94
ピンポーン、と鳴るそばから玄関ドアの開かれる音がして、けたたましくも女性の声が響いた。
「葉月、変な電話寄こしたっきり電源切っちゃって、何がどうしたってのよ。もぉ!」高下咲の声だ。
キッチンに立ってゆっくりと振り返った梅本の頬は膨らみ、唇が油でツヤツヤになっている。時間が経つにつれて萎びていく天ぷらを不憫に思ったのではなく、たんに小腹がすいたのだった。
「――あ、梅本さん、お久しぶりです。――えっと、こんばんは」
梅本は喋れないので、代わりにリビングを指差して応えた。
そちらに目を向けた彼女は「ちょっと葉月ぃ」と、竹本と笹尾が話し込んでいる、ソファセットへと向かった。梅本のことはこの際どうでもいいという感じだ。
美雪は、脱ぎにくい靴を履いてきているのか、咲より少し遅れて入室してきた。
案内表示のように指差したままでいる梅本は、あいかわらず小柄な女だな、と思った。
そんな彼女が生意気にチョイっと片手をあげた。片口を歪めると、
「ふっ……変な顔」そう言い放つと、咲の分のスリッパを持って、リビングへ行った。
――チッ。この、どチビめが!
二人掛けのソファに、咲が笹尾の肩を抱くように寄り添って座る。美雪は向かいの一人掛けに腰を下ろした。竹本はその隣の一人掛けに座っている。四人が四角く向かいあった。
ソファセットが定員になったこともあって(関係者以外、立ち入り禁止)のドアが、突如現れたような気がした。松コーポレーションを退職した自分は部外者である、と思えてならなかった。あの輪の中には加わりにくいものだ……。
しかしながら、他人の家で独りくつろげる場所なんて見当たらないし、それが許される雰囲気ではないことも重々承知。今から始まるのは、面白くも何ともない、笹尾を慰める会だろうし。もし、独りタクシーに乗って帰っていいのなら、そうしたかった。
「ねぇ、それで何があったの?」
咲は笹尾に反応がないと見るや、竹本へ目を向けた。が、その竹本も笹尾に遠慮しているのか、ウーンと唸って下唇を突き出したままだ。
それから誰も、あのズケズケとものを言う美雪でさえ、口を閉ざしていた。
駆けつけてくれた女友達に事情を話さないままでは、何も進まない。それならば……と思った。
梅本はしかたなく適当な食器をあさる。五人分のコーヒーを淹れて運んでいった。美雪が梅本のために椅子を空け、ソファの手摺部分へ尻をのせた。蚊帳の外にいる感じだった梅本が、進行役のように口を開いた。
「今回のことで、松コーポレーションの社員は、みんな事情聴取とかを受けたんだろ? まぁ俺ん所へも刑事が二人来たけどな。――会社はなくなってしまうしさ。理由も聞かされず、給料も出ないんじゃ、納得がいかないよな」
咲と美雪が目を丸くした。
「会社のことなの?」と、笹尾と梅本を交互に見やった。
「聞いてもらおう。な、笹尾。――警察から発表があったら、新聞とかテレビでいずれわかることだしよ」
笹尾の様子と、この場にいない松本と警察署。この三つのワードから、松本が人身事故を起こして、身柄を拘束されている。もしかして、松本の飲酒運転で、さらには被害者は死亡した、などと二人は想像していたのかもしれない。
笹尾は泣き顔で梅本を一瞥すると、コクリとうなずいた。了解を得たと思った梅本がうなづいて返した。
「昨日の晩に、松本と小枝……蝦夷松部長が会ってたらしいんだ」
梅本による現状説明が始まった。
彼は前原刑事が言ったままに説明している。とはいえ、知っている事柄はそう多くないので、話は早々に終わった。犯行の手口などはまだ明らかになっていない。とにかく梅本らも知らされていないし、動機も憶測でしかないので言わなかった。
話の初っ端から、咲は険しい表情になっていた。美雪に至っては、信じられないといった感情がそれに混ざっているようだ。ずっと口に手をあてたまま、頭を小刻みに振っていた。彼女にとって松本は、憧れの対象だったのだ。
「いつからとか、気づいたことはなかったの?」咲が訊いた。
何を掘り下げようとしているのか……。それはありきたりな質問であり、笹尾にとって酷な話だ。
竹本が泊まりに来たときの電話で、笹尾は松本に嘘をつかれていることを知った。そのときから、どこぞの女との浮気を疑い始めたはずだ。もちろん、もっと以前から彼女が知っていた可能性はある。とにかく、それは自分の口から話す内容ではない、と思った。
「部長から急に連絡があって、会うことになってだな。松本は、警察に出頭するよう説得へ向かったのかもしれねぇぞ」
それはないかな、と思いながらも梅本は意見した。
それに全員がハッと顔を上げた。
笹尾は……彼女に限らずここにいる者はみんな、松本と小枝が男女の関係だったと思っているようだが、まだ決めつけることはできないはずだ。分け前に目が眩んで、犯罪の片棒を担いでいただけの関係かもしれない。担いでいただけでも重罪には違いないが……。
松本は笹尾に嘘をついてまで、度々外泊している。その回数を知るのは彼女だけだ。その外泊のすべてに小枝がかかわっているとは言いきれないが、笹尾の頭の中ではそうなっているだろう。
彼女にとっては重要なことだ。
それに一番大きなリアクションを見せたのが竹本で、
「あの松本なら、あり得ると思う。とにかくまだ詳しいことは何もわかってないんだからよ。笹尾、気落ちするのは早すぎるぜ」と、笑みを見せた。
笹尾は歯を食いしばって、ゆっくりと立ち上がった。咲も支えるように立とうとするので、一旦、美雪も尻をあげた。
竹本の言葉に気を張り直して、顔でも洗いにいくのだろうと思いきや、笹尾は突っ立ったまま、こぶしをブルブルと震わせた。そして突然に、ガラステーブルの上の食器をなぎ払った。飲みかけのコーヒーはカーペットにシミをつくり、偶然にも割れなかったカップとソーサーが床に転がった。
咲は、キャッとたじろぐも、すぐに「何やってんの、葉月!」と言って、彼女の両肩をつかんだ。一転して穏やかに、
「二階へ行って、ちょっと休もう。ね?」と囁いた。
やがて二人は硬い表情のまま、その場を後にした。美雪がそそくさと二人の後を追った。
思わず立ち上がっていた男二人は、互いの視線を交わした。すぐに片さなければ、カーペットの被害は広がるばかりだが、そんな気にはなれなかった。
梅本はドサッと椅子に腰を下ろし、竹本は立ったまま彼女らの背中を見送っている。
階段下には、その三角スペースを利用して、ちょっとした棚が設けられている。そこに飾られている品々は、どこかの土産物だったり、トロフィーだったり、フォトフレームもあった。
笹尾がそこまで行くと、咲の手を振り払った。ちょっとした間が、この場にいた全員の目をクギづけにする。彼女が凝視しているのは、松本と一緒に写ったフォトフレームだ。
竹本がいち早く立ち上がった。
床に叩きつけるのだろうな、と誰もが思った瞬間、想像以上に派手な音がした。
「もう、葉月……」
「いいかげんにしろよ!」怒鳴ったのは、梅本だ。
派遣先で、いろんな製造業にかかわってきた。物に八つ当たりする彼女の態度が気に障った。金を払った者が、それをどのように扱おうが勝手、という考え方に反感をおぼえていた。いや、切っ掛けになったにすぎない。
おいおい、と窘める竹本を無視して、梅本は言い放った。
「可哀相な私は何をしてもいい、なんて思うなよ。みんな、お前のことが心配で集まってるんだけど、それにどっぷりと甘えて、無茶苦茶するなよ」
笹尾がキッとなって振り返った。
「どうせ、松本さんを選んだ私がこんなふうになって、ざまぁみろって思ってるんでしょ! 二人とも私に気があったこと知ってんだから!」隣まで聞こえてしまいそうな音量だった。
思わぬ反撃に、梅本がぐっと顎を引く。
「ちょっと止しなよ、葉月」
――なにを! だいたい誰のせいで、おねぇちゃんに体を洗ってもらう予定が流れたと思ってんだ!
「そんなもんは昔の話だろ。俺はとっくにあの会社を辞めてんだよ。それで個人的にお前のストーカーにでもなったかよ? ざまぁみろ、なんていちいち思ってられっかよ、ばぁか」
「もう、梅本さんも、いいかげんにして!」
竹本が一、二歩寄った。
「なぁ、誰もそんなふうに思ってないって。――俺は今でも、笹尾のことが好きだからよ。そんなふうに思われてたんなら、悔しいぜ」
咲が長い顔をさらに伸ばし、美雪がいやらしく笑んだ。当の本人は泣き崩れてしまっているので、その耳に届いているのか否かは、微妙なところだ。梅本は盛大に顔を歪めて、竹本を見上げている。その心の内に(たがわ)で感じたような嫉妬は湧いてこなかった。
普段の竹本なら、
(たとえ笹尾が松本のお古でも、俺はぜんぜん構わないぜ)
とかなんとか失言して、女性陣にぶっ飛ばされるはずなのだが、今はさすがにそんなふうにはならなかった。




