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ベンツのGクラスは法定速度+四十キロで走った。
梅本はキャッシュカウンターを傷をつけまいとして、後部座席で踏ん張っていた。
「はい。大丈夫ですよ。……そうですね、もう十分といったところですかね。……ええ、わかりました」
かかってきた電話を切ったところで、陣内は軽く舌打ちした。
「夜遅くがいいって言ったり、まだかと催促したり、ハァァ……言いたい放題の好き放題だわ」
まとまった金を払うときに、客がそっと胸を張るのは、どの業界にでもあることだ。しかし、お客様は神様です、なんていうのは店側の心持であって、客側からVIP待遇を強要するのは傲慢でしかない。
「今晩、持って帰る金額は、いくらぐらいなんですか?」
梅本が後ろから話しかけると、車は少しスピードを落とした。
「あぁ、二千八百。中古アパート丸々一棟、お買い上げって感じだな」
「そりゃ大金ですね。そんな額、いっぺんに持ったことないですよ」
それは本当のことで、梅本の記憶では、五百万円が自己最高額だった。
「そうなの? まぁ俺も最近では無いかなぁ。銀行に振り込まれた数字だけを確認して、その数字がどっかへの支払いで減っていく。その繰り返しだわ」
「そうですよね。あっでもウチは今、手渡しです。まぁ少額ですけど」
「へぇそうなの。俺も昔は普通に会社勤めをしてたんだけど、給料の手渡しなんて、最初の一年くらいだったよ。世間には、給料日に会社帰りの父さんが襲われた、なんて事件がけっこうあったんだわ。ATMがどこにでも置いてあるようになってからだな、支払い形態が振込みになったのは」
「へえ」
梅本は傍らにある薄いジュラミンケースに目を落とした。記録更新を今か今かと待っている。それが自分の懐に一円も入ってこないことは承知の上で、そわそわとしていた。
ところが、やがて到着した家の前で、梅本は意気消沈する。この四階建てのコンクリート造りの屋敷を知っていたからだ。
ここは組事務所兼、組長宅……。
思い出すのは、目のつり上がったご息女に、ふくらはぎを蹴られたときの記憶。梅本は両肩に漬物石でも載せられたかのような鈍重さで、車から降りたった。
今から五年前。
離婚して出戻っていた四十前後の女は、最初から怒っていた。
元々つり上がっている目をピンピンに細めて、梅本が持参した商品カタログを手に、梅本を睨んでいた。
彼女は脚を何度も組みかえてみせるが、その脚が太くて短いので、背もたれがなければ、後ろへひっくり返りそうな様子。梅本の位置からは、そんな彼女のパンツがずっと見えていて、千切られんばかりに引き伸ばされたパンツから、臭いよー痛いよー、と悲鳴が聞こえてきそうだった。
「アンタの所で買ってやるって言ってんだから、現物を持って来なさいよ」
「ありがとうございます。しかし、うちで扱っている商品を、すべてこちらへ持ってくるわけにはまいりませんので、まずはそのカタログで何点かに絞っていただいてですね……」
「全部持ってくればいいじゃない!」
――そんな無茶な。どれだけあると思っているんだ。
「だいたいお前、誰だよ?」
「は? 梅本でございますが」
「私は、松本くんに来てくれ、と言ったのよ」
「ええ、あいにくと松本に先約がありましたので、とりあえず私が代わりに……」
彼女はカタログをテーブルに叩きつけ、勢いをつけて立ち上がった。
一緒になって立ち上がった梅本の横に来て、ローキックを放った。進入角度が良く、体重も上手く載っていた。
「お前じゃ、イヤ」
――気が合うね。俺も、お前がイヤ。
「アイタタタ……。まぁそう仰らずに、よろしくご検討ください。こういうカタログは見ているだけでも楽しいですし、もし中に気に入った物がございましたら、お電話ください。次回は松本がその商品を持ってお伺いします」
彼女はドアを開け、
「柳ぃ! お客さんがお帰りよ」と、ひと言唸りながら、そのまま部屋から出ていった。
すぐに梅本は、柳と呼ばれた屈強そうな男から丁重に見送られて、屋敷を後にした。
「今月の新作とか、彼女に似合いそうな物を、あらかじめ何点か持っていくのが当たり前だろうが、このカス!」
会社に戻った梅本が、先ほどのやり取りそのままに報告すると、蝦夷松部長からもローキックをおみまいされた。
怒りに任せて蹴りを放った蝦夷松小枝が、軸足のヒールをくねって転倒した。それを見てグスッと吹いた梅本は、その後三十分もの間、ネチョネチョとイビられた。
梅本と同期の松本 幹夫というトップセールスマンがフォローに走り、二百五十万を売り上げて帰社するまで、事務所内の空気はピリピリと張り詰めたままだった