不安の正体
葉月 三十日 午後五時 展望台
人は、人の罪を認識した時、倫理観に基づいて罰するべきなのか。それとも、科学的根拠に基づいて本人の判断能力を精査し、更生を促すべきなのか。
そしてこの論争は、自分自身にも当てはまるのだろうか。自分の好きなものがすぐ近くにあっても気付かないほど、薄情だったことを責めるべき?それとも、自分自身の物事に対する興味関心が薄いことを認識し、改善すべき?分からない。なぜ気付かなかったのかも。
声だって聞いたはずなのに、有り得ない。
今目の前で爆笑しているこの男が、髪の長い少年と一緒の時と同じ色眼鏡をかけたこの男が...。
「推しである僕に気付かないなんてひどいすよ。笑」
「えぇ、ほんとすみません」
「本気であやまるな、傷つくでしょ」
......曖昧に生きてきたツケだ。自分には明確なものなど何もないのだと、自覚させられる。
「もうダメだ...アイデンティティの危機はいつになったら終わるんだ......でも貴方のことは好きなんですよ、ほんとに」
「この流れで言われても信用ならんな...」
しんみりしてしまった。
「あ、ここ普段は人口密度0なので、過ごしにくかったら眼鏡外しても大丈夫かと。」
「あぁ、確かに。前も誰も来なかった。」
「あとは私が帰るだけですね、もう来ないのでご安心を。」
「いや、僕を1人置いていく気?失礼に当たるよ?
推しに対して。」
「オフの時は推しもオフじゃないですか......」
もう、一対一の会話から逃げたい。
そもそも、どうしてこんなとこで出会ってしまったんだろう。推しなんて、自分からしてみると画面越しでもう十分だ。なのに、さっきこの展望台でぼけっとしていたら、彼が来た。しかも私のことを覚えていて、話しかけてきた。そして、彼が自分の推しであることに、私は初めて気づいた。
「君の名前なんだっけ、ゆ.....みたいな...」
「ゆずです。柚です。」
「あー、そうだったそうだった。最初聞いて、女子とか男子とか分からないなと思ったの覚えてる。でも話してみても、分からなかったんだよね。」
......その話題には触れないで欲しい、話を逸らそう。少なくとも得体の知れない人間に話すことじゃない。まぁ、推しなんだけど、ある意味得体の知れない人間だし。
さて、ここで問題が1つある。私は、思ったことを言葉にするのが非常に遅い。時間があれば、上手くやれるが、即座の反応は非常に苦手だ。つまり、対話での駆け引きはすっごく不利...
「ねぇ、君。ゆずさんさ、完全な女子ではないでしょ。」
やっぱりタイムオーバーだった。
...どうゆう意味ですか...?と聞こうか一瞬迷ってやめた。多分最適解を出すのに1分はかかる。私は会話を放棄した。
痺れを切らしたのか、彼は答えを急かしてくる。
「無言の肯定?」
「ぃぇ...なぜそうお思いになられたのです?」
「俺、そーゆーの雰囲気で分かるから」
特殊能力だなぁ...それがあれば、どんな人にとっても大丈夫な態度ではなくて、それぞれに最適な態度をとれるのだろうか。それと、
「一人称変わりましたね…」
「オフなんで。あと、推しがオフって言うんだし、気軽に話してくれ。数少ない同族だし。」
「同族......?」
思わず目を合わせてしまった。夕方、仄暗くなった展望台では、ブラックコーヒーのような色に見えた。
「俺はまだ浅薄だけど、多分Xジェンダーとかいう...」
ドキリとした。今度ばかりは私も、表情に出してしまった。わざとこちらの目を見て言った彼は、軽薄な笑みを浮かべている。あー...もういっか。いや、諦めるのはまだ早い。
「一人称はかっこいい方が好きで、つかってるんですか。」
「"僕"とか使ってると、自然体になりすぎて、家族に違和感持たれそうでさ。"俺"を使っている限りバレないって安心感が癖になっちった」
なるほど。確かに、最近の世間には乙女な男子とかが溢れてるから、違和感ない。一方で、自分を男子と思っている家族には、男らしく接してきたから。気づかれないよう、ずっと演じ続けるために。
......同族だ。心からそう思った。