Phase5-9:碧く滲む、置き去りの影
メーナが飼っている猫は、ラグドールという品種である。
「ブリテンちゃーん! 降りておいでー!」
そのぶくぶくに太った猫ブリテンが、クローゼットの上で丸まったまま、起き上がろうとしない。
あまり家主の言うことは聞かない猫だ。誰に似てしまったのか、少しふてぶてしさもある。
彼女が気に入るもう一人のメイドを探したこともあったが、結局誰に対しても懐くことはなかった。
「相変わらず嫌われてるみたいね~」
背後から、メイドの女性、グラートに茶化される。
貸家である高層マンションの契約と同時に、母が勝手に用意した世話係。手際は良く、既にクローゼットに届く三段の脚立を持ってきている。
ブリテンの見た目に関しては、グラートの腹の出方がよく反映されている。
「それはあなたもでしょう、飼い主のグラートさん? お母様は?」
「中央の脱獄事件で、対応に追われてるみたいね」
「じゃあ、今日のディナーは中止……」
「いえ。必ず行う、と釘を差されちゃいましたわよ。レストランで合流しましょう」
それはいいのだが……と思いつつ、メーナは眉を狭めた。
「わざわざワシントンにまで来て……。俳優なら辞める気ないわよ?」
「それは奥様も望んでいないんじゃないかしら。なんでも、娘の学校生活に興味があるって」
「回りくどい。テロ事件の調査ではなくって? まあいいわ」
脚立を受け取り、ブリテンが待ち構える高さまで上がる。
「ほらブリテンちゃん。お母様に会いに行くよ~」
前足の付け根から、お尻にかけて両手を差し込み、抱き上げる。
胸まで引き寄せたが、ジタバタと暴れ出した。
「うにゃあああ! シャァァァッ!!」
「こらこら、どうしたの? もー!」
宥めながら、メーナは軽く思考を巡らせる。
特に気にかけているわけではないが、ブリテンの反応の違いは顕著に表れている。メーナに対してはぷいっと顔を背ける程度。
しかし何故だろうか。
このように母の事となると、より一層に機嫌を悪くするのだ。
*
緻密な脱獄計画……と呼ぶには少々荒っぽすぎた。
自分たち専用の共同住宅へと戻るや否や、キャンディは我先にと、リッチなソファへぼふっと腰を落とした。
「ふはぁ~! 流石にダメかと思った~」
残りの三人も、リビング代わりの一室へと入る。
白衣をポールハンガーにかけたサイラックが、感嘆の声を漏らす。
「確かに。我々が危惧していた二つのパターンが同時に押し寄せましたが、そのどちらもが素晴らしいドライビングテクニック! 惚れ惚れしましたよ」
「別にどーでもいいよ? 警察の方に至っては、すっごくバカそうだしね!」
ケラケラと響く笑い声をよそに、ジョリントは、部屋の奥にある大窓まで歩み寄る。
そのすぐ傍にはピアノがあり、吸い寄せられるようにカナがそこへ座った。
両手の指を全て鍵盤へ添える。
そして落とす。
高音と低音が同時に鳴った。
理解しがたい音階の飛び方をした。
『エリーゼのために』を演奏しているのだとは分かるが、元の音程と全てが外れていた。
キャンディは、歯ぎしりしながら両手で耳を塞ぐ。
「ね~、うるっさいんだけどー! 子守役は~!?」
彼の所在について、ジョリントが答える。
「今ごろ公演の真っ最中です」
「ツアー最終日なんていいから、こっちに来てよ~! 耳がおかしくなる!」
後ろで手を組むサイラックが、喚き散らす彼女の後ろに回り込む。
「世間の顔というものは大事なのですよぉ? キャンディさん。あなたと違って」
「キャンちゃんにも爆破アーティストという肩書がー!」
談笑が始まってしまったため、ジョリントは、ピアノを弾いている彼女を見下ろす。
逃走中のカナの異変を思い出した。
精神的な混乱の危険がある、というのは聞いていた話だ。ブルー・アーマードの根源、宿る者との兼ね合いから、可能性は高かった。
そして、実際に起こってしまった。
問題となるのは、いったい彼女がどのタイミングで発狂し始めたのか。
ジョリントは一つの仮説を立てている。
バイクで追いかけてきた少女の、狐の仮面が割れた瞬間。明確にあそこから異常が生じた。
あの少女はいったい――。
いずれは調査するべきだとは思っていたが、予定を早めなければならない。カナが落ち着いてから問い質してみようと思った。
ともあれ、今は明日からの予定についてだ。
ジョリントが口を開く。
「時は来ました。統括官という壁は崩れ、コア・アーマードもいま扱える物は出揃った。あとは権力の中枢を掌握するのみ」
眉をだるそうに傾けたキャンディが、前のめりになる。
「あの美魔女と手を組むなんて、ぜっったいこっちを下に見てるんだから、できればイヤだ!」
「それは向こうも同じ心境でしょう。私たちは利用し合う関係。仮に如何なる介入があろうとも問題はありません」
彼女に背を向け、ジョリントは窓の外を見下ろす。
歩く人々。行き交うパトカー。客寄せをするロボット。
彼らは何も知らない。この世界の歪みについて。
狂ったBGMは未だ続く。
「私たち『ケイオス』の理念が覆ることはない」
*
パッチの作業を待っている間に日は暮れ、しかしカーテンは右側を開いたままだった。
寝室は一つの闇となり、パソコンとパッチの顔面モニターのみが光源となっている。
パソコンと向き合っていたパッチが、ベッドの上に脚を組んで座っているカザミを見た。
『パエリアのお米がフヤケテしまいますが……』
今は上手い返しが見つからない。ただ沈黙を貫く。
帰宅してすぐ、約束通りディナーを用意してくれていたパッチだったが、彼にすぐ頼み込んだ。
警察署の隣にあった商業ビル。その監視カメラへのハッキングをだ。
コマンドプロンプト上の無機質な文字列だけがしばらく続いていたが……。
一時停止された映像がポップアップした。
「来た!?」
『時間ヲ戻シマス』
カザミは飛び跳ねるように立ち上がり、パッチの肩に手を載せた。
巻き戻る映像を凝視する。警察による現場検証が行われていた現状況から、大窓のガラスが割れるあの瞬間へ。
まず、カザミが救出した男性が、飛び降りる姿が映し出された。
僅かに倍速再生する。
警察署の最高階層にも人影が見えたところで、一時停止。
三名の人影であり、覆面の人物が、派手な衣服の女性を抱え上げながら飛び降りた。
そして残った一人。
ブルーの中にいた少女で間違いない。
『確かにコノ背丈の少女ダトいうコトは驚きデスが……。ソコマデ気にする程デスカ?』
カザミが確かめたかったのは、彼女についてだ。あまりにも脳裏から離れないでいる。
「もっと拡大」
『ハイハイ』
荒い画質が左から右へ、鮮明に補正される。
顔の輪郭から表情、目の形までがハッキリと浮かんだ。
髪の色は、やはりどこか、脱色されたような薄い青。貼り付いたような笑みと、淀んだ黄色の瞳。
その顔つきは、大人びているというよりは……。
どこかあどけなく。
可愛げが、あり……。
――待って。
息が震える。
指先が震える。
テーブルを掴んだ手が、離れようとしない。
『カザミ様?』
パッチが絶句に気づく。
彼も拡大された顔を直視し、解析の音が鳴る。
ピィーーーーッ。
エラー音。
愕然はすぐに伝染した。
『ソ……ソンナ、まさか!!』
彼は、散らかった物を押し倒しながら、リビングへ駆け足で戻った。
「……違う」
胃の中が逆流しそうになる。
あの日の絶望が勝手に浮かぶ。
段ボールの箱。
蓋を開けた。
残虐で、しかし、望みを打ち砕くには簡単すぎる中身だった。
「違う……ッ」
爪がテーブルに食い込む。
だから、そんなはずがないのだ。
あるわけないのに……!
パッチが戻ってきた。
寝室に踏み入れてから、足取りがひどく重たくなる。
マニピュレーターには、常に伏せていた写真立てが握られていた。
カザミと同じ、薄髪色であるはずの家族。みんなが写っている笑顔の写真。
『比較検証……終了』
鼓動が強まる。息が止まりかける。
「やめ、て……」
『髪色を対象カラ除外シタうえデ、一致率は九十七パーセント』
生存への安堵は無いに等しい。
あの子が。
自分が先ほど、殺そうとした相手だから。
『カナ・シルヴァ様……。アナタの妹と見て、差シ支えナイかと』
(つづく)




