第44話「追跡」
村の夜は、まるで嘘のように静まり返っていた。
あれほど響き渡っていた夕刻の喧騒が、すべて作り物だったかのように、光も音も急速にその色彩を失っていく。
人の声はとうに途絶え、虫の鳴き声すら止み、ただ湿り気を帯びた空気だけが肌にまとわりついていた。
私は、闇の中にいた。
木々の葉が幾重にも重なり、月明かりすら遮るその場所で、ひたすらに呼吸を整える。
浅く、ゆっくりと。吸って、数え、そして吐く。
その単調な繰り返しが、高鳴る心臓をどうにか制御していた。
喉の奥は乾ききっているのに、口の中には錆びついた鉄のような味が広がっている。
十二人の男たちが動き出したのは、ちょうど日付が変わる寸前のことだった。
祭りの提灯がすべて落とされ、家々の明かりが闇に溶けていった、その直後。
公民館の裏手、木々に身を隠しながら、私はじっと彼らの姿を目で追っていた。
男たちは列を組むことなく、ばらばらに動き出した。
それでいて、全員が寸分の狂いもなく同じ方角——村の北西に位置する、山へと続く林道を目指している。
来た。
心臓が一度、大きく跳ねた。
けれど、身体そのものは不思議なほどに冷え、落ち着いている。
感情の熱は胸の内に押し込め、皮膚と筋肉だけを、まるで精巧な機械のように動かした。
彼らが一歩踏み出す。
私もまた、一拍遅れて闇へと踏み出す。
草を踏む音を殺すため、足を持ち上げず、地面を滑るように。 靴裏で土の感触をなぞりながら、背を低く、膝を柔らかく使って重心を常に動かし続ける。
男たちは、誰一人として言葉を発しなかった。
だが、それはただの無言とは質が違う。
彼らはまるで、この世のあらゆる音から意図的に切り離されているかのようだった。衣服が擦れる音も、落ち葉を踏む音も聞こえない。
風すら彼らを避けていくように、その周囲だけが不自然な静寂を保っていた。
闇に溶けては浮かび上がる十二の背中が、私の目に焼き付いて離れない。
列の前方を往く数人は、肩に袋のようなものを担いでいた。重そうな様子はないが、その中身までは窺い知れなかった。
私の呼吸が、わずかに速まる。
額に汗が滲むのを感じたが、拭うことはできない。
視線を逸らさず、まばたきすら最小限に留めた。
不意に、列の中の一人が立ち止まった。
私は咄嗟に木の幹へと身を寄せる。
男が首を傾ける角度、靴のつま先が向かう方角、微かな手の動き。そのすべてが、何かを探っているように見えた。
探られているのかもしれない。
そう思った瞬間、指先の血の気が引いた。
しかし、男たちは何も言わず、再びゆっくりと歩き始める。
道は次第に細くなり、下草が腰の高さまで伸びてきた。
その先に、この村の答えがある。
この十二人が歩むその先に、この村の秘密のすべてが凝縮されているのだ。
真人のことも。
チカが流した涙の理由も。
そして、私のこの燃えるような怒りも。
ぴたりと、風が止んだ。
世界の音が、またひとつ消えた。
その瞬間、列の最後尾にいた男が、ゆっくりと振り返った。
闇の中で、その輪郭だけがやけにはっきりと浮かび上がる。
肩には何も担いでいない。
ただ、その顔立ちだけが妙に整っているのが見て取れた。
男の視線が、私がいる方角を正確に射抜いた。
心臓の鼓動が、耳の内側から激しく打ち鳴らされる。
見られている。いや、まだ確信はない。
息を止めた。肺に溜まった空気が内側から身体を圧迫する。
男の顎が、わずかに動いた。
手元にあった何かを隣の者に渡すと、一歩、こちらへ向けて——踏み出した。
身体が反射的に動いていた。
地を蹴る音は殺したつもりだったが、足元の草が擦れる音が、闇の中で異様なほど大きく響き渡る。
——駄目だ。気づかれた。
「誰かいたぞッ!!」
怒声が、背中に鋭く突き刺さった。
複数の男たちが、こちらへ向けて動き出す気配がする。
その足音は想像を遥かに超えて速く、重く、訓練された猟犬のように一切の無駄なく距離を詰めてこようとしていた。
「手ぇ出すな」
他の男たちが動き出す、ほんの一瞬前、その声は響いた。
——あの、長髪の男の声だった。
ぴたり、と数人の足音が止まる。
「……あいつは、俺がやるけん」
低く、地を這うような声音。
私は振り返らなかった。
だが、あの声だけで、背筋が氷で締め上げられるような感覚に襲われた。
「追われるの、慣れとるとねぇ?姉ちゃん」
遠くで聞こえたその声に、私はただ、全身の筋肉を総動員して闇の中を走り出した。
草が足にまとわりつき、ぬかるんだ土が靴を重くし、伸びた枝が容赦なく頬をかすめていく。
足元を照らす光はない。
それでも、私の目は暗闇の些細な濃淡を捉えようと、極限まで研ぎ澄まされていた。
絶対に、捕まるわけにはいかない。
風が音を削ぎ落としていく中で、私の後ろから、ただ一人分の足音だけが執拗についてきていた。
他の誰よりも深く、しつこく、そして静かに。
長髪の男は、言葉通り、私を「狩る」つもりなのだ。
それは遊びでも見せしめでもない。個人的な執着と娯楽が入り混じった、狩猟者の足音だった。
山に入れば逃げ場を失う。かといって道を引き返せば囲まれる。
息が切れそうになるたび、私は自分の胸を拳で叩くようにして叱咤した。
ここで逃げ切れなければ、真人に、そしてチカに合わせる顔がない。
夜は冷たいはずなのに、背中だけが汗と緊張で焼けるように熱かった。
「おーい、姉ちゃあん、足速かねぇ」
ねっとりと濁った声が、風よりも重く、粘着質に耳にまとわりつく。
「そげん逃げてどうする……捕まえたら、犯したる」
背中に冷たい氷を押し付けられたかのように、首筋が強張った。
振り返らない。振り返れば、終わる。本能がそう告げていた。
だが、分かる。
距離が、確実に詰まってきている。
乾いた枝を踏む音、湿った土を蹴る音。
そのひとつひとつが、すぐ背後まで迫っていた。
冷静になれ。
頭の中で、もう一人の自分が囁いた。
前を見ろ。道を選べ。木々の密度、傾斜の角度を読め。
走りながら視界の端で風の流れを捉え、わずかに月が差す方角へと身体を向けた。
「お、やるねぇ。ほんとに逃げ切るつもりか?」
男は、心の底からこの状況を楽しんでいる声だった。
喉が焼けつき、肺が求める空気が思うように入ってこない。
脚が鉛のように重くなっていく。
それでも、まだ逃げられるはずだった。
だが、その時だった。
道が、終わっていた。
低い断崖。 飛び降りられなくはないが、一度体勢を崩せば、もう二度と立てないだろう。
背後で、足音が止まった。
私もまた、足を止めるしかなかった。
木々の間を、一度だけ風が強く吹き抜ける。
揺れる枝の隙間から差し込んだ月光が、男の輪郭を白く縁取っていた。
五メートルもない距離。 彼は、息ひとつ乱していなかった。
「やっと止まったな。……いいね、そうやってちょっと震えた感じ」
私の両肩がわずかに上下したのは、呼吸の乱れからではなかった。
闘争か逃走か、そのどちらもが不可能になった瞬間の、動物的な硬直だった。
「いいよ。……ここからは、俺とあんたの時間やけん」
男の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
私は拳を握りしめる。視線をわずかに下げると、地面に転がっていた細い枝が足先に触れた。
音を立てぬよう、慎重にそれを掴み取る。
私があとずさると、男は一瞬でその距離を詰めた。
枝を振り上げた私の腕は、いとも簡単に手首ごと掴まれてしまう。
「——やっぱ、手ぇ出すつもりやったね。かわいくないねぇ」
次の瞬間、私の身体は地面に叩きつけられていた。
音が、胸の内で二度鳴る。一つは背中が地面に打ち付けられた音。
もう一つは、肺からすべての空気が強制的に吐き出された音だった。
手から離れた枝が、月明かりの下を虚しく転がっていく。
男の腕が私の両手首を押さえつけ、背中の下にある石が肋骨に食い込んで軋んだ。
重い。 全身が、力では絶対に勝てないと告げていた。
「やっぱ、姉ちゃん、いい顔しとる」
顔を覗き込まれ、私は視線を逸らさなかった。
目を逸らせば、ここで心が折れる。
男の体重が完全に前方へかかったその一瞬を突き、私は両膝を跳ね上げた。
「ぐっ……!」という短い呻き声が聞こえる。
体がのけぞり、膝の力が緩んだ隙に、私は力の限り手首を引き抜いた。
「ッたれが!!」
背後で怒声が響く。枝を拾う暇もなく、私は再び走り出した。
心臓の音が、今度はこちらの味方をしてくれる。
脳に、全身に、酸素が巡っていく。
まだ、逃げられる——。
だが、音は風より速く届いた。
次の瞬間、背中に爆ぜるような衝撃が走り、私の身体は為す術もなく前方へ吹き飛ばされた。
地面に突っ伏し、口の中に乾いた土の味が広がる。
背後から、靴音がゆっくりと近づいてきた。
その音には、もう遊びの気配は微塵もなかった。
二度目の馬乗り。 今度は背中の真ん中に膝を乗せられ、体重をかけて地面に押し潰される。
「……もう、逃がさんよ」
「手加減も、やめたけん」
息が詰まる。
それでも顔を上げようとする私を、背中の膝が深く圧迫し、呼吸の自由すら奪い去った。
「なあ……」
男の声が、すぐ耳元に落ちてきた。
「なんで戻ってきたと?なぁ?」
「……神原んとこの娘やったんやな、あんた。ほんとはずっと、外で暮らしとるはずやった」
その問いは、ただの好奇心ではない。
何かを確信した上での、最後の確認だった。
「……なにがお前を、そこまで必死にさせるんや?」
額から汗が伝い落ちる。
息が苦しい。 それでも、言わなければならなかった。
この村に、この名を突きつけるために、私は戻ってきたのだから。
「……真人、よ」
その名を吐き出した瞬間、私の中で何かが音を立てて割れた。
空気が一段、低く沈んだように感じられた。
「ああ?」
だが、男は、あまりに自然な仕草で首をかしげた。
「……まこと?知らんね。そげん名前のやつ、この村におったかいな?」
その平坦な声音と表情。それが逆に、彼の動揺を物語っていた。
私ははっとした。
この男は、知らないのではない。「知らないことにしている」のだ。
焦りは見せない。
だが、その視線は、私の次の言葉を待っている。
私は痛む体に鞭打ち、これまで見てきたもの、聞いてきたことの断片を、頭の中で必死につなぎ合わせていた。
そして、地面に突っ伏したまま顔を上げ、虚勢を張った。
「ねえ。あんたたち、何を祀ってるの?」
男のまばたきが、一瞬だけ遅れた。
私は続けた。確信はない。
けれど、今は言い切る強さが必要だった。
「この村では、定期的に儀式をしてる。何年かに一度の祭りの年に、誰かが消える。それが、この村のしきたりなんでしょう?」
男は笑わなかった。 無反応。それが、何より雄弁な肯定に思えた。
「でも、消えたんじゃない。あんたたちが、消したんだ。だって、そうでなければ説明がつかないから」
「だから——あの液体。宴で配っていたあれは、記憶を濁らせるためのもの。短冊に書かれた名前と祝詞で、記憶そのものをすり替える。そうして生け贄が『いなかったこと』になり、村に災いが来ない代わりに、人々の記憶が削られていく」
しん、と世界が静まり返った。
私の声だけが、重く地面に落ちていく。
男は私を見下ろしたまま動かなかったが、その目の奥だけが、確かに揺れていた。
私は、もう一度唇を開いた。
「私は、戻ってきた。 全部を壊して、真人を、取り返すために」
彼の瞳孔が、わずかに絞られた。
言葉ではない、次なる行動だけが、じわりと闇の中に広がっていた。
その殺気にも似た気配の源は、間違いなく目の前の男だった。
だが、その引き金を引いたのは——私だ。
地面に落ちた私の告発は、音を立てることもなく、ただそこにあった。
私の言葉は、重い沈黙と共に夜の闇へと吸い込まれていった。
音は消え、ただ言葉だけが持つ質量が、その場にずしりと残されている。
長髪の男は、数秒、何も言わなかった。
地面に押さえつけられた私の視界の中で、彼の輪郭がぼやけたまま、まるで石のように固まっている。
やがて。
「……ははっ」
乾いた笑いが、男の喉の奥から静かにこぼれた。
「なんや、お前……」
言葉と同時に、彼の口元がゆるりと歪む。
だが、その表情に浮かんでいたのは、単なる嘲りだけではなかった。
声には驚きが、瞳には純粋な関心と、わずかな愉悦の色が滲んでいる。
そして、そのすべてを覆い隠すように、目の前の獲物がどれほどの価値を持つものか、冷徹に品定めするような光があった。
「おもろい女やなぁ……ほんま」
彼は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
私との距離を詰めながら、目を細めてその奥からじっと見下ろしてくる。
「そのへんの、名前も知らんような種袋どもとは違うわ」
喉の奥が、ぞっとするような感覚に凍りついた。
その言葉が何を意味するのか。意味を問うまでもなく、命をただの道具としてしか見ない者の、冷え切った侮蔑が言葉の隅々にまで染み付いていた。
「気に入ったわ」
そう呟いた、直後だった。
首の後ろに、抗いがたいほどの強い力がかかった。
「——っ!」
髪を掴まれ、私の身体が前のめりに強く引かれる。
背中にのしかかるような掌の重さ。指の一本一本が、首筋に走る神経を正確に捉え、逃げ場のない痛みを与えていた。
「そんなに見たいなら……見せたる」
その声は、もうふざけてはいなかった。
男の瞳は、お前が自ら望んだ深淵をその目に焼き付けてやろうと、静かに、だが絶対的な意志をもって告げていた。
月明かりに照らされたその顔に、先程までの愉悦の色は欠片も残っていない。
私の足が、抵抗も虚しく地面を引きずられていく。
腕を動かそうにも、背後からかかる力に逆らえない。
体を捻って振りほどこうとするが、指が首筋の筋肉に深く食い込み、息が詰まって視界が霞んだ。
「やめろッ……!」
声は出た。
けれど、それはひどくかすれていた。呼吸が喉をうまく通らず、言葉の形を作りきれない。
草の中を無理やり引きずられていく、生々しい音だけが夜の静寂に広がっていく。
両手を虚しくばたつかせても、足は地面に届かなかった。
「どこに連れて……っ!」
「ええけん、黙っとけや。今さらもう、引き返せんとやろ?」
そう言った男の声は、妙に澄み切っていた。
もはや遊びではない。
これは、この先に進む者とそうでない者とを分ける、冷酷な選別なのだ。
首の後ろに、焼けるような痛みが広がっていく。
だが、それ以上に、私の内側でじわじわと熱を帯びてきたのは——もはや恐怖ではなかった。
燃えるような、怒りだった。
(あんたなんかに……真人は絶対に渡さない)




