだ。
「では、何を待っているのでしょう。」
誰も答えられなかった。
その時。
外から乾いた音が響いた。
カラン――。
何かが石畳へ転がる音だった。
門番たちが一斉に身構える。
「東門!」
数人が駆け出した。
クラリスとローウェンも後を追う。
門の前には、小さな木箱が一つ転がっていた。
誰かが置いていったらしい。
周囲に人影はない。
蹄の音だけが遠くを巡っている。
「開けますか。」
門番が尋ねる。
「私が。」
ローウェンは慎重に木箱を持ち上げた。
軽い。
耳を近づけても物音はしない。
ゆっくりと蓋を開く。
中には、一枚の板が入っていた。
手のひらほどの大きさ。
粗く削られた木片である。
表には一本の線。
裏には一本の線。
合計二本。
それだけだった。
「……何だこれは。」
門番が眉をひそめる。
クラリスは板を手に取った。
線は墨ではない。
刃物で刻まれている。
「数でしょうか。」
「いや。」
ローウェンは首を振る。
「違います。」
そう言って板を横へ向けた。
二本の線は一本に繋がり、街道のような形になる。
「道……?」
クラリスは地図を見た。
街道。
宿場町。
そして第二中継所。
一本の街道が途中で折れ、別の道へ逸れているようにも見える。
「迂回路。」
その言葉が、自然に口をついて出た。
ローウェンも同じ結論へ至っていた。
「正規の街道ではない。」
「別の道があります。」
「ですが。」
クラリスは地図を見回した。
「この周辺に街道は一本しかありません。」
「少なくとも、王国の地図では。」
ローウェンは板を静かに机へ置いた。
「地図に載らない道。」
「誰かが使っている道です。」
その時だった。
宿の主人が慌てて駆け込んできた。
「先生!」
「馬が!」
クラリスは振り返る。
「どうしました。」
「馬小屋の馬が騒いでいる!」
「暴れてるんだ!」
一同は馬小屋へ急いだ。
六頭の馬は落ち着きを失い、何度も首を振っていた。
鼻を鳴らし、耳を北へ向けている。
一頭が突然、大きくいなないた。
次の瞬間。
残りの馬も一斉に応え始める。
まるで。
遠くの何かへ返事をしているようだった。
クラリスは北の闇を見つめる。
風が草を揺らす。
蹄の音は聞こえない。
代わりに。
かすかな馬のいななきだけが、夜の草原から返ってきた。
町の外にも、馬がいる。
それは初めて、音ではなく確かな気配として姿を現した。
◇
夜明けまでは、まだ半刻ほどあった。
空は群青色へ変わり始め、東の地平だけがわずかに白んでいる。
町を包んでいた蹄の音は、いつしか止んでいた。
静かすぎる。
それが、かえって門番たちを緊張させていた。
「見えますか。」
クラリスが尋ねる。
東門の見張りは首を横へ振る。
「誰も。」
「動物もいません。」
ローウェンは腕を組んだまま街道を見つめていた。
「動きます。」
不意にそう言う。
門番たちが顔を向ける。
「敵が、ですか。」
「ええ。」
「ですが、町ではありません。」
「別の場所へ。」
クラリスも同じ考えに至っていた。
包囲。
使者。
羊皮紙。
夜明けまで誰も出すな。
すべては、この時間を待っていたように思える。
「ならば。」
クラリスは決意を口にした。
「私たちも確かめるべきです。」
「門を開けるのですか。」
門番が息を呑む。
「いいえ。」
クラリスは首を横へ振った。
「人ではありません。」
そう言って馬小屋へ向かう。
六頭の馬は、すでに落ち着きを取り戻していた。
その中から一頭だけを選ぶ。
第二中継所の識別札を付けた栗毛だった。
「この馬は。」
クラリスが手綱を握る。
「昨夜、自分でここまで戻ってきました。」
「帰る場所を知っています。」
ローウェンは意図を理解した。
「放すのですね。」
「はい。」
「もし戻ろうとするなら。」
「第二中継所へ向かうはずです。」
門番たちは顔を見合わせた。
賭けだった。
だが、今ある手掛かりの中では最も確実でもある。
東門が、人一頭分だけ静かに開く。
栗毛は最初こそ立ち止まっていたが、やがて鼻を鳴らし、自ら歩き始めた。
街道へ――
向かわなかった。
「違う。」
クラリスが呟く。
栗毛は街道を横切り、そのまま北の草原へ入っていく。
迷いがない。
歩幅も一定だった。
「追います。」
ローウェンが言う。
「距離を取って。」
クラリスとローウェン、それに門番二人だけが徒歩で後を追った。
草は朝露を含み、足音を吸い込んでいく。
栗毛は何度も振り返ることなく進み続けた。
やがて、小さな丘を越えた、その時だった。
ヒュッ――。
風を裂く音。
「伏せろ!」
ローウェンがクラリスの肩を掴み、地面へ引き倒す。
次の瞬間。
一本の矢が、栗毛の足元へ突き刺さった。
馬は驚いて跳ねる。
しかし逃げない。
矢は馬を狙ったものではなかった。
行く手を遮るように、わずか一歩先へ突き立っている。
ローウェンが周囲へ鋭い視線を走らせた。
「射手は!」
返事はない。
草原は静まり返っている。
「姿が見えません。」
門番が囁く。
その時。
丘の向こうから、一人の男が姿を現した。
弓は持っていない。
剣も抜いていない。
灰色の外套をまとい、ゆっくりと歩いてくる。
昨夜の使者と同じように。
敵意を示さず。
男は矢の前で立ち止まった。
そして静かに口を開く。
「それ以上、進めば死ぬ。」
低く落ち着いた声だった。
ローウェンは一歩前へ出る。
「何者だ。」
男は答えない。
代わりに北の空を見上げた。
夜明けの光が、地平線から草原を照らし始める。
男は再びクラリスたちへ視線を戻した。
「夜明けを越えれば、もう間に合わない。」
クラリスは男を見据えた。
「誰から逃げろと言うのです。」
男の表情が、初めてわずかに動いた。
「……我々ではない。」
それだけ告げると、踵を返した。
「待て!」
門番が叫ぶ。
だが、その瞬間。
周囲の草が一斉に揺れた。
数十頭分の蹄の音が、四方から響き渡る。
姿は見えない。
音だけが、男を包むように遠ざかっていく。
やがて。
草原には、矢だけが残されていた。
その矢羽には。
円の中で二本の葦が交差した、小さな焼印が刻まれていた。
◇
宿場町へ戻る頃には、朝日が草原を黄金色に染め始めていた。
夜通し眠れなかった町の人々が、不安そうに門の方を見つめている。
「どうだった。」
門番たちが駆け寄った。
ローウェンは首を横へ振る。
「敵とは会った。」
「だが、戦ってはいない。」
その言葉だけで、人々は息を呑んだ。
町へ戻ると、詰所の机へ矢が置かれた。
矢羽には、二本の葦を交差させた焼印。
羊皮紙と同じ印だった。
クラリスは矢柄を指でなぞる。
王国製ではない。
プレアリアでも見たことがない。
木材も羽根も、この地方では珍しいものだった。
「新しい勢力。」
門番の一人が呟く。
「あるいは。」
ローウェンが静かに続ける。
「我々の知らないだけで、昔から存在していた者たちか。」
クラリスは矢を机へ戻した。
「まだ分かりません。」
「ですが、一つだけ確かなことがあります。」
部屋の視線が集まる。
「彼らは。」
「私たちを殺そうとはしていません。」
昼間、助けられた五人。
命を奪われなかった伝令。
昨夜の使者。
草原の男。
そして、警告の矢。
すべてが同じ言葉を伝えていた。
「戻れ。」
その時。
東門の見張りが、大声を上げた。
「伝令だ!」
全員が外へ飛び出す。
東の街道。
王都の方角から、一頭の馬が全速力で駆けてくる。
騎手は王国伝令だった。
馬は門をくぐると同時に止まり、伝令が飛び降りる。
息も絶え絶えに叫んだ。
「外交局特別調査官、クラリス・ヴァイン殿!」
「局長エリアス・ラウゼン閣下より急書!」
革筒が差し出される。
封蝋は王国の紋章で固く閉じられていた。
クラリスは封を割り、書状を開く。
最初の一行を読む。
『直ちに宿場町を放棄せよ。』
二行目。
『王都へ帰還するな。』
クラリスの眉がわずかに寄る。
意味が分からない。
王都へ戻るな。
ならば、どこへ向かえというのか。
最後の一行へ目を落とした瞬間。
指先から血の気が引いた。
「クラリス。」
ローウェンが書状を受け取る。
目を走らせた彼もまた、表情を失った。
そこに記されていたのは、ただ一文。
『王都は、すでに陥落した。』
朝風が草原を吹き抜ける。
誰一人、その意味を理解できなかった。
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