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ディーゼルターボの力強い加速で、組長宅を後にした。
ハンドルを握る陣内は、肩口から後ろへ鍵を差し出し「梅本くん、もう外していいぞ」と言った。
手錠の締め加減がわからなくて、梅本の手首は赤くなっている。ちょうど陣内に、締め直したい、と言おうとしていたところだった。
後部座席にいる梅本の右にはキャッシュカウンター、左には今外した手錠とジュラルミンのアタッシュケース、そしてタヌキのはく製があった。
「梅本様へ社長が相識の証に、とのことです。大変勉強になったと言っておりました」
「はぁ……」
だからありがたく受け取るように、と続くのだろう。いらないと言える状況ではなく、目で陣内に助けを求めても無視された。
タヌキは、立ち姿で笠をかぶり、丸々とした徳利を前足で抱えている。
はく製なので、頭部はデフォルメされたキャラクターのそれと違い獣丸出しだが、見ようによっては可愛くもある。死ねば誰かの糧となるか、土に還るのが自然の摂理というものだが、人間に捕まったのが運の尽き。生前のコイツは、まさか自分がそんなポーズで固められるとは、想像すらできなかったに違いない。
梅本は自分の部屋を思い浮かべた。
台座を含め五十センチ弱ほどあるコレを、どこへ飾ろうと異物と認識せざるを得ない。なので、とても迷惑していた。
「陣内さん、どうするんですか、コレ」
「そんなのうち店に置きたくないし、梅本くんが名指しで貰ったんだから、どうしようもないな。あ~、リサイクルショップは駄目だぞ。あそこの若い連中に見つかったら、面倒くさいことになりかねないしよ。そうだな……処分するなら、せめて県外まで出てくれ」
梅本はギクリとした。今まさに金に換えようと思いついたところだったからだ。
「梅本くんって以前は営業だったって言ってたよな。場の繋ぎ方なんてなかなかどうして……、やっぱ経験者だなって感心したよ」
「緊張しましたよ。行先が佐伯組だってことは、事前に言っといてくださいよ」
「ハハハ……。先に伝えて、梅本くんに断われたら困るだろ、俺が。――にしても、大場興業が佐伯組だって、よく知ってるな。やっぱ行ったことがあったんだろ」
「どうしてわかったんですか?」
「玄関入ってすぐの、ほらあの熊。あれを見て動じないって、珍しいなと思ったからよ」
「あぁあれ、デカいし、今にも襲いかかってきそうですもんね。初めて見たときは、私もびっくりしました。あそこの人って、その様子を観察して楽しんでいるような節がありますよね」
梅本は、当時に抱いたどす黒い負の感情の欠片も見せず、出戻り娘のエピソードを、面白おかしく話した。
「俺もあの娘は苦手だわ~。我儘放題で若い連中からも嫌われていそうだよな。そうそう、社長の後ろにくっついてたデカい男がいただろ? 柳とかいう。今、あれの女房に収まってるんだよ」
「え、そうなんですか?」
梅本は柳を不憫に思った。
「あぁ。俺が新居になる物件を世話したからな。あのときも、言いたい放題だったわ」
ハイペースで走ったおかげで、帰路は恐ろしいほどに短かった。時刻は二十三時十五分――。
陣内は駐車場を行きすぎ、店の前へベンツを進めた。荷物があるので、そのほうが梅本としても助かる。
ところが、もう少しで店の出入り口の真横だというのに、陣内は車を停めた。梅本が怪訝そうに顔を上げると、目の覚めるようなクラクションが鳴り響いた。
「ど、どうしたんですか?」
梅本が前席へ首を伸ばす。陣内が「ほらあれ」と、顎で前方をさした。
「店の前で何やってんだ、まったく」二回、三回とクラクションを鳴らす。
「あ、ちょっと動きましたね……。私が行って起こしてきます」
「そぉ? すまんな」
梅本はタヌキを避けて降り立った。
陣内ハウジングの前で倒れている男に近づくと、酒と油の混じったような匂いが、どんどん強くなった。男は酔っぱらいの典型のような赤ら顔。サラリーマンふうで小太りだった。
その幸せそうな寝顔に、事件性は感じられない。梅本は諸々のことを総じて「大丈夫ですか?」と声をかけた。
男はうるさいとばかりに寝返りを打つ。
梅本が男の頬をピシャピシャと打ち、肩を揺すると、薄目を開けて微笑んだ。そして今度はゲフーッと熱い毒霧を吹き上げる。
「くっさ!」
怒りのボルテージが急激に上昇していく。それでついには男の襟首をつかんで、強引に引き起こした。そのまま引きずって、店から遠ざけようと試みた。背後から脇を持って移動させれば良かったのだ、と思ったのは、それから数秒後のことだ。
その様子をしばらく静観していた陣内が、車から降りてきた。
「梅本くーん、もういいよ。面倒くさいけど、警察を呼ぶわ」すでに電話を操作していた。
「そう、ですね……」
梅本が鼻息をついたと同時に、なんと男は豪快にゲロをぶちまけた。梅本は声にならない悲鳴をあげて、とっさに男を殴ってしまった。
男が、ひぇぶっと面白い声をあげて上体半捻りで突っ伏し、泣きそうな表情で頬に手をあてながら、また寝た。
大学生のとき――
泥酔した女子をおぶって帰る途中、背中に失禁されたときのことが、頭に浮かんだ。その後、梅本はその娘と同棲を始めている。
――あれよりも酷い。
酸っぱい匂いがツーンと上ってくる。もらいゲロしそうだった。ベンツのヘッドライトで梅本の惨状は赤々と浮き上がっていた。
「う~わ~。すぐ脱げ。店の横手に水道があるから、すぐにそこで洗い流したほうがいいぞ」
梅本は涙目になってうなずいた。前屈みになり、生温い汚物が肌に触れないようにして、歩きながら脱ぎ始めた。
「金だけは先に運んでおくからな」
「はい」と言う返事が、じつに弱々しい。
駅前交番からこの場所は近い。それで二名の警察官は徒歩で現れた。
状況を説明しているのは陣内。そこに野次馬が六人ほど。
警察官という仕事は本当に大変だ。不承不承といった感じながら、ゲロまみれの男に優しく接している。
その警官のうちの一人が、どこからか聞こえる水の音を不思議に思った。耳を集中させて音源を探った。
「おい、そこで何をしてるんだ!」
懐中電灯の光の中に、梅本はパンツ一枚の姿でいた。手にはホース。その表情は怒りに満ちていた。
――恥ずかしいから、照らすなって!