20 共鳴する心 2
屋敷に響き渡る轟音と、視界を奪う魔力の奔流。
屋敷の中にいたヴィオレッタは、その異様な気配に全身を硬直させた。
まるで、前世のあの忌まわしい記憶が現実になって押し寄せたかのようだった。
血の匂いと瓦礫の幻影が脳裏をかすめる。
「何……? この、膨大な魔力……」
肌を粟立たせるほどの、重く、悲痛な魔力。
それは、書庫で感じた「お兄様の奥底」にあったもの。
あの時感じた冷たい風とは比べ物にならない、もっと巨大で、制御不能な「何か」。
心が軋むような音が、胸の奥で響いた。
内側から何かが強く叫んでいる。
全身の毛穴が開き、体の奥底から震えが込み上げてくる。
まるで、無数の針が刺さるようだ。
(お兄様……まさか、あなたも……?)
恐怖が、その場に縫い付けようとする。
前世で味わった死の感覚が、足の裏から這い上がってくるかのようだ。
けれど脳裏に浮かんだのは、孤独に膝をつくお兄様の姿。
虚ろな瞳で音程のずれたオルゴールを回し続けていた夜。
助けを呼ぶ声の出し方さえ忘れてしまったかのような、その小さな背中。
それを見た時、私と同じだと思った。
誰かに抱きしめてほしいと、ただ心の底から願い続けた、あの日の自分を、お兄様に重ねた。
(今は、私が手を伸ばさなきゃ…!)
誰にも気づいてもらえなかったあの日の私の代わりに。
気がつけば、足は勝手に動いていた。
再び廊下を走る。
普段は歩くことすら優雅に、と躾けられた長い廊下を、ヒールの音を気にも留めず、ただまっすぐに。
まるで何かに引き寄せられるように、迷うことなく。
曲がり角を過ぎた先、侍女や庭師たちが青ざめた顔で庭園の方を見つめていた。
どうやらお兄様は庭園へ向かったようだ。
彼らの視線の先からは、灰色の光が渦を巻いて立ち上っている。
目を見開いた彼らが、私を見て慌てて口を開く。
「お嬢様っ! お止まりくださいっ!」
「危険です! お戻りください!」
「近づいてはなりません、お嬢様……ッ!」
制止の声が、悲鳴混じりに背後から次々に飛ぶ。
しかし、私は振り返りもせず、走り続ける。
彼らの表情に浮かぶ恐怖が、彼らがどれほどこの事態を恐れているかを物語っていた。
(……わかってる。危険だってことくらい。でも……)
あの時、誰も救ってくれなかった私が、
今度は“救う”側になりたい。
冷たい汗が背中を伝う。
肺が張り裂けそうなほど息が苦しい。
けれど、止まれなかった。
止まることなど、できなかった。
庭園に近づくにつれ、空気は一層重く、肌を切り裂くような冷気を帯びていく。
肌の表面が粟立ち、体の芯まで凍えるような感覚。
肌を刺すような魔力の衝撃波が、身体を揺さぶる。
まるで、見えない拳で殴られているかのようだ。
周囲の植物は悲鳴を上げるようにしおれ、花びらが崩れ落ち、地面はひび割れていた。
その荒廃した光景は、彼女の前世で見た、血と瓦礫に沈んだ宮殿にそっくりだった。
あの憎悪に満ちた死の記憶が、再び全身を支配しようとする。
あの時、私を断罪した憎悪の眼差しが、一瞬、リアム兄様の瞳と重なった気がした。
だが、それはすぐに消え失せる。
目の前に広がる、深い灰色の光の渦。
その中心に、膝をつき、苦しそうに頭を抱えるリアム兄様がいた。
歪んだ顔。
噛みしめられた歯。
荒い呼吸。
お兄様の体から止めどなく放出される魔力は、感情の奔流そのものかのようだった。
「お兄様っ……!」
精一杯の声で叫ぶ。
しかし、その声は魔力の渦にかき消され届かない。
ヴィオレッタは一歩、また一歩と、その中心へと踏み込んでいく。
嵐の中へ身を投じるように。
(お兄様……あなたの苦しみが、痛いほどわかるの)
恐怖。絶望。喪失。
お兄様から放たれる感情のような魔力はあまりにも強く、私の心に容赦なく押し寄せる。
お兄様の感情が、私の胸の中で暴れ狂っているかのようだ。
ここから見えるお兄様の涙は、かつて私が流した涙に似ていた。
あの時の、誰にも届かなかった悲しみ。
自分自身を責め、何も残せなかった無力感。
それらすべてが、彼の魔力に溶けていた。
(お願い……この手で、あなたを───)
私は恐怖を抑え込んで魔力の渦の中へと飛び込んだ。
瞬間、鋭い痛みが全身を駆け抜ける。
骨の髄まで凍てつくような冷たさが襲いかかる。
それでも、必死に手を伸ばした。
そして、震えるお兄様の体を、力いっぱい抱きしめる。
「大丈夫……大丈夫よ、お兄様……っ!」
必死にお兄様を呼ぶ。
私の体温が、お兄様の冷え切った体に伝わっていく。
お兄様の魔力に抗うように、強く抱きしめ続けた。
「私がそばに居るから……!」
ヴィオレッタの声が、渦の中で微かに届いたその瞬間───
リアムの震えが止まった。
彼の顔が、苦悶から解放され、安堵と困惑が入り混じった表情に変わるのがわかる。
彼の灰色の瞳が、ヴィオレッタを真っ直ぐに見つめるえいた。
「ヴィオレッタ……?」
掠れた、幼い声。
僅かに震えていた。
あの完璧な微笑みも、空虚な瞳も、そこにはなかった。
そこには、剥き出しの感情を抱えたままのお兄様がいた。
それは、初めて見せる本当のお兄様の姿だった。
私は、吸い寄せられるようにお兄様の頬にそっと手を添える。
指先から移る熱。
それが、お兄様がたしかにそこにいる証だった。
「お兄様……大丈夫?」
その言葉に、お兄様の瞳から、大粒の雫がこぼれ落ちた。
悲しみでも、絶望でもない。
長い間凍り付いていた感情が、ようやく溶け出したかのような、温かい涙だった。
お兄様は、私の手を強く握りしめる。
「ごめん……ごめんなさい……っ」
堰を切ったように溢れ出した、謝罪の言葉。
それは、目の前の私にではなく、もっとずっと遠い、決して取り返せない過去へと向けられた悲痛な叫びのように感じた。
「僕が……僕のせいで……ごめんなさい……!」
その心からの叫びを聴いた瞬間、私はお兄様が抱えていた途方もない孤独と罪悪感を初めて理解した。
私は言葉を返す代わりに、お兄様の壊れそうな体をもっと強く抱きしめた。
あなたはひとりじゃない。
その痛みも、後悔も、私も一緒に抱えるから。
言葉にならない想いを全て込めて、ただただお兄様を抱きしめる。
お兄様につられるように私の目からも涙があふれてきた。
お兄様の痛みが、自分のことのように心を締め付けたからか。
それとも、体に走る痛みが、まだ私を震わせていたからか。
この瞬間、私たちの間に言葉など必要なかった。
肌で感じた温もり。
震える手。
お互いの瞳に映る、ありのままの姿。
それだけで、互いの気持ちが伝わるような感覚がした。
魔力の奔流は嘘のように収まり、風が静まり、空気が穏やかに満ちていく。
しおれていた植物も、かすかに生気を取り戻し始めた。
遠くから、庭師や侍女たちの息を呑む気配を感じる。
彼らは信じられないものを見るように、立ちすくんでいた。
そんな彼らを気にすることもなく、私はお兄様に抱き着いたまま泣いていた。
心の奥底にずっとあった叫びが、ようやく誰かに届いた気がした。
血の繋がりではない、“絆”が、たしかに生まれていたのだった。




