66
六時半――。
梅本はリュックの中身を確認して背負った。
花川の持ってきたパンを全部いただいたので、朝の腹拵えは万全だ。ただ、あらたに陰鬱な気分を抱くことになってしまい、出勤するのが億劫だった。
彼女はまだベッドで眠っている。
「お~い、もう行くぞ」
あ~う~と呻いてから、彼女は「がんばってね。おやすみぃ」と言った。
「べつにいいけど……。じゃぁここにスペアキーを置いとくから、出るときに下の集合ポストへ入れといてくれな」
ガラストップテーブルでパチンと音を立てる。
その音に反応した花川が首を起こす。目を擦っている。その流れで起き上がり、見送りに立つかと思いきや「う~い、了解」と返事だけをよこす。力尽きたようにパタリと腕を降ろすと、こちらに背を向けた。
梅本は呆れて、特徴のない天井を仰いだ。
いちおう下見していたので会社の場所はわかっていた。
考えてみると、出勤する会社の場所が曖昧なんてことは、就職していれば通常ないことだが、梅本の場合はド短期なので、ほぼ毎回だ。少々の緊張も毎度のこと。それを当たり前と思うようになっていることのほうが驚異だと思う。
まだ六時台なので出勤渋滞はなかった。バイクはゆったりと走り、約十五分で快適に目的地へ到着した。カンネスサービスから電話で依頼を受けたときは、タイヤの卸売店みたいなところを想像していたが、どう見ても産廃業者だった。昨日受けた印象を今朝も繰り返し受ける。
じつは昨日、この倉庫みたいな会社の敷地外で、梅本は「ここに何か用か?」と、強面の人から声をかけられていた。この会社の従業員であることは一目瞭然だ。来客が珍しいといった感じで、訝るような言い様だった。
梅本が慌てて名乗って、所在地の確認云々と真面目な理由を述べると、その男は破顔一笑した。
「あぁ、明日来てくれる人か。そしたら、中でコーヒーでもどうだ? バイクは、ほれ、そこの端に寄せといたらいい。明日もそうしてくれ」
梅本に遠慮する間を与えず、その男はさっさと踵を返した。
先ほど自販機で飲んだばかりだったが、しかたなく言われた通りにしてついていった。
開け放しの間口から倉庫内を覗くと、すぐ左の角にプレハブが建っている。これが事務所らしい。
「あっ社長、もぉどこに行ってたんですか。タマキさんから先ほどお電話がありましたよ。帰ったら折り返しますって言っときましたけど」
――う~わ~、ここの社長かよ。
「あぁそう。――梅本くんは、ちょっとそっちに座って待っててくれな。麻子ちゃん、コーヒー」
「いやあの……すんません」と梅本。
その後、電話を終えた社長が戻って来て、どっかりと梅本の前に腰を下ろした。そして、訊いてもいないのに、仕事の流れとこの業界の薀蓄を教えられた。その間にも数名の従業員が出入りした。社長がそのつど梅本を紹介するので恐縮至極だった。明日一日だけの助っ人なのに、まるで今日からずっとお世話になります的な雰囲気が漂い始めていた――。
早めに到着した梅本は、いつもよりも少しだけ気安い挨拶をして、従業員らの輪に加わった。喫煙組はプレハブの外に集っている。梅本はタバコを吸わないが、外へ出た。
やがてラジオ体操の音楽が倉庫内のスピーカーから流れ、事務所からも人が出てきた。社長や昨日コーヒーを淹れてくれた金髪の女性も一緒だ。
工場や土木現場と同様、朝はラジオ体操から始まる。
その後短い朝礼があって、安全作業十か条の唱和。社歌まで歌いだすもんだから、梅本はついて行けずに隅っこで居づらい雰囲気を味わっていた。
「それでは今日も一日ご安全に!」社長がパンッと手を打ち鳴らし、従業員らが散っていった。
どうしたらいいのかわからない梅本が、社長について事務所に入ろうとすると、短髪でごま塩頭の男が梅本に近寄ってきて、言った。
「聞いてると思うけど、あっちこっち回って廃棄タイヤの回収な。行く所は決まってて近場ばっかだし。二週間にいっぺんくらいのことだけど……」
「はあ」――この人について行けばいいのか?
「大物があるから、そのときだけけっこう大変なんだわ。俺なんか、ほれ」
男は作業着をペロッとまくった。腰には薄汚れたコルセットが巻かれていた。
「腰痛ですか?」
「そうよ。まだ、グキッとやっちまったわけじゃないけど、まぁ予防だな。今日は頼りにするけど、あんたも気をつけてくれよ」
「はい。あ、梅本です。よろしくお願いします」
「おう。じゃぁさっそく行こうか、梅本くん」
男は名乗らなかったが、左胸に(鳴子)と刺繍がしてある。他人の作業服を借りているとは考えにくいので、なるこさんでいいだろう。
鳴子がすたすたと歩いていく先に、くたびれた1・5tのトラックが停まっている。荷台のアオリ部分は通常より高く補強されていて、走行中に少々荷が跳ねても脱落しないようになっているようだ。
見た目とは裏腹にエンジンは一発で始動。が、やはり強振動で車体と搭乗者を絶えず揺さぶる仕様になっていた。
走行中は何とか安定している。ギコギコと錆びの回った車体のきしみ音が気になる程度だった。ところが信号待ちのときが酷い。シートの下から、不定期にダダダッとエンストしそうな突き上げがくる。鳴子は慣れているのか、気にしていない様子。
――あぁ酔いそう。
決まったルートがあるらしく、地図などに頼る様子はない。それぞれの店舗で廃タイヤ置き場が違っているのは当然で、鳴子はそれも承知していて、車をつける位置が絶妙だった。店の従業員へ回収業者らしからず「おう」とぞんざいに声をかけ、作業に取り掛かる。一々丁寧な挨拶はなかった。
「鳴子さん、新しい人が入ったの?」
「いや、バイト」その程度の会話しかない。
回収量の確認をしてもらって、サインを貰う。そしてさっさと次へ行く。
梅本は最初の店でさっそく洗礼を浴びていた。廃タイヤに溜まっていた水とボウフラをズボンにくらったのだ。見えていただけに不注意だったとしか言いようがない。
作業じたいは、何店か回っているうちに要領を得た。少し持ち上げ、一度バウンドさせたタイミングから一気に力を入れると、わりと楽に載せることができた。
「かぁ! 今日は多いなぁ。よし、一旦戻るぞ」
「……はい」
1・5tトラックの荷台容量では満載に達するのも早い。だからといって、店舗に横付けできないような狭い所もあるので、これくらいの車でしかたないのかもしれない。それにしても、と嘆く。まだ午前の九時台だ。背中と腕に筋肉の張りを感じている。あと何往復することになるのか……。
昨日買った作業服は、すでに木炭で落書きされたようになっていた。
帰りに通った大通りはだいぶ混んでいた。
カーエアコンは壊れているらしく、ただの送風器状態。窓を全開にしているので、走っているときはマシだが、停まると自分の汗を絡めた熱気がムアッと停滞する。鳴子の吐いたタバコの煙が、梅本の顔をかすめていく。
――早くここを通りすぎてくれないかな。
もう少し行くと、梅本が以前勤めていた松コーポレーションがある。
「落ちたものね」
ふいに小枝に言われた言葉が脳裏に浮かんだ。意外とダメージをくらったのかもしれなかった。元同僚にこの姿を見られたくないと思った。
梅本は頭に巻いたタオルを取り、顔を覆うように拭った。
松コーポレーションの店舗前まで来ると、ちょっとした人集りができていた。格子シャッターは閉まったままで、その前に販売員の笹尾がいた。営業の松本がいた。馬鹿面の竹本がいた。
店を閉めたまま、会員様だけを裏口から入店させるという特別な日。
――そうか。またイベントをやっているのか。




