二十皿目・中編『ミレたん、歴史は紡がれる』
王都の通り。
焼き上がった甘い匂いが、風に乗って流れていた。
その中心で──
「はむはむ……」
ミレアが、頬いっぱいにベビーカステラを詰め込んでいた。
小さな口で懸命に咀嚼しながら、次を手に取る。 迷いがない。完全に“食べること”に集中している顔。
その横へ、礐壑が歩み寄る。
「美味しそうですな」
ゆるやかな声音。
岩から降り、静かに地に足をつける。 その一歩だけで、足元の石畳がわずかに沈む。
「礐壑も食べる〜?」
ミレアがひとつ摘み、背伸びして差し出す。
が、届かない。
腕をいっぱいに伸ばす。 つま先も浮く。
その様子に、礐壑はわずかに目を細め──腰を折る。
差し出されたそれを、素直に口へ運ぶ。
「っ、おいしい?」
「……はい」
短い答え。 だが、その声には確かな満足があった。
その光景を──ヴァルグレアは、少し離れた位置から見ていた。
(……これが、神か……?)
遠いものを見るような目。
神竜と焉龍。 世界の根幹を担う存在。
それが、屋台の菓子を分け合っている。
(いや……違うな)
視線がミレアに向く。
(この女が、異質すぎるだけか……)
アークリンク配達連盟。 その名が頭をよぎる。
(あの組織……何を抱えている……)
思考が深く沈みかけた、その時。
「こんな軽いお菓子でもね」
ミレアの声が、静かに落ちた。
「食べたくても食べられない子が、この国にはいるのよ」
空気が、わずかに変わる。
ヴァルグレアの視線が動く。
「……待て」
一歩、前へ出る。
「それはどういう意味だ」
純粋な問いだった。
否定ではない。 理解が追いついていないだけ。
ミレアは視線だけを向ける。
「言葉通りよ」
静かに、淡々と答える。
「この国には、家もなく、親もいない子供がいる」
ひとつずつ、置くように言う。
「残飯を漁って、盗みをして、それでも足りなくて……飢えてる子がね」
その顔は、もう笑っていない。
ただ、“見たもの”を語る者の顔だった。
「バカな」
即答。
「孤児院も、支援施設も、十分な数を用意している」
言い切る。
「資金も、人員も、足りているはずだ」
それは事実だった。
建設途中の施設。 日々の食事。 最低限どころか、余裕を持たせた配分。
「溢れるはずがない」
自信がある。だからこそ──
「わたしは、この目で見たわ」
ミレアは遮る。
「頼れる大人もいない兄弟」
少しだけ、遠くを見る。
「兄は盗みに出て、弟は店の前で残り物を待ってる」
静かに言う。
「それでも、誰にも拾われない」
嘘には見えない。 理由もない。
「……そんなはずはない」
それでも、否定する。
「この国に住んでいるなら、必ず管理されている」
声が少しだけ強くなる。
「親がいない子供なら尚更だ」
ミレアは、わずかに首を傾げる。
「それ、人間以外も含めて?」
「当然だ」
間髪入れず返す。
「種族問わず、全て対象だ」
「そう」
一拍。
「じゃあ、その支援金」
ミレアの目が、まっすぐ刺さる。
「誰が“届けてる”の?」
言葉が、止まる。
「……我が国が、建国以来共に歩んできた家系だ」
誇りを込めて答える。
「信頼できる者たちだ」
それは嘘ではない。 事実だった。
「そうね」
ミレアは頷く。
「最初は、きっとそうだった」
言葉は柔らかい。だが──
「あなたの背中を見て。あなたと一緒に積み上げて。同じものを見てきた人たち」
一歩、近づく。
「その子供たちも、きっとそうね」
ヴァルグレアは、何も言わない。
「でも──」
ミレアは、少しだけ首を傾ける。
「その“次”は?」
沈黙が落ちる。
「孫は? そのまた次は?」
言葉が、重なる。
「みんな、本当にあなたの背中を見て育った?」
──詰まる。
呼吸が、わずかに乱れる。
「……」
ミレアは続ける。
「最初は、あなたも現場にいたんでしょ?
自分で見て、聞いて、触れて。だから、分かってた」
視線が逸れない。
「でも今は?」
一歩、引く。
「城の中で、報告を受けて。数字を見て。“大丈夫”って判断してる」
その言葉は、責めていない。
ただ、事実を並べている。
「世代が変われば、価値観も変わる。
距離ができれば、見え方も変わる」
ほんの少しだけ、笑う。
「その中で、“竜王ヴァルグレア”って存在は──」
言葉を切る。
そして、静かに落とす。
「どんな風に映ってるのかしらね」
沈黙。
長くない。
だが、重い。
ヴァルグレアは、何も言えなかった。
否定できない。
分からない。
確かめてもいない。
(……私は……)
初めて、視界の外に意識が向く。
“見ていない場所”へ。
ミレアは、くるりと背を向ける。
「ま、別にいいんだけどね〜」
軽い声に戻る。
「それはそれで美味しいものが増えるだけだし♪」
またひとつ、ベビーカステラを口に放り込む。
「ん〜♡」
頬を緩める。
「こういうお菓子も悪くないわね〜♡」
その横で──礐壑は何も言わず、ただ静かにヴァルグレアを見ていた。
重く落ちた空気の中で──礐壑が、ゆっくりと口を開いた。
「……小僧」
低い声。
ヴァルグレアの肩が、わずかに揺れる。
「ミレア様の言葉は、間違ってはおらん」
淡々と告げる。
否定はしない。
「だがな」
わずかに間を置く。
「それは“崩れている”という話ではない」
視線が、街へ向く。
人の流れ。 灯り。 生活。
「“変わった”のだ」
静かに言う。
「人は、同じではおれん。
世代が変われば、積み上げ方も変わる。想いも、形もな」
ヴァルグレアは、静かに聞く。
「貴様が見てきたものと、今のそれが違うのは当然だ」
礐壑は腕を組む。
「問題はそこではない」
一歩、踏み出す。
「それを“知らなかった”ことでもない」
視線が、刺さる。
「……知ろうとするかどうかだ」
沈黙。
「王とはな」
ほんの少しだけ、声音が落ちる。
「すべてを見ている者ではない。
すべてを“見ようとし続ける者”だ」
その言葉は、重い。
わずかに顎を引く。
「別にそれが悪いことではない」
短く、切るように言う。
「ただ──」
わずかに視線が細くなる。
「貴様は守るばかりで、王として──民を“導く”ことをしなかったのではないか?」
その一言で、ヴァルグレアの内側に冷たいものが走る。
「導く……?」
思わず、言葉が漏れる。
この竜王国は、建国以来一度も他国へ侵攻していない。
攻められれば、自らが竜となり、すべてを焼き払う。
それだけで十分だった。
やがて周囲は理解した。
この国に手を出せば終わる。
それだけで、この国は大陸で最も堅牢で──同時に、
“最も戦いを知らぬ国”となった。
軍は縮小され、資金は支援へ回る。
危機が来れば、自分が出ればいい。
それで足りていた。
「貴様は、皆の指針を示すのではなく、“シンボル”であり続けた」
礐壑が言う。
その声には、責めも、嘲りもない。
ただ、事実だけがあった。
「その結果──貴様の苦労を知らぬまま、役目だけを受け継ぐ者が現れる」
「……っ」
胸の奥が、わずかに軋む。
「そしてこう考える。これほど余裕があるのだから、多少は懐に入れても問題ない──とな」
その言葉は、刃のように重かった。
裏切られた、というより──
見落としていたものを、突きつけられた感覚。
「……私は、間違っていたのか……?」
ぽつりと零れる。
礐壑は、すぐには答えない。
ほんの一瞬、間を置き──
「ふむ」
低く唸る。
「では問おう」
視線が、真正面から刺さる。
「貴様が思う“正しさ”とはなんだ?」
「……何者にも脅かされぬ安寧こそが──」
「理想を語るな、馬鹿者が」
即座に、切り捨てられる。
空気が、重く沈む。
「それは結果だ」
礐壑の声は、低く、整然としていた。
「民の盾となる王。理想の王。
だがな、小僧」
視線が鋭くなる。
「貴様は外ばかりを見ている──内を、見ていない」
「っ……」
言葉が、刺さる。
逃げ場はない。
「貴様の行いは間違いではない」
礐壑は、そこで初めて“認める”。
「それもひとつの形だ」
その上で、踏み込む。
「しかし、この国は貴様という柱一本で立っている」
静かに、しかし確実に。
「その柱が折れれば──この国は崩れる」
沈黙。
否定はできない。
事実だった。
「……」
ヴァルグレアは、何も言えない。
礐壑は、そんな彼を見下ろしながら──言葉を落とした。
「竜王・ヴァルグレアよ。──“王でいるな”」
「……?」
意味が、繋がらない。
だが、続く言葉で──すべてが変わる。
「民の王である必要はない」
視線が、街全体をなぞる。
「──国の“王で在れ”」
礐壑の言葉が、静かに沈む。
妙に、重く響いた。
「国の、王……」
ヴァルグレアが、ゆっくりと街並みを見渡す。
灯り。 人の声。 行き交う影。
そこにあるのは、守り抜いてきた日常だった。
「なにも、他国に攻め入れと言っているのではない」
礐壑が続ける。
「血を流すことでしか学べんこともある。厳しさ、というものも必要だ」
そのとき──近くを走っていた子供が、段差に躓いた。
「っ……!」
ヴァルグレアの身体が、反射で動く。
だが──
「待て」
低い声。
礐壑の一言で、足が止まる。
「……見るがいい」
短く言われ、ヴァルグレアは視線を戻す。
子供は地面に手をつき、顔をしかめる。 膝を擦りむき、血がにじむ。
一瞬、泣きそうな顔になるが──
歯を食いしばり、立ち上がる。
走るのをやめると、ゆっくりと歩き出した。
「……」
その姿を、ただ見つめる。
「今、あの子は知った」
礐壑が言う。
「どこで走れば危ないのかを」
静かな声。
「だが貴様は──」
わずかに視線を向ける。
「転ぶ前に、すべてを受け止めてしまっていた。
学ぶ機会を、奪っているのだ」
言葉が、深く落ちる。
「“身をもって知る”」
礐壑が続ける。
「それは小僧──貴様が、最もよく知っていることではないのか?」
その瞬間、脳裏に焼き付いた光景が蘇る。
「……っ」
息が詰まる。
「……そう、か」
ぽつりと零れる。
礐壑は視線を戻し、淡々と続ける。
「転んだ先が崖ならば、手を掴んでやればよい。
それが“守る”ということだ」
言い切る。
「すべてを支えることではない。
必要な時に、落とさぬことだ」
そのまま、礐壑はミレアの方へ歩き出す。
その背中は、変わらず重い。
ヴァルグレアは、その背を見送る。
「……私は……」
静かに口を開く。
「怖かったのかもしれんな」
視線が、街へ戻る。
「また、失うことが」
あの日の光景。
仲間たちの笑顔。 当たり前だった日常。
それが、何の前触れもなく消えた。
「……だから私は」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「共に歩くことをやめたのだ」
守ることだけに、徹した。
外を見張るだけの存在へと、自らを変えた。
「……はは」
小さく、笑う。
自嘲でもなく、諦めでもない。
「私は、過去に囚われていた」
目を閉じる。
「止まっていたクセに、導こうなどと……」
軽く首を振る。
「出来るはずもないな」
その顔には、もう迷いはなかった。
完全ではない。
だが──前を向いている。
「……さ」
小さく息を吐く。
「仕事仕事」
足を踏み出す。
今度は、迷いなく。
竜王殿へ向かって歩き出す。
その背は──守るだけの王ではなく、
“動き出した王”のそれだった。
二十皿目・中編『ミレたん、歴史は紡がれる』
おしまい




