18
藤木モータースの営業時間は午後八時まで。とはいえ、個人経営なのでけっこう融通が利く。
周囲を見渡せばわかるように、夜中にエンジン調整をしていても、騒音によるクレームはつきそうにない。なので、この店では遅くまでレース用のバイクを整備したり、休業日前夜の追い込み修理に時間を忘れていたり。近くの零細企業の社長たちがやって来て酒盛りをしていた、なんてこともあった。
好きなことを仕事にしている藤木を、梅本はときに羨ましく思っていた。彼は常連らしく、来客用の扉からではなく、バイクの搬出入口から店内へと入っていった。
「ちは、もう閉めるんですか?」
藤木は外に並べた展示車を、店の中へ運び入れている最中だった。閉店の準備だ。
「ん? おう梅本くん。ハハ、なにその恰好」
「背広着用の仕事が舞い込んでくることもあるんすよ」
「へえ……。んで、エイプを見にきたの?」
「まぁそうなんすけど。あれはもう駄目だったでしょ」
梅本も手慣れたもので、上着を脱いでバイクを運び入れる作業に手を貸した。藤木もそんなことぐらいでは何の礼もない。
「うん、まぁな。何枚か証拠写真を撮って、もうバラバラにしてある。フレームは修復限界値を超えていたからどうしようもないけど、骨組みだけ替えて、そこから組んで組めないこともないけどね。確実に新品のエイプが買えるくらい高くつくよ」
「そうっすよね……。あれだけ丸くなると、足回りをひと通り元に戻すだけでも、えらいことになりますもんね」
外のバイクを撤収し終わって、藤木が店の戸締りをしている間に、梅本は勝手に二人分のインスタントコーヒーを淹れた。
客側としては、処分を決定して次のバイクを求めればいいだけの話だ。しかし、あのエイプに関しては、なにぶん藤木の懐と時間が加わっているだけに、梅本からは言い出しにくかった。
煙草をくわえて戻ってきた藤木が、美味そうに煙を吐きながら言った。
「あのエンジンは載せ替えて遊べるから、その他にも、ちょっと惜しい感じのパーツはうちが単体で買い取るよ。梅本くん、今は歩きで大変だろ? 何かもう狙ってるバイクはあるの?」
エイプの廃車は決定事項のようだ。
「とりあえず急ぎで足が必要なんですけど、どうしたもんかって考え中で、まだぜんぜん、選ぶ前の段階ですよ」
「そう」
藤木はコーヒーをひと口すすって、ニヤリと笑う。「オススメのがあるんだわ」
藤木は煙草を揉み消すと、運び入れたバイクの間をぬって奥へ行く。大型のバイクの後ろに隠れた一台に手を添えて、梅本を手招きした。
藤木に倣ってバイクを避け、傍まで行って見ると、大型のバイクに隠れていてのは、カワサキのZ125だった。太ったカマキリのような小型バイクだ。
「どうよこれ? 競り落としてきたんだけど、まだ新しいほうだし、見た限りは転倒痕もないし上玉だよ。リヤのショックとマフラーは社外品に替わってる。うちで整備して二十八万円の値札を貼ろうと思ってんだけど、梅本くんになら、エイプの部品下取り諸々も合わせて、二十五万でいいよ。あ、保険は別ね。――さぁ買え!」
「さぁ買えって言われても……」
現在の平均月収よりも断然高い。購入するとなると当然、なけなしの預金から支出することになる。
藤木が常連客をすごく優遇することは知っている。これの中古相場がいかほどなのかは知らないが、おそらく良心的な値段を言ってきているのだろうと思う。
「こんな程度のいいのは、すぐに出ちゃうよ。さぁ買え!」
藤木の勢いに苦笑しながらも、梅本はすでにこれを気に入っていた。
梅本がフッと息をついて首を縦に振ると、藤木もうなずいて「ヨーシ! 月曜日の昼までにはナンバーを取ってくるからな」と拳を握って言った。
エンジンをかけてみるどころか、跨ることさえなしに決めた。藤木に間違いはないだろうという信頼からだった。
登録書類の作成に少し時間を要し、後は印鑑を捺すだけとなった。あいにくと印鑑は持ち合わせていなかったが、この店には、いろいろな苗字のゴム版が揃っている。
そうして八時三十分に、二人して店から出た。
ここからコンビニまでは十五分ほど歩く。向こうに着けば、ちょうど良い頃合いになるはずだ。しかし、またも藤木が、その待ち合わせ場所まで乗せてってあげるというので、梅本は甘えた。
おかげで陣内が迎えに来る九時まで、あと二十五分もある。
このコンビニでは、雑誌の立ち読みができないようになっているので、梅本は店の外に立って、スマホを弄っていた。無料のwi-fiを求めて、梅本と同じように立っている人が一人。車の中にも数人。この辺りはずいぶんと暗い。コンビニの裏手にはビニールハウスが広がっていた。
梅本は車が駐車場に入ってくるたび顔を上げた。五分前になったというのに、まだ陣内は来ない。一度店内で缶コーヒーを買う。そしてまた外に出て、立ったり座ったり……。
そこへまた一台が入ってきた。暗くて見えにくかったが、あきらかにあの車とはヘッドライトの高さが違った。ふと気になって、その車から降りてくる女性に目を向けた。女性は梅本の視線には気づかず、店内へ入っていった。
梅本のほうはポカンと口を開けたままだ。
その女性は、以前勤めていた会社で、梅本が密かに想いを寄せていた笹尾葉月だった。