番外編 第八話 書類の字が一番きれいなのは誰だ
手書きの字というのは、妙なところで人の印象を裏切る。
普段の喋り方や態度から想像した字と、実際に書く字が違うだけで、周囲は勝手に盛り上がる。真壁彰は、その手の盛り上がりがあまり好きではなかった。だが、止められないことも知っていた。
その日、庁舎で急ぎの内部申請が必要になった。
端末上の処理では間に合わず、仮の書式に手書きで名前と確認事項を入れる必要がある。
たったそれだけのことだ。だが、その場にいたのがよりによってこの三人だった。
「真壁さん、こちらサインお願いします」
若い事務職員が書類を差し出す。
「おう」
真壁は受け取り、迷いなくペンを走らせた。
その字を見て、事務職員が一瞬だけ目を見開く。
「……きれい」
「何が」
真壁が顔を上げる。
「いえ、字が」
「普通だろ」
「思ったよりずっと……」
「それ余計だぞ」
「すみません!」
少し離れた位置で見ていた二階堂が口を挟む。
「思ったより、は失礼だな」
「そうだろ」
真壁が言う。
「でも確かに、見た目のわりに整ってる」
「お前も同じこと言ってんじゃねえか」
「俺は正確に言っただけ」
「感じ悪いな」
「今さらだろ」
次に書類を受け取ったのは二階堂だった。
彼の字は予想通りきれいだった。癖がなく、線が細く、読みやすい。いかにも文書を扱う人間の字だ。
若い職員たちがまた少しざわつく。
「やっぱり二階堂さん、字もきれい……」
「分かる」
「人前に出る人の字って感じ」
「何だその評価」
二階堂が顔を上げた。
「いえ、読みやすくて」
「それは大事」
「そうですね……」
職員が妙に納得する。
最後に九条へ書類が回る。
九条は左手でペンを取った。
「左利きなんですね」
一年目らしき職員が思わず言う。
「そう」
九条は短く答える。
そのまま迷いなく書く。
真壁は昔から見慣れている。
九条の字はきれいだ。だが二階堂みたいな整い方ではない。少しだけ流れがあり、線が柔らかい。左利き独特の払いの向きが出ることもある。しかも速い。ためらいがない。
「……九条先生の字、すごくきれい」
女子職員が小さく言う。
「ほんとだ」
「なんか予想外」
真壁がすかさず言う。
「それも失礼だぞ」
「真壁さんが言います?」
「俺はいいんだよ」
「よくないだろ」
二階堂が返した。
九条は書き終わってから、紙を少し持ち上げた。
左利きだからか、手元を汚さないように書類の角度を自然にずらしていた。そういうところまで無駄がない。
「左利きなのに、全然擦れてない」
事務職員が感心する。
「慣れてるから」
九条はそれだけ言う。
「昔はよく手が汚れてた」
真壁が懐かしそうに言う。
「小学校の時な」
九条がちらりと見る。
「言わなくていい」
「何でだよ」
「別に」
「左利き用の定規とか、変なの持ってたよな」
「変じゃない」
「でも珍しかった」
「お前が勝手に面白がってただけ」
「そうだっけか」
「そうだ」
二階堂がそこで少し眉を上げた。
「小学校の時から字きれいだったのか」
「普通」
「普通じゃないだろ」
真壁が言う。
「学級新聞の字だけやたら褒められてた」
九条はわずかに嫌そうな顔をした。
「昔話いらない」
「お前、運動神経もいいし字もきれいとか、地味に腹立つな」
二階堂が言う。
「お前が言うな」
真壁が返す。
「お前もだいたい何でもできるだろ」
「字は努力だ」
「そういう言い方がまた感じ悪い」
「事実だ」
「今さらだろ」
九条が小さく言った。
その時、少し離れたところで若手職員たちがまたひそひそ話し始めた。
「誰の字が一番好き?」
「私は二階堂さん」
「分かる、読みやすい」
「私は九条先生」
「何か色気ある」
「字に色気ってある?」
「あるよ!」
「真壁さんの字もいいよ」
「分かる、見た目よりずっとちゃんとしてる」
「それ失礼」
「でも分かるじゃん」
三人とも、聞こえていないふりをした。
だがたぶん、全員聞こえている。
真壁が小さく言う。
「何で字ひとつでそんな盛り上がるんだ」
「平和だからだろ」
二階堂が言う。
「いいことだ」
「他人事だな」
「他人事じゃない。巻き込まれてる」
「お前はちょっと嬉しそうだぞ」
「気のせい」
「そうか?」
「そうだ」
九条が左手で紙コップを持ち上げた。
その仕草まで妙に自然で、真壁は少しだけ面白くなかった。
「で、結局誰が一番うまいんだ」
真壁が言う。
「二階堂」
九条が即答する。
「読みやすい」
「そうか」
二階堂は少しだけ満足そうだった。
「でも面白みはない」
九条が続ける。
「おい」
「事実」
「感じ悪いな」
「今さらだろ」
「九条は?」
二階堂が聞く。
「癖がある。でもきれい」
「褒めてるのか貶してるのか分からない」
「真壁は」
「俺?」
「勢いのわりに崩れない」
「何だその評価」
「褒めてる」
「うれしくねえな」
「じゃあ結論」
二階堂が言う。
「一番整ってるのは俺。一番印象に残るのは九条。一番意外性があるのは真壁」
「何でお前がまとめるんだ」




