第45話「再会」
首の後ろにかかる指は、まるで獣の顎よりも無慈悲だった。
私は、引かれるまま、歩かされた。それは引きずられるのとは違う。
私の意思が一切介在しないまま、自身の脚が自分のものではなくなっていく、そんな感覚だった。
森が開けていく。
夜気は一層冷え込み、地面の湿度が変わったのが分かった。
足元に絡みついていた雑草が減り、踏みしめる土の感触が柔らかくなる。
苔むしているのか、あるいは人の手によって丁寧に踏み固められているのか。
風が止んだ。虫の声もしなかった。
そのときだった。
木立の隙間から、複数の人影がぬっと現れた。
「おう、何しよるとや」
長髪の男の前に立ち塞がったのは、見覚えのある顔ぶれだった。
あの宴会場にいた——残りの十一人。
彼らはまるで、ここで待っていたかのように、静かに立っていた。
「連れとるやんけ」
「殺さんのか」
「無駄に遊びすぎやぞ、お前……」
小言めいた声が飛び交う。
だが、長髪の男はうるさそうに首をぽきりと鳴らし、片手で私の肩を押し返すようにして言い放った。
「ええやん。結果連れてきたんやけん。こいつ、『まこと』のこと知っとるとよ」
その瞬間、男たちの間に漂っていた空気が凍りついた。
誰もその名を口にはしなかったが、たった一つの名前が、彼らの間で確かな重みを持って揺れたのが分かった。
「……それ、ほんまか?」
低い声で問うた一人の男に、長髪の男はにやりと笑い返す。
「祭りの火が灯っとるうちに、見せたるわ。……中まで」
そこからの道のりは、再び無言になった。
私は十二人に囲まれたまま歩かされ、一歩進むごとに空気が重く沈んでいくのを感じた。
やがて、闇が割れた。
鬱蒼と茂る樹々の間から、巨大な屋敷がその姿を現した。
古びた瓦屋根。まるで蔵のように窓のない、無口な壁。だが、その佇まいは、この村のどんな建物とも異質な、圧倒的な存在感を放っていた。
こんな場所があったなんて。
村の地図にも、幼い頃からの記憶にも、この建物は存在しない。
まるで、誰にもその存在を知られないように建てられたとしか思えなかった。
門は鉄ではなかったが、それが纏う静けさは、どんな鉄の扉よりも重々しい。
きぃ、と低い音を立てて扉が開かれると、内側から冷たい空気が這うように溢れ出てきた。
「行くぞ」
背中を押され、私は一歩、屋敷の中へと足を踏み入れる。
廊下は細く、床板は少しも音を立てなかった。まるで、巨大な生き物の体内を歩いているかのような錯覚に陥る。
太い柱、白木の壁。漂う匂いは埃と、そして沈香。
だが、そのどれもが、ただ放置された場所が持つそれとは違っていた。
むしろ、定期的に人の手で整えられている、研ぎ澄まされた静けさだった。
階段があった。
下へ、下へと続く、石造りの階段。
それは、まるで地面が自ら口を開け、こちらを呑み込もうとしているかのようだった。
「下や」
その一言で、私は首を掴まれたまま、階段へと進む。
足音が石に吸い込まれていく。壁が閉じていくように、外の音が急速に遠ざかった。
呼吸が、少しずつ浅くなっていくのが分かった。
階段を降りきった先にあったのは、私が想像していたような聖域でも、物々しい祭壇でもなかった。
それは、檻だった。
石の壁に囲まれた広大な地下空間。湿った冷気が、足首にまとわりつくように漂っている。
床は土が剥き出しのままで、そこには人間一人を収めるほどの小さな区画が、まるで巨大な棚のようにいくつも並んでいた。
そして——そのうちのひとつに。
「……!」
視界の端がぐらりと揺れた。いや、脳そのものが揺さぶられたのかもしれない。
私の目の前にいたのは、間違いなく——真人だった。
白い簡素な布を身に纏い、檻の中の土の上に、膝を抱えて座っている。
頬は少しこけていたが、あの強い光を宿した瞳、忘れようもないその輪郭。
声は聞こえなくとも、そこに彼がいるのだと、全身が理解していた。
「ま、こと……」
口から漏れたのは、声というより息だった。
呼んでも届かないような距離なのに、心だけが、見えない柵を飛び越えて彼へと走っていた。
気がつけば、身体が勝手に動いていた。
「真人!!」
私は駆けていた。
檻の冷たい格子に肩がぶつかるのも構わず、私は両腕を伸ばし、その中に半身を押し込むようにして、泣きながら、叫びながら、彼を抱きしめていた。
真人は、動かなかった。
だが、その呼吸が、驚きで一瞬止まったのが分かった。
彼は目を見開いたまま、私の名を呼べずにいる。
「……先生……?」
震える声。でも、確かに——真人の声だった。
その瞬間、私の内に張り詰めていたすべての糸が、ぷつりと切れた。
言葉にならない。だが、彼の肩に置いた手の感触だけが、あまりにも確かだった。
真人の身体は少し冷えていた。
けれど、その心音が、かすかに私の胸にも伝わってくる。
生きていた。ここにいた。忘れられてなど、いなかったのだ。
「先生……なんで……来たの?……ここは、来たら、だめだ……」
その言葉に、私は顔を上げた。
彼の目が、私をまっすぐに見つめていた。
懐かしい光を湛えながらも、その奥には、どうしようもなく深い諦めの影が潜んでいた。
「……大丈夫?」
私は、真人の肩に顔を押し当てたまま、そう問いかけた。
彼の身体は少しだけ震えていた。寒さでも、恐怖でもない——それは、何かを必死にこらえている震えだった。
「なんで、ここまで……」
「後で話す。……でも、今は行こう。ここを出る」
私は、彼の手を取った。
冷たかった。でも、その指は、応えるように私の手を弱々しく握り返してきた。
行ける——。
檻の鍵は、すでに開いていた。それすら罠のような気がしたが、考えている暇はなかった。
私たちは、地下の階段を駆け上がった。私が前を走り、真人がそれに続く。
石段の感触が足裏に重く響き、空気が少しずつ乾いていく。
地上が近い。外の匂いが戻ってきた。
「……真人、もう少し!」
彼は、わずかに息を乱しながらも、頷いた。
屋敷の扉を抜け、外に出た瞬間。
空が開け、風が吹いた。
だが——そこに、彼らがいた。
十二人の男たちが、屋敷の敷地の端にずらりと立っていた。
しかし、誰ひとり動かない。仁王立ちで道を塞ぐのでもなく、声を荒げて止めるでもない。
「……何してると?」
その声は、呆れとも、皮肉ともとれた。
「逃げるんか? ほんまに?」
「ふぅん……ええよ、ええよ。見せてもろたけん。あとは好きにせぇ」
彼らの顔には、明確な嘲りが浮かんでいた。
止めない。止めないことが、何よりも不気味だった。
「走って、真人!」
私は彼の手を強く引いた。
そして、もう一度、屋敷の敷地を抜けて駆け出す。
濡れた草が足にまとわりつき、呼吸が浅くなる。
けれど。
(……あれ?)
数十メートル走ったところで、私は手に伝わる重さに違和感を覚えた。
真人の歩幅が、遅い。
私の速度についてこようとしていない。いや、違う。
ついてこようとしているように——見せているだけだ。
「……真人?」
私は振り返った。
彼の顔が、月明かりにぼんやりと浮かんでいた。息は切れていた。
でも、その目が——どこか遠くを見ていた。
(本気で、逃げようとしてない……?)
胸の奥が、急速に冷たくなっていく。
そのまま、足元が崩れるような感覚が、私を襲った。
私は、走り続けていた足をぴたりと止めた。
背後で、真人の足音も止まる。
荒い息を繰り返しながら、私はゆっくりと、繋いだままの二人の手へと視線を落とした。
手の中にあるはずの彼の手は、確かに握り返してはいた。
けれど、その指先には力がなく、まるで魂の抜け殻に触れているかのように、そこにあるべき重みが少しも感じられなかった。
全身が、抵抗こそしていない。
だが、自らの足で一歩でも前へ進もうとする意志が、そこにはなかった。
「……真人」
彼はすぐに目を逸らした。
私の瞳を、まっすぐに見ようとはしなかった。
「逃げたいなら、逃げる。……そうじゃないなら、理由を言って」
声が震えた。
怒りよりも、困惑よりも、心のどこかでとうに答えを知っていて、それを彼の口から直接聞かされることへの怖さが勝っていた。真実の刃が、喉元に突きつけられているような感覚だった。
真人は、静かに顔を上げた。
頬に月の光が輪郭を描き、その眼差しが、ようやく私と正面からぶつかった。
「……先生」
彼の声は、どこまでも落ち着いていた。
けれど、その芯は氷のように冷たかった。
「この前さ……東京で話したでしょ?この村の儀式が嵐を呼んで、元軍を止めたってやつ」
私は、ただ瞬きをした。
今では遠い昔に思える、警察署へ向かう道すがら交わした、冗談のような会話。
その記憶が、不意に鮮明に蘇る。
「……まさか」
私がそう呟く前に、彼が静かに頷いた。
「本当なんだよ、あれ」
その言葉が、夜の中にぽつりと落ちた。
風が止んだ。虫も鳴いていない。
まるで世界全体が、一瞬だけ息を飲んだように静まり返った。
「それだけじゃない。あれ以来、この村の儀式は……何度も何度も、世界の何かを食い止めてきた。言葉にできないような——でも確かに来る災いを」
私の指が、真人の手の中で微かに震え始めた。
「でも……ここ数十年、何度か儀式が滞ったことがあった。そのたびに……何かが崩れかけた。地震も、疫病も、戦争も……全部が繋がってるとは言わない。けど、あの儀式がこの土地の結界になってるって……あの人たちは、そう信じてる」
「じゃあ……今回も?」
真人は、再び頷いた。
「今回は、もう限界なんだ。だから、もし今回の儀式が行われなかったら——とんでもないことが、起こる」
その声に、私は言葉を失った。
足元の地面が、音を立てずにゆっくりと崩れていくような感覚。肺の中の空気が鉛のように重くなり、うまく息ができなかった。
信じたくない。けれど、信じてしまっていた。
真人の目が、もう私が知っている教え子の目ではなかったからだ。
それは、人智を超えた何かを見てしまった者の、深い淵を湛えた瞳だった。
——じゃあ、真人が生け贄になるの?
その問いは、まだ声にはならなかった。
けれど、唇がかすかに動いたのを、自分でも感じていた。
真人は、繋がれたままの私の手を見ていた。
握り返さず、振りほどきもせず、ただ静かに、その形を記憶するように見つめていた。
「……もう、帰れないんだよ」
その言葉は、まるで風に混じる吐息のように、軽く落とされた。
「俺は……生け贄に、選ばれたんだ」
息が止まった。
世界の音がすべて、遠く後ろへと引いていったようだった。
「あんた……何ば言いよると?」
私の声は震えていた。
明確に、怒りが込み上げていた。
「……そげんなわけなかろうもん。『選ばれた』?なんそれ、冗談っちゃろ?!」
真人は答えなかった。
ただ、目を伏せ、うっすらと眉を寄せている。
痛みとも、諦めとも言い表せない——静かな断絶が、そこにはあった。
「前に、言いよったやん……!」
言葉が胸からほとばしる。もう止められなかった。
「『アイドルになる』って、言いよったやん!!あんた本気やったやん!!動画も録って、声も練習しよったやん!!」
過去の景色が、怒りと一緒にこみ上げる。
「夢、あったやん。『誰かにとって、この人がいるから、もう少し頑張ってみようかなって、そう思ってもらえる存在になりたい』って、言いよったやん!!それば……自分から諦めて、どうするとよ!!」
真人は、何も言わなかった。
私の叫びのすべてを、その身に受け止めるように、黙って立っていた。
けれど、その目は——とっくにすべてを失ってしまった者の、空虚な目をしていた。
肩は落ち、手は力なく垂れ下がり、唇は固く結ばれて言葉を拒絶している。
でも、その瞳だけは、私の叫びを、確かに正面から見ていた。
その目に、私は息を詰まらせた。
燃えるようだった怒りが、急速に熱を失い、冷たさに変わる。
胃の奥に氷が落ちていくような感覚。肩が、指先が、冷えていく。
(うち、ここまで……)
村のしきたりを壊すために。
記憶を奪う儀式を止めるために。
真人を、救い出すために。
その真人自身が、自ら檻の中に残ろうとしていたなんて。
私の全身から、力が抜けた。
足元の地面が、少し揺れた気がした。
視界の端で、十二人の男たちがまだそこに立っていた。
嘲笑いもしなければ、声も出さない。
ただ——この結末を、待っていた。
私の希望は、その本人によって打ち砕かれた。
その絶望は、どんな外敵よりも残酷だった。




