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女性三人が二階へ上がっていった。
竹本は行き場のない思いを呻きにして、どっかりと元の椅子へ座った。
ソファが空いたのだから対面に座ればいいのに、と梅本は小首を傾げる。
「最悪だな」竹本がポツリとつぶやいた。
こんなときでも、つい笑ってしまう悪癖のある梅本だが、今回は憮然とした表情を崩さなかった。斜にかまえて片方の肘掛けに頬杖をついている。
「あぁ。笹尾な……」
竹本はズルズルと椅子に沈んでいった。脚を組み替えると「いや、お前がな」と訂正した。
梅本が眼球だけで竹本を見て「え~俺かよぉ」と、おどけて言った。竹本は鼻でフンと笑った。呆れたのかもしれない。
「これで笹尾もグルだったらどうするよ?」
「ハッ」片手で梅本の問いを払った。「冗談でもそういうことを言うなって」階段を気にしている。「場所を考えろ」
「へいへい。悪かったな」
「ほんとに……。あ、悪いと思うなら梅本お前、床を何とかしてくれよ。今ならまだカーペットのシミ、どうにかなるんじゃねぇか?」
「はあ? 惚れた女の家の床だぜ。お前が口で吸い取ればいいんじゃねぇの」
言って梅本は邪魔くさそうに立ち上がった。
「このままってわけにはいかねぇしなぁ」竹本もようやく気を吐いて腰をあげた。「雑巾はどこにあるんだろうな。――まったく、他人ん家ってのは勝手がわかんねぇよな」
――(惚れた女)のくだりは受け流しやがったか。
梅本が床に散らばった食器をせっせと流しに運び、ひび割れや欠けを丹念に調べてから洗っていく。竹本はティッシュと雑巾を、両手使いでトントンとカーペットを叩いている。
食器棚に片しているところへ、美雪だけが下りてきて、梅本の横に立った。
「笹尾の様子はどう?」
彼女は首を横に振った。「何か食べさせようって」
「そうだな。たぶん何も食ってねぇだろうしな。天ぷらならあるけど?」
茶葉を探して、また棚を次々に開いていった。
美雪は、ん~と鼻で言いながら、勝手に冷蔵庫を開けて物色し始めた。
「私やりますよ。ここへは何度も来てるし」
「そお?」
梅本は美雪に場所を譲って、竹本の様子を見に行く。
彼は変わらずカーペットのシミと格闘していた。シミはだいぶ薄くなっているように見えるが、乾くとまた浮き出てきて目立つようになるはずだ。
どうしても気になるなら、その部分を大胆に切り抜いて、同じ柄のものをはめ込むしかない。もちろん、そこまでする義理はないし、どうせ笹尾は、松本と暮らしたこの部屋から出ていくんじゃないかと思った。
一時的なことかもしれないが、収入がなくなったのだから、今回のことがなくても、こんな高そうな家からは出て行かざるを得ないんじゃないか……。
「なんか洗剤がほしいところだな」
「布の汚れだろ、洗濯用洗剤が効くんじゃね?」
「なるほどな。ちょっとお湯で溶いてやってみるか。――なかなかヤルな、家事えもん」
竹本は立ち上がって膝のあたりを擦る。
「うるせぇよ」
「おーい柳ぃ。洗濯場はどこだ?」
キッチンで忙しそうにしている美雪は、チョイと指し示した。
「竹本、笹尾の洗濯物とかを盗むんじゃねぇぞ」
「バッ、だから場所を考えろっつーの、お前は!」
梅本たちが作業に没頭している間に、美雪は何品かを作りあげていた。
「はーい。どうぞぉ」
美雪の呼びかけに立ち上がって、ダイニングテーブルに並べられた皿を見た。そして彼女の背中を、梅本たちの視線が追った。
――おぉ、柳のくせになかなかヤルじゃねぇか。
彼女は意外にも手際がいいようで、梅本たちの分まで用意していた。ビールがひと缶ずつそえられている。松本がビール党だからだろう。冷蔵庫の中段にまだまだ転がっていることを、梅本はさっき確認していた。
「炊飯器のご飯と、天ぷらは全部食べちゃってください」
美雪は一膳分少々と、スナック菓子をお盆に載せて上がっていった。
「竹本。せっかくだから食おうぜ」
「笹尾に食わせるために買ってきたのに、俺たちで片づけるってのも、何だかな……」
そういう竹本は、また階段に目をやった。
梅本は、これを食ったら退散するものだと思っていたが、竹本がどうにも帰ろうとしない。梅本のビールにまで手をつけて、運転拒否の姿勢だ。松本を偲んでいるかのごとく、思い出話にけりをつけないでいる。それに相槌を打ちながら、梅本は、どこで寝りゃいいんだろうな、と考えていた。
その後、咲と美雪がたまに下りてくるものの、二階にもトイレがあるのか、笹尾は一度も顔を見せなかった――。
明くる朝。
美雪らに後のことを頼んで、梅本と竹本はシビックに乗り込んだ。竹本はエンジンを始動してしばらく、松本家の二階あたりを見つめていた。
笹尾のことを心配する気持ちに偽りはないが、梅本の中では解放感のほうが勝っている。
「運転、変わってやろうか?」
「いや、いい」
シビックはゆっくりと発進していった。
「じゃあ、パーッと風俗にでも行くか?」
「そんな気分じゃねぇよ」
そういう答えが返ってくることは予想していたので、気落ちするでもない。(じゃあ、いつにする?)と、しつこく食い下がれる雰囲気でもない。二人きりで一人が沈黙すれば、とうぜん車内にも沈黙が流れる。梅本に漫談話術が備わってないかぎりは。
竹本が憂さを晴らすように荒い運転を続けていた。こいつも感情が行動に出るタイプだ。
昨夜はテーブルに突っ伏して眠っていたうえに、硬いレーシングシートが、腰にくる。救いといえば、このぶんなら、少しだけ早く帰宅できるだろう、ということだけだった。
「じゃあ、また電話する」
「ああ。夕方くらいに一度、高下に電話してみるよ。じゃあな」
竹本と別れ部屋に帰って来ると、さっとシャワーを浴びて、気持ちの切り替えを図った。こっちだって住む所がなくなるんだから……と梅本は独りごちた。
パパッとと身支度を整えると、バイクにまたがった。目指すは陣内不動産。
(たがわ)で会ったとき、陣内は(力になってやれる)と言っていたが、あれから何日も経っている。はたして覚えてくれているだろうか? その場かぎりの社交辞令か? と不安がないわけではない。
マンションから陣内不動産まで、距離的には近い。しかし、バイクだと駅周辺を迂回しなければならないので、徒歩で行くのとそう変わらない時間を要した。
その道中には、梅本が派遣されたことのある会社が五つもあった。こんな仕事を十年も続けたならば、この街の生産業のすべてにかかわってしまうのではないか、と想像するときがある。街を歩けば顔見知りだらけ。実際そうはならないとしても(あの人、どこかで会ったことがあるんだけど……)なんてジロジロと見られるのは御免だった。
梅本は到着すると路肩にバイクを寄せて、店のドアを引いた。
真正面にいたのは、かねてより聞いていた、十八時になるとパッと帰ってしまうという巨乳の事務員だ。
「いらっしゃいませ。どうぞぉ」声が低い――。
なるほど、美人の部類に入ると思われるが、彼女の目つきは客商売とは思えないほど鋭かった。
「あの~梅本といいますが、陣内さんはいらっしゃいますか」
「社長?」
これだけで客ではないと見たのか、声質はさらに悪くなるし、口の利き方もなっていない。その事務員は面倒くさそうに立ち上がって、奥の部屋へ呼びかけた。
陣内はすぐに出てきた。梅本の顔を見るなり、顎をさすってニヤリとした。
「もう最後の頼みの綱です」わざと情けない声で言った。
「わっはっは。力になるって言ったろ。最初からウチへ来いよ」
その言葉にすっかり安堵した、梅本の顔はへらへらと緩んだ。
そこへ、スマホが梅本の胸ポケットで鳴った。すいませんと断って画面を見ると、竹本と表示されている。
――なんだよ、やっぱり風俗かよ。タイミングを考えろ。
「はいよ。ちょっと今、不動産屋に来ていて……」
(だいぶ、マズいことになった。――笹尾が、笹尾がベランダから飛んだ)
「は?」
(高下と柳が、二人とも下へ行っていた間に、ベランダの柵を……)
頭の中で笹尾の顔がグルグルと回った。店内の一点を見つめる梅本の表情が、ぎゅっと険しくなっていく。
「あぁ……わかった」
陣内が訝しんで「どうした?」
「あ、すんません。と、友達が事故ったみたいなんで、すぐに行ってやらないと……。ち、ちょっと日を改めます。すんません」
帰ろうとする梅本の肩を、陣内は首根っこをつかむ勢いで、手をかけた。
「いいから座れって。麦茶を一杯飲んでいく時間くらいはあるだろう。慌てたところで、いいことなんて何もねぇぞ」
陣内が目配せすると、事務員が今度は素早く立ち上がった。




