Phase8-8:白亜の閃光――虚構
少し前。
カザミが五階の廊下で目撃したのは、エレベーターの扉が開いたり閉まったりを繰り返す様子だった。
もう一人の警察官がメーナを狙いにいったのではないかと読んだカザミは、ワイヤーを駆使して階段を一気に跳び上がった。
五階に到達してすぐ。廊下を走ろうとしたところで、エレベーターが目に入った。
いや、目に入らざるを得ない。
血の赤が視界に、錆びた臭いが嗅覚に侵入してきたからだ。
エレベーターの箱の中で、腹を何かで貫かれた遺体が仰向けに倒れていた。
逃げ遅れたイレギュラーが殺されたのかと最初は思った。
そうではなかった。
血溜まりの中に、灰色のキューブが転がっていたのだ。
つまり彼こそが、マックスの言っていたもう一人のガード・アーマード装着員である。
五階にまで到達している時点で、やはり警察の標的はこの階にいたのか。
だが、その警察官が殺されている。
血溜まりから続く足跡が、平然と残ったままだ。
カザミはそれを辿る。角を曲がってから正面を見る。
遠ざかっていく刺々しい人影は、遠くからでは黒くも見えた。
しかしよく目を凝らせば、真なる色を認識できた。
緑だ。
首がやや斜めに傾きつつも、背筋はピンと立つ。しかし両腕はぶらんぶらんと揺らめくという異様な歩き方をしている。
カザミは、あの緑色のアーマードを知っている。
ゴードンが逃走していたのと時を同じくして夜の街に現れ、タロウ・サキヤマがライブ配信で追いかけていた人物だ。
だがあの時は、もっとまともな歩き方をしていたはず。
疑念がよぎっている間に、彼は足を止めた。
ある病室の扉を、両手で乱暴に揺らしている。いったい誰の病室か。
フロアの配置を思い返し、カザミは戦慄する。
彼は扉を押し倒し、中へと入っていく。
対してカザミも急ぎ、爪先で床を蹴った。
そして現在に至る。
推理どおり、緑のアーマードが狙っていたのはメーナであり、まさに接触寸前というタイミングだった。
どうにか跳び蹴りで敵を打ち飛ばすことができた。
窓ガラスと壁に打ち付けられた彼は、もたれるように座り込んでいる。
カザミは、ベッドの横で尻餅をついているメーナを見る。
もはや隠すこともせず、小刻みに身体を震わせながら顔を青ざめさせていた。
「そこを動かないで!」
下手に動けば戦いに巻き込まれる。メーナは頷きもせず、ただすがるようにこちらを見つめた。
ピクリ、と。
緑の装甲が動く。まるでゾンビのように揺らめきながら立ち上がった。
だが、ゾンビでは決してやらないような行動を取り始める。
彼の装甲の腰部には、携えている剣がある。
それを手に持った。
騎士が使うようなものと比べれば剣身は短く、等間隔に凹んだ横線も入っている。
すると彼は、剣を持った右手を引く。
ゴキッ、バキッ……。
歪みきっていた身体のラインが、骨の折れる音と断続的な動きにより修正される。
一転してその佇まいは、名のある一流の剣士のように見えた。
そして引いていた右手を、勢いよく前へと突き出す。鋭い刺突の構えだ。
だが、どう考えても距離がある。届きはしない。
そうカザミは思っていた。
ガキンッ!
剣身から生じた激しい金属音。
奇襲を意味していた。
剣の先端が、一瞬にしてカザミの眼前へと迫ってきたのだ。
「んなっ……!?」
カザミは、咄嗟に身を沈めて回避。
届くはずのなかった剣先が、狐の仮面の耳元を掠める。
いったい何が起きたのか。見上げて確認する。
一つの個体だったはずの刀身が、線ごとに細かく分裂。
しかしバラバラに散っているわけではなく、露出した内部のワイヤーによって繋ぎ止められている。
鍔の奥に隠されていた予備の刃までもが次々と滑り出し、全体の長さは元の四倍の長さとなった。
いわゆる蛇腹剣、あるはウィップソードというものか。
その長さの増大ゆえに鞭のようなしなりを覚え、既に剣先は天井付近にまで到達している。
そして刃の先端が、次に何を捉えようとしているか。
身を屈めたままのメーナだ。
それを瞬時に悟り、しゃがんでいたカザミはすぐさま、自身の腰と脚をバネのように浮かせる。
流れる動きで、右足が天へ届くように弧を描く。
サッカーのオーバーヘッドキックさながらの蹴りを繰り出す。
アルクス・ブーツは、対アーマード用の特注兵器だ。ワイヤーの線だけならば容易く斬れると想定しての判断だった。
しかし、爪先から出したナイフと、ワイヤーが接した瞬間。
ガィィィィッ……!!
硬さが全身に伝わった。
斬れない。
いや、所詮は一本の線。もっと勢いをつければ破壊できる。
とはいえこのワイヤーは、鋼鉄と同程度の強度を持っている。
普段、自分が使っているワイヤーもそうだ。
通常の流通には乗らない、軍事作戦を想定しての特殊仕様。
今のカザミの迎撃が影響したのだろう。
剣先は意思を持ったように、標的をカザミへと変える。
シュルルルルル……。
下から潜り込むようにして、高く上げていたカザミの右脚、その金属ブーツ部分に巻き付いてきた。
緑のアーマードが、柄を握る腕を振り上げる。
連動するように、カザミはその身を乱暴に持ち上げられた。
「うおわああああ!?」
天井と衝突――。
したように見せかける。
左足の踵部分からブレードを出し、天井に突き刺した。
これにより、背中への激突を回避。逆さ吊りの状態となる。
すると、剣の収縮が始まった。
ブーツに巻き付いている部分以外の刃片が、ガシャガシャと音を立てて鍔の中に戻っていく。
強引に、カザミの身体を自分の方へ引き寄せようというのか。
踵のブレードだけで支えられた身体が、引っ張られて大きく斜めに傾く。
「うわっ、やめっ――!」
なんとか耐える。右脚のブーツがギギギッ……と嫌な軋みを立て続ける。
しかし、これで終わってくれるはずもない。
緑のアーマードは、蛇腹剣を勢いよく横へ振り抜いた。
無理やり支えを引き剥がそうとしている。
ガギンッ!
踵のブレードが天井から外れる。
ただ、引き抜かれたわけではない。
引き抜いたのだ。
遠心力が働き、アーマードの方に引き寄せられながら回転。
彼は、自分が何をしてしまったのかをようやく理解したのか。ギョッと肩をすくませた。
カザミにとっては得意な間合いまで、詰めることができた。
「そっちが振り回したんだから!!」
左足の爪先からナイフを出す。
勢いを乗せ、回転するプロペラと同程度の威力を、敵の胸元へ叩き込もうとする。
当然、足首を掴まれた際の対処も想定済みだった。
優秀な刺客だとすれば、それくらいはしてくるだろうと。
しかし、何も起きなかった。
グサァッ!
緑の装甲の胸元を貫いた。
『グアアアアアアアアアア!!』
野獣のような咆哮を上げながら、彼は胸元を押さえて再び壁へもたれかかる。
楽勝とも、相手の迂闊とも取れる勝利。
カザミは拍子抜けし、薄ら寒さすら感じた。
いずれにせよ、これ以上は付き合っていられない。カザミは、まだ割れていない方の窓ガラスに近づいてから、吸盤のデバイスを取り出す。
それをガラスに当てた。
静電気を流し込み、窓枠からガラス部分のみを取り外す。室内へ適当に捨てた。
その間に、緑のアーマードが再び剣を握り直すのが見えた。
気づいたカザミは、窓枠に左足裏をかける。
その体勢のまま、腰の装置からワイヤーを射出。
頭を抱えてベッドの陰に縮こまっていた、メーナの胴体に巻き付けた。
「……へ?」
突然の展開に、大女優はきょとんとまばたきを繰り返す。
説明をしている暇もない。
カザミは一気にワイヤーを巻き取り、彼女を引き寄せる。
飛んできたメーナを、右腕で抱き寄せるような格好となった。
一方の緑のアーマードは、剣を振りかざす構えを見せた。
カザミは、メーナに呼びかける。
「足引いてて!」
「ななっ、何!?」
メーナが状況を理解するより早く、カザミは窓枠にかけた左足を強く蹴る。
抱き寄せられていたメーナも道連れとしてだ。
二人揃って、ふわりと窓から落ちた。
同時に、蛇腹剣による横薙ぎが発生。
ガガァァァッ!!
病室内のベッドを、テレビも壁も、まとめて粉砕する。
破片の雨と、二人の落下は並行して進む。
「いやあああああああああ!!」
メーナは目を閉じ、カザミの胸元に埋めて絶叫した。
五階からの飛び降りだ。何の対策も講じぬままでは、死へと真っ逆さま。
カザミはその身を斜めによじり、病院とは真逆の方角、駐車場を見下ろす。
高い電灯のポールがあるのを見つけ、すぐにワイヤーを射出。
一番上の丸い部分に巻き付けた。
あとは振り子の原理で、勢いが弱まるまで待つつもりだった。
しかし、ワイヤーを放つのが遅すぎた。
このままでは振り子の最下点で、地面と衝突する。
カザミは急ぎ、両足の踵からブレードを展開し、アスファルトへ突き立てる。
火花を散らしながら、一定の減速はできた。
ただ、完全に勢いを緩めることは叶わず。
メーナが下になっている今の体勢のままなら、怪我をするのは彼女だ。
ワイヤーを切り離してから、カザミは再びその身を捩る。
メーナの全身を両腕で包み込み、上下の位置を反転させる。
咄嗟の行動だったが、やり慣れた走り高跳び……。その背面跳びの要領に近いと思えた。
もっとも、着地マットはあまりに硬かったが。
ズザザァッ!
「うぐゥっ……!」
激痛に、片目を強く閉じる。
粗い地面による摩擦が、カザミの背部を容赦なく襲った。
特に、短いジャケットでは覆えていない、肌が剥き出しの腰裏は、酷い擦り傷を負った。
しかし無事、五階からの転落を生きたまま終えることができた。
アスファルトとのスリップも止まり、一旦深く息をついてから、メーナへ回していた腕の力を解く。
彼女を余計に心配させないよう、強がって自分から立ち上がった。
一方、強引な手段から解放されたメーナは、ぷるぷると震えながら涙目でその場に横たわる。
立て続けに恐ろしい目に遭ったのだ。当然の反応だとカザミは理解する。
彼女の顔前へと両手を差し伸べた。
それを見たメーナは、恐る恐ると両手を取り、立ち上がろうとする。
しかし、産まれたばかりの子鹿のように脚が震え、角度が覚束なくなっている。
両掌を真下に向けるという格好だが、なんとかカザミの支え無しに立つことができた。
「平気?」
優しく呼びかけてみると、少しの間の後に視線が合う。
開きかけた口が一度閉じられ、それでもカザミに対して何かを問いかけようとしてきた。
「何で……」
その途中。
カザミの視界の端に、凶気が入り込んだ。
ブチャァアッ!!
真っ逆さまに飛来した『何か』が潰れる、生々しい音。
「ひっ……!?」
メーナは振り返るよりも早く、カザミの肩へ抱きついた。
落ちてきたのは……人だ。
屋上から降ってきた可能性もあるが、見上げれば、窓が開いている場所は一箇所のみ。
メーナの病室だった。
いったい何者か。
詳細を確認するため、カザミはメーナを庇うようにして忍び足で近づく。
メーナは見たくないようで、またカザミの肩に顔を埋めた。
飛び降り遺体は、体格から見て男性で、うつ伏せの状態。
足の爪先で転がして、仰向けにしてやろうとも思ったが、やめた。
頭部は完全に損壊し、もう顎までしか残っていないからだ。
つまり判別不能。正体がカザミの記憶の中にある顔だったとしても、結びつけるのは難しい。
すると男の手元に、何かが転がっているのを発見する。
落ちる際に握りしめていたのか。せめてこれだけでもと回収しようとする。
驚愕した。
手で触れる前に、正体に気づいた。
ルービックキューブのような形状の、緑色。
この男の正体は、メーナを襲撃した、あのアーマードの中身だと考えていいだろう。
しかしなぜアーマードを脱衣し、自ら飛び降りたのか。
任務を果たせなかったから?
あるいは、自分の身を挺してでもメーナを押し潰し、殺害しようとしたのか。
だがそれにしては、距離が離れ過ぎている。
ともかく今の段階で、真意を把握することは難しい。
底知れぬ闇に触れ、カザミはゾッとした。
このアーマードとは今後も出くわし、戦うのではと予見していた。正体も分からない曰く付きの存在。
それが、こんなにも呆気なく死んだ。
背後にいるであろう組織にとって、どうでもいい命だったのだろうか。
ともかく、緑のキューブは拾っておく。何らかの手がかりとなる可能性が高い。
メーナの方へ視線を戻すが、まだカザミにくっついたままだった。
カザミにとっては慣れっこだが、人の死体を直視するというのは簡単に耐えられることではない。頭を撫でてあげる。
思えば、世界中の人々から羨望の眼差しを送られている大女優が、今こうして自分にしがみついているのだ。
少しの優越感と保護欲に浸りつつも、カザミは今後のプランについて伝える。
「バイクを停めてあるから、それに乗って遠くに――」
「多分この辺りからだ!!」
まさに、バイクを置いている駐車場の方角から声が聞こえてきた。複数の足音も近づいてくる。
カザミは慌ててメーナの腕を掴み、病院入口の方へと走る。
死角となる、外壁沿いの入口外側の壁に隠れ、そこから覗き込んで状況を視認。
例の飛び降り遺体を、二人の警察官が囲んで見下ろしていた。
この状況も当然だ。アーマードによる攻撃。メーナの悲鳴。謎の男の投身自殺。
大きな音の発信源がこれほど多くあれば、怪しまれないほうがおかしい。
ただ問題なのは、彼らが現れたことで、カザミのエアバイクを置いた場所まで辿り着くには、大きく遠回りするしかなくなったということだ。
果たしてそんな余裕はあるのか。新たな追手の増援が現れるのではないか。
そう懸念を抱いていると、逆の方角からだ。
ピーポーと、救急車のサイレンが近づいてきた。
病院の端にある救急車専用の搬入口にて、その車両が止まる。
後ろの扉が開き、ストレッチャーの上で横たわる患者が、二人がかりで下ろされた。
カザミの脳裏にて豆電球が光る。
スムーズな逃亡を試みるのであれば、近くにある足を利用するしかない。
メーナと手を繋ぎ、もう片方の手で身を低くするよう促す。
困惑しつつも彼女がしゃがんだのを確認し、救急車へ近づいていく。
しかし突如、手が離れた。
メーナによって力強く振り解かれたのだ。
彼女の方を見てみると、軽蔑の眼差しが送られていた。
「どういうつもり……! 明らかな窃盗罪よ!」
カザミが何をしようとしていたのか、動きで把握したようだ。
面倒なことになったと、カザミは軽くため息をつく。
仮面の下で、わざとらしい笑みを浮かべながら説明した。
「盗むわけじゃないよ。後でちゃんと返すから――」
「犯罪に加担するなんて嫌……! 私の名前はリストに載っていなかったから……警察に事情を話して、匿ってもらう!」
力強さを取り戻しての宣言だった。
分かっていない。
イレギュラーになったばかりだから、という言い訳はもう通用しない。彼女はまだ、この狂った世界を「正常だ」と信じてしまっている。
それを彼女に分からせるため、目つきを鋭くした。
「あの緑色が警察の手先だったら? そうじゃないっていう証拠はどこにあるのよ!!」
メーナはハッとなり、一歩後ずさりする。
身を震わせ、抗うように小さく口を開いた。
「お……」
しかし言葉が止まる。
続いたのは、自信なさげな声量だった。
「お母様が、私を、守ってくれる、から……」
カザミは、呆れてものも言えなくなった。
もはや説得は難しい。強い言葉しか思い浮かばなかった。
「じゃあここで鉛玉食らって、あの時ついて行けばよかったって後悔しながら死んだら!?」
メーナは呆然と目を見開く。
その顔を見ないように、カザミは背を向けて歩き出す。
せっかく助けてあげたのに。
だがいま考えれば、自己満足ではあった。
向こうは助けてくれなどと一言も言っていない。自分がやりたくてやっていただけだ。
イレギュラー化のきっかけを作ってしまった責任や、アング・リーという共通事項があるとはいえ、わざわざ助けてやる義理など最初から無かったのだ。
――こんなことになるんだったら、早くクロエの所に向かえばよかった。
少し距離はあるが、ストレッチャーを運んでいる救急隊員二人とすれ違う動線まで来た。
メーナに背を向けている状況のため、いったん狐の仮面を外す。怪しまれずに乗り切ることはできた。
すると救急隊員のうちの一人が、飛び降り遺体の存在に気づく。
後方の車両がある方を向いてから腕を振り、叫んだ。
「おーい! 来てくれー!!」
その声に反応して、救急車を運転していた人物も慌てて降り、遺体の元へと駆け寄っていく。
あまりにも絶好のチャンスだった。
カザミは周囲を見渡し、改めて他に誰も人がいないことを確認する。
運転席から、誰もいない救急車へと素早く乗り込んだ。
最後に出ていった彼も、突然のことで油断したのだろう。車のキーが刺さったままだ。
*
――何も言い返せなかった。
母のことを信じている。
どんな手段を使ってでも、娘である自分のことを守ってくれる。
そう自分に言い聞かせているのに、どうしても不安がよぎった。
集中治療室の密室で、マリウスはメーナに、死の恐怖というものを植え付けた。
この世界で生きることの過酷さを教えてくれているのだと信じたかった。
しかし心のどこかで、こうも思ってしまっていた。
本気だったのでは。
あのまま自分を、本当に溺死させようとしていたのでは。
そして緑のアーマードについても、何故ああも簡単に侵入を許したのか。
あの病室は絶対的に安全なのではなかったのか。
全てが分からぬまま立ち尽くすメーナを置いて、周りの状況だけが目まぐるしく動く。
「いや、まだ分からん! 確認用の器材を!」
「はい!」
メーナはふと、声の聞こえた方を見た。
遺体を調べていた救急隊員二人が掛け合いをしており、後輩らしい一人が立ち上がる。どこへ向かうのか行方を見つめる。
彼女は、もと来た道を戻っていた。
救急車のある方へとだ。
既に、狐の仮面の彼女が、あの運転席に乗り込んでしまっている。
このままでは、見つかる。
いや、気にかけることだろうか。
彼女とは考えが相容れない。目的のためなら何でもしようという、テロリスト染みた危険性がある。
アングと何らかの関係がありそうとはいえ、庇うなど馬鹿らしく……。
……アング・リー。
今のメーナにとっての、唯一の希望。
もし彼女が無事逃げられれば、彼も安心するのだろうか。
そもそも、と。
重大な事実に気づけなかったことを後悔した。
自分がイレギュラーになってしまってからの一連の流れで、本当に自分を守ってくれたのは誰だ。
彼女をこのまま、見捨てるのか。
「あの!!」
まだ悩みの最中ではあった。
にも関わらず、メーナは既に言葉を発していた。
咄嗟の呼び止めに、救急隊員が足を止めてこちらを見た。
「え。あ……」
メーナの顔を認識し、彼女は驚いたように周囲を見回しながら近づいてくる。
気遣うように小声で聞いてきた。
「大丈夫ですか? ここでの入院に関しては、内密にと聞きましたけど……」
この病院の関係者は皆、メーナの入院を知っている。だからこそ不思議な状況に思えたのだろう。
唾を飲みつつ、メーナは必死に満面の笑みを作る。
「そ……外の、空気を……と、思って。その……」
表情はともかく、不自然な理由しか言えない。
救急隊員の女性が、怪訝そうに首を傾げる。
直後。
キュルルルルッ!!
ゴムの擦れる甲高い音が鳴り響いた。
この場にいる全員がそちらを見る。
停まっていた救急車が、突如として猛スピードで旋回を始めたのだ。
運転席を見れば、あれは、仮面を外した彼女だろうか。
スモークガラスで顔はよく認識できないが、服装のシルエットは一致する。
救急隊員の女性が、愕然と口を大きく開けた。
「何が……。と、止まって!!」
右腕を伸ばして、救急車の方へ走っていこうとする。
身体が勝手に動いていた。
メーナは、離れようとしていた救急隊員の手首を掴む。
彼女を引き寄せ、救急車とは逆方向へ突き飛ばした。
「きゃ!?」
何もここまですることはなかったはず。
ただ、狐の彼女を行かせたい一心であった。
救急車は真っ直ぐに、病院の敷地から道路へ出ていこうとする。
行ってしまう。
ふと、不安が浮上した。
また一人になる。けれども耐えるしかない。
身体の震えは未だに治まらず。
だが、メーナは。
つい救急車の方へ、手を伸ばしていた。
行方も分からない何かを求めたくて、力なく。無意識のうちに。
すると、一体どういうわけか。
救急車は急ブレーキと共に、進行方向を変えた。
こちらに近づいてきている。あまり加速もしていない。
それどころか、歩くよりも少し速い程度の速度まで減速しているように思える。
まさか、という募りは、いつの間にか期待へと変わっていた。
バァンッ!
運転席の扉が勢いよく開く。
彼女はハンドルを右手で押さえたまま、左手をメーナに向けて大きく伸ばした。
「跳んで!!」
不思議と迷いはなかった。
メーナは駆け出し、同じように右手を伸ばす。
手首を掴まれ、身体が宙に浮く。
引きずり込まれるように助手席へと倒れ込んだ。
運転席の扉が閉まり、狐の彼女はアクセルを踏む。
「待て!」
逃すまいと、警察官が一斉に拳銃を構えた。
しかし救急隊員の女性が、警察官の拳銃にすがりつくように、両手で下げさせた。
「メーナさんが! メーナ・シンフォニーさんが乗ってるんです!!」
彼女のおかげで、どうにか銃撃からの危機は免れた。
メーナは窓ガラスに手を当て、振り向いた。
生き地獄の場と化していた病院が、どんどんと離れていく。
自分はこれから、どこへ向かうのだろうか。
何も分からなかったが、隣にいる彼女に、自らの運命を委ねることとした。




