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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 終章 しずく、堕ちて咲く
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幕間「真人の見た深淵」

 くらやみ。

 それが、僕の意識が最初に捉えた世界のすべてだった。ひやりとした石の感触が背中に伝わり、湿った土の匂いが肺を満たす。手足に力が入らないのは、薬のせいか、それとも絶望で麻痺しているのか、判然としなかった。


(……これで、よかったのかもしれない)


 胸に浮かんだのは、諦めにも似た奇妙な安堵だった。

 あの日、先生は僕に別れを告げた。


「普通の先生と生徒に戻ろう」と。


 彼女の瞳は潤んでいたけれど、その決意はあまりに固く、僕にはそれを受け入れることしかできなかった。

 僕がこうして姿を消せば、彼女は僕を忘れて、「普通の教師」としての日常に戻れるのかもしれない。そう思うと、胸の痛みが少しだけ和らぐ気がした。


 そのとき、牢の向こうから静かな足音が聞こえた。鉄格子のはまった簡素な牢の前に、ひとつの人影が立つ。闇に目が慣れてくると、その姿が白装束をまとった老人であることがわかった。深く刻まれた皺、どこか遠くを見ているような瞳。


 その存在感は、この地下牢の冷気そのものを支配しているようだった。


「目が覚めたかね、真人よ」


 老人の声は、乾いていたが、不思議なほどよく通った。

 僕は身じろぎもせず、ただ彼を見つめ返す。


「あなたは……誰だ。ここは、どこなんだ」

「わしは、この村で神に仕える者。そしてここは、おぬしが定めを受け入れるための場所じゃ」


 老人はゆっくりと語り始めた。その言葉の一つひとつが、まるで古い石碑に刻まれた文字のように、重く、僕の心に落ちてくる。


「この村では代々、生まれた赤子の中から、神にささげる一つの魂を選んでおる」


 老人の言葉は、まるでどこか遠い昔の物語を語るように淡々としていた。

 だが、その瞳はまっすぐに僕を捉えている。


「そして、数多の赤子の中から、おぬしこそが……神に選ばれた魂を持っておった。おぬしの両親は、その定めを知らされた上で、おぬしを育てたのじゃ」


「……冗談じゃない」


 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。


「僕の人生だ。生まれたときに何があったかなんて知らない。僕には……叶えたい夢があるんだ」


「夢、か」


 老人は、その言葉を慈しむようでもあり、同時に無価値なものとして断じるようでもあった。


「その夢も、おぬしの魂が持つ強い輝きの表れ。だからこそ、おぬしは選ばれた。そして、その魂を捧げることで、おぬしはただの夢よりもはるかに大きなものを守ることになる」


 老人は、淀みなく続ける。


「はるか昔、大陸からこの国を呑み込もうとした巨大な軍勢があった。二度にわたるその襲来を退けたのは、神風などではない。この久邑の地で行われた『儀式』によって、荒ぶる神の力が海を荒らし、国を守ったのじゃ。歴史の裏には、常に我らの祈りがあった」


「我らが神は、この世界の均衡を保つための巨大な力そのもの。しかし、その力は永遠ではない。九年に一度の『巡り年』に、おぬしのような選ばれた魂を糧として捧げることで、神は力を取り戻し、世界はまた九年の安寧を得る。それが、この村に課せられた使命であり、誇りでもある」


「捧げられた人間の記憶は、村人たちから消える。特別な液体と祝詞によって、悲しみも罪悪感も浄化され、村は平穏な日常を繰り返す。それが、この村が狂わずにいられる唯一の方法なのじゃ」


 彼の言葉が描く情景は、あまりに突飛で、信じがたいものだった。

 けれど、僕が追われていた事実、そしてこの牢の存在が、その言葉に忌まわしいほどの現実味を与えていた。


「だが」と老人は、初めてその瞳にかすかな痛みの色を浮かべた。


「その儀式が、ここ二度、失敗に終わっておる」


 息をのんだ。


「十八年前、そして九年前。二度の巡り年で、捧げられるべき人間がその運命から逃れ、儀式は不完全に終わった。結果、世界の『結界』には、修復できぬほどの亀裂が入り始めておる」


 老人は、震える手で懐から古びた巻物のようなものを取り出した。それを鉄格子の前で広げると、僕でも読める文字で、数々の災害や紛争の記録が年号と共に記されていた。それは、僕が歴史の授業で習った、現実の出来事だった。


「これを見よ。これは予言ではない。起きてしまったことの記録じゃ。儀式が滞った年を境に、世界のどこかで大きな紛争が起き、巨大な災害が人々を襲った。すべては繋がっておる。神の力が弱まれば、世界の理そのものが綻び始める。そして、今年が三度目。もし、この儀式が失敗すれば……」


 老人は言葉を切り、静かに僕を見た。


「……世界は、終わるのかもしれん。少なくとも、我々が知る人の世は、取り返しのつかぬ崩壊を迎えるじゃろう」


 全身から血の気が引いていく。アイドルになるという夢も、諦めなければならなかった先生との未来も、そのすべてが足元から崩れていくような感覚だった。


「そんな……馬鹿な……」

「馬鹿げている、か。だが、おぬし自身がその運命に引き寄せられた。それこそが証じゃ」


 老人の言葉は、淡々としていたが故に、抗いがたい真実味を帯びていた。

 僕という一人の存在が、世界の運命に直結している。

 その途方もない重圧が、思考を押しつぶしていく。


「『まこと』よ。おぬしの犠牲は、ただの死ではない。世界を、そして……おぬしが日常を過ごすはずだった者たちを守るための、もっとも気高い祈りとなる」


 老人の言葉が、絶望の淵にいる僕の心に、静かに、だが深く染み込んでいく。


(ふざけるな……)


 心の中で、かろうじて残った理性が叫んでいた。

 僕の人生は僕のものだ。アイドルになる夢があった。先生ともう一度、笑い合える未来をどこかで信じていた。

 こんな、古臭い村の言い伝えのために、僕のすべてが奪われてたまるか。


「……僕には、関係ない」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。


「僕は、僕の人生を生きる。世界の終わりなんて、僕には……」


 言葉が続かなかった。老人の静かな瞳が、僕の言い訳をすべて見透かしているようだったからだ。


 老人は、ため息とも違う、深く静かな息をひとつ吐いた。


「言葉だけでは、定めは受け入れられんか。それもまた、若さゆえか……」


 彼は鉄格子の向こうから、闇が広がる廊下の奥へ向かって声をかけた。


「いるのだろう」


 その声に応じるように、ぬるり、と闇から影がひとつ現れた。男は気だるそうに壁に寄りかかったまま、僕を値踏みするように見ている。


「この者を、御神体のもとへ連れて行け」


 老人は命じた。


「その目で、己が背負う定めを見せよ。さすれば、理解もするであろう」


 長髪の男は「はいよ」と気のない返事をすると、乱暴に牢の鍵を開けた。

 僕の腕を掴むその手は、有無を言わさぬ力強さを持っていた。


 男の掴む腕の力に、抵抗する気は起きなかった。

 牢を出て、屋敷のひやりとした石の廊下を抜ける。

 外の空気は夜の湿気を含んで重く、僕の肌にまとわりついた。


 長髪の男は何も言わず、ただ僕の半歩後ろを、獣道の草を踏みしめながら歩いている。

 その足音だけが、この世の音のすべてであるかのように、やけに大きく聞こえた。


 木々の間を進むにつれて、道沿いに苔むした石柱や、白い紙垂がいくつも現れる。

 空気が変わる。

 ここは村の、しかし村人たちが普段足を踏み入れない領域だ。


 やがて森が開け、目の前に異様な構造物が姿を現した。

 上部が円環のように歪んだ鳥居と、崩れかけた石段。


 その奥に、目的の場所はあった。


「着いたで」


 男が、初めて口を開いた。

 僕の視線の先には、拝殿とも祠ともつかない、地面に半ば沈んだような建物が静かに佇んでいた。

 石と土、そして無数の細い骨のような素材が混じり合ってできている。


 その正面には、異様なまでに幅の広い木製の扉が、分厚い木の板と何本もの縄で固く封じられていた。


 長髪の男は、慣れた手つきでその木の板を、ごとり、と音を立てて外す。

 縄が解かれると、湿った空気が扉の隙間からふっと流れ出してきた。

 生温かく、僕の知らない匂いがした。


 ギ……ギィ……


 男が重い扉を押し開ける。

 その軋む音は、耳ではなく骨に直接響くようだった。


 開かれた闇の向こうは、しかし暗闇ではなかった。

 光源がどこにあるのか分からない、ぼんやりとした光が内部から漏れている。

 その光の中心に、「それ」はあった。


「……これが……」


 僕の喉から、かすれた声が漏れた。

 言葉を失った僕の背後で、長髪の男が低く笑った。


「これが、日本を守ってきた“神”様や。そして——お前が、次に入る墓やで」


 思考が停止しかけた、そのときだった。

 脳裏に鮮明に蘇ったのは、先生の声だった。

 あの夜、電話越しに交わした約束。


『……先生、俺ほんとに、ちゃんと大人になりますから』


 あの時の僕は、何を思ってそう言ったんだろう。

 立派な人間になって、いつか彼女と同じ目線で向き合いたい。先生と生徒ではなく、一人の男として、彼女の隣に立ちたい。

 そんな、漠然として、でも確かに輝いていた願い。


「大人になる」って、なんだ?


 僕は初めてその言葉の本当の意味を考えた。

 自分の夢を追いかけることか?好きな人と一緒にいるために努力することか?


 違う。


 もし、僕がここから逃げ出して、老人の言う通り、世界が壊れてしまったら。

 先生のいるあの日常が、彼女の笑顔が、僕の知らないところで理不尽に奪われてしまったら。

 それを知りながら自分の夢を優先することが、果たして「大人」の選択と言えるのか。


「……大人って、“責任”を取ることだって……先生が、そう言ってくれたよね」


 あの夜の会話が、今になって重くのしかかる。

 責任。僕が今、果たすべき責任とはなんだろう。


 答えは、もう出ていた。


 僕一人が犠牲になることで、先生が生きる世界が守られる。僕が「柱」になることで、彼女の明日が、昨日と同じように続いていく。


 だとしたら、これこそが、僕が彼女に誓った「大人になる」ということの、たったひとつの、そして最後の答えなんじゃないか。


 ぬるいものが静かに頬を伝った。もう抵抗する力は残っていなかった。


 自分の夢のためにこの運命から逃げ出すこと。

 それは、先生のいるあの世界が壊れる可能性から目を背けることと同義だ。

 それは「子ども」のわがままだ。


 本当の「大人」になるということは、自分の願いよりも、果たすべき「責任」を選ぶことじゃないのか。


 僕一人が犠牲になることで、先生が生きる世界が守られる。僕がここに魂を捧げることが、彼女の明日を守る唯一の方法になる。


 それが、僕が彼女に誓った「大人になる」という約束の、残酷で、唯一の答えだった。


「……わかったよ」


 僕は、隣に立つ長髪の男にではなく、目の前の御神体に、そして僕の心の中にいる先生に向かって、静かに呟いた。


「連れて行って。俺は、もう逃げない」


 胸の奥で燃えていたちっぽけな夢の火が、ふっと音を立てて消えた。

 その代わりに、冷たくて静かな決意だけが、僕の魂を満たしていた。


 先生。僕は、約束を守るよ。

 あなたに誓った通り、ちゃんと「大人」になる。


 たとえそれが、あなたの知らない場所で、命を捧げることだったとしても。

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