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「いったいどうやったら、こんな数字になるのよ! 私をお客様に見立てて普段通りにやってみろ!」
蝦夷松小枝は、梅本の丁寧に撫でつけられた髪をグシャッと鷲掴みにして前後に揺すっている。小枝の腕力くらいなら抵抗できそうなものだが、梅本は海中のワカメのようにゆらゆらと揺れていた。そのオフィスにいた同僚たちは皆視線を逸らしていた。
成績トップの松本は、こんな仕打ちをされたことがないだろう。竹本がミスをしたときには、こんなにネチネチと叱られていなかった。営業成績が悪い。そんなことはわかっている。壁に貼り出されている棒グラフで一目瞭然だから。それにしても小規模の売り場しかない地域を担当させておいて、こんな数字も何もないもんだ。
言われたことはきっちりやっている。営業マニュアルは隅から隅まで読んだ。営業成績が芳しくないのは自分のせいではない。
梅本は大勢の前で、上司に叱咤されている間中、ずっと俯いて口を尖らせていた。
「あぁクソ! あの女と会っちまったせいだな」
ベッドのヘッドボードに埋め込まれている時計で、二十時四十分の表示を見た。
少し肌寒い。空調が体に合っていないか。梅本はV字腹筋を数回して起き上がった。洗面所に立っていって顔を洗う。髪の寝癖が酷い。小枝に掻き回されたときみたいだと、夢の中と同じように口を尖らせる。
心苦しい夢だった、と思う。
松本の努力に竹本の発案力……。
自分は指示されたことしかしてこなかった。仕事を勘違いしていた。遅刻せずに出勤さえしていれば、自動的に月給が振り込まれる。そんな甘い考えでいた。
事務職など、会社には直接金を引っ張ってこない人材も必要なのだ。原材料の調達費も然り。そんな諸々の経費とその人たちの給料を、営業が稼げなくて誰が稼ぐのか。自分の給料分だけを稼いでいても、会社は成り立たない。二十八万円の月給を貰っていた梅本は、あの業種でなら、月に百万円以上の利益を上げなければ、お荷物となる。……なっていたに違いない。今ならばそれが理解できた。
部下を焚き付けるのも上司の役目。それもわかっている。だが、小枝には腹が立つばかり。あいつを認めるのは嫌だった。
明日行く会社の場所を確認して帰ってきた梅本は、小用を済ませた後、さっそく届いていた寝具を試そうと寝転がって、いつの間にやら本格的に寝てしまっていた。今までいたアパートとは段違いの防音のせいもある。こんな時間に睡眠を取ると、明日の仕事に支障が出ないかと心配だったが、寝てしまったものはしかたない。
温かい物を腹に入れたい気分だ。電気ポットには水を張ってある。インスタントならコーヒーもラーメンもすぐだ。
が逡巡して、せっかく食材を買ってきたのだからと、キッチンに立った。鍋を火にかける。IHなので実際に火は見えないが。
お米はまだない。実家の兄夫婦にはまだ連絡していないからだ。
買ってきた食材を頭に巡らせて思った。
――ジャガイモで腹を膨らませるか。他にあるのは卵とベーコンと玉ねぎ……酒のツマミのようなメニューになりそうだな。
下拵えを済ませ、鍋にジャガイモを投入する。十五分くらいかと踏んで、梅本は手を拭いながらベランダへ出ていく。
外は冷えた体にほど良いくらいの生温い風が吹いていた。地べたをアリのように行進する車も静かなものだ。花川の住むマンションは結局聞きそびれているままだが、死角だとか言っていたから、方角的にこっちではないのかもしれない。
部屋の中へ戻ってジャガイモの様子を見ていると、チャイムが鳴った。ここに来て初めて聞く音だ。
キッチンの脇にあるインターホンで応答する。モニターの中で手を大きく振っているのは、花川だった。
「は? 何してんの?」
「暇だから来た。開けてー」
モニター越しに話すのもどうかと思って、開錠ボタンを押した。
ハッとして洗面所に駆け込み、髪を撫でつける。一度濡らさないと無理そうだ。
程なくして花川が上ってきて、チャイムが鳴った。
ドアを押し開くと、彼女は梅本を押し返すような勢いで入ってきた。突然の来訪にこちらが喜んでいると決めつけたような笑みを浮かべている。
胸に押しつけられたビニール袋を受け取って覗くと、安そうなコンビニワインが二本入っている。もう一つの袋は惣菜か何か?
花川はキッチンの様子を見て言った。
「ごはん、まだだったの?」
「買い物から帰ってきて、さっきまでちょっと寝てたんだよ」跳ねた髪を片手で梳く。「まぁ、材料がこの程度だから居酒屋メニューになるかな。ちょうど良かったかもな」
ニヤッと彼女は笑んだ。
「料理するんだ」
「花川さんはしねぇの?」
「うん。凝った物はしない」
嫁でも恋人でもないのだから、そこには引っ掛からない。ふ~んと返して、箸でジャガイモを突く。
「ツマミにいろいろと買ってきたから」
「おう、助かる」
いったい何の用があって来たのか、と無粋なことは訊かない。彼女もまるで定位置が決まっていたかのように収まって寛ぎだした。
「ねぇ、これが言ってたレンタルのやつ?」
キッチンから顔を覗かせると、彼女は敷布を手で擦っていた。
「そうそう。このコップとかも全部借り物。先払いで結構取られたんだぜ」
「じゃあ、もっと稼がないとね」
梅本はぐっと顔を歪めて渋面になった。
資本主義で稼ぎが悪いのは無能の証。現状で満足している者はいいが、仕事がないなどと愚痴を言う輩は、自分で商売を始めようとも考えていない。給料が安い職場であっても、その業種のノウハウを学んだり、そこで修業したりする意味で就職した者には可能性がある。それ以外は、儲けるアイデアを何も思いつけず、ただ雇われるという楽な選択をした者だ。
梅本は身につまされる思いを隠して「おう」と返事をした。
花川がグラスを取りにきて、ひと通り洗って持っていった。この部屋にワイングラスなんてのはない。さらには、ワインオープナーがないことに気づいた花川がボトルを持ってきて、梅本の鼻先に突き出した。歯で開けろとでも言いたいのか。
「中に押し込んじまうか」
「うん。どうせ飲みきってしまうから、それでいいんじゃない。私、明日は休みだから問題ないよ」
「え、そうなの?」
コルクの頭を切り取って残りを押し込むと、上手くいった。
「まずは乾杯しようよ」と彼女が言うので、一旦リビングへ行った。「おつかれー」とグラスをあてて、最初の一杯をグッと開ける。
「後はもう合わせて炒めるだけだから」
「うん。梅本さんの手料理待ちね」
梅本がキッチンへ戻り、花川はテレビが点けた。
ジャガイモとベーコンを炒めている間に、彼女は買ってきたツマミを皿に移し替えていた。
「やっぱ米が欲しいよな」
「そういう人いるけど、私はいっさいお米を食べないようにしてるから、よくわかんないわ」
「あれ、米農家をディスってんの? 俺の実家、農家なんだけど」
「べつにそうじゃないわよ。――あ、じゃあ家業を継ぐ予定とかあったりして?」
「それはないかな。こうして家を出てるわけだし」
その後も怪しい雰囲気にはならず、二人は歌番組を観ながら馬鹿話に花を咲かせていた。二本のボトルは知らぬ間に空いて、飲み物といえばコーヒーか水道水になっていた。
彼女は「追加で買い出しに行こうか」と訊いたが、梅本は「明日は七時スタートだ」と言って遠慮した。
――えっと、全然帰る素振りを見せないんだな。
二十三時になって、観るともなしにただ点いていたテレビからニュース番組が流れる。
花川がNHKにチャンネルを変えたときに、聞き覚えのある土地名の字幕が目に入って、二人は注目した。
アナウンサーは、隣の県で拳銃を所持している男二人を逮捕した、と伝えている。男らは近隣県でバイクの窃盗を繰り返していたらしい。画面には、見覚えのある黒のワンボックスカーが押収されていく様子が映っていた。
「これって……梅本さんのバイクもこいつらの仕業じゃないの? ほらほら、余罪の追及だってさ」
梅本は半分塞がった眼を無理やりこじ開けて「こいつらかぁ!」と、彼女に合わせて憤ってみせた。
――もう一人は自宅療養中かな?




