【A-7】
【A-7】
「本当、何だかすいません……」
幾つものネオンライトが視界の端に映っては、過ぎ去っていく。
国道を走るは小型のバンだった。識那は車に詳しくはないが、テレビのCMで見たことはある。
運転のしやすさとか、そういうのを謳い文句にしてたような。ハンドルが握りやすいらしい。
もっとも、そのハンドルを握る彼女はかぶりつくように体を前へ倒し、鬼のような形相で前方の車両を睨んでいた。
前方で何か事故でもあったのか、対向車線はすいすいと車が過ぎ去っていくのに、こちらは一向に進まない。
数センチ隙間が開けば進まないと後ろからクラクションが飛んでくる。それぐらいの渋滞だった。
「い、いいのよ識那君。……何か逆に遅くなっちゃったわね」
「あ、い、いえいえ! ここに来るまでで充分に余裕ができましたし……。先生の御陰ですよ」
「照れるわ……。あ、進んだ」
かくん。助手席のシートベルトに締め付けられた識那の体が僅かに動く。
まるで針穴に糸を通すような作業だ。そこまで間を詰めなくても、と思うけれど。
いやしかし、運転とはこういう物なのだろうか。自分も受験が終わったら免許を取らないといけない身。ちょっと、冗談ではなく自動車教習に行くのが怖くなってきた。
「…………煙草、吸われるんですね」
「え? うん」
それは識那なりに、少し気を紛らわせようと出した話題だった。
先程まで彼女が纏っていた湯上がりの良い香りは車内に充満する煙草の臭いで塗り潰されていて。
灰皿からも吸い殻がちょこんと覗いている。吸い口、というのだろうか。そこが青色なのが少し気に掛かるけれど。
「大丈夫よー、御弦木君の前じゃ吸わないから。お酒も飲まない」
「お、お酒は飲酒運転じゃ……」
「冗談よ冗談。私も車傷つけたくないしね」
とん、とん、とん。三拍子。
彼女は凹凸の目立つハンドルを、指先で叩く。
手袋をしているというのに、それは随分と重々しい音に聞こえた。
「御弦木君は、緋日ちゃんのこと好きなの?」
ばぶっ。
「はぎっ、の、ぅっ、ごふっ、あげぇぶっちゃ、ら!?」
「落ち着いて。悪かったから。悪かったから落ち着いて」
危うくそのまま扉を開け放って歩道の街路樹へダイブしかねない識那を制して。
まるで生娘のように、彼はぐっと体を縮込める。顔色は見るまでもなく、耳色は真っ赤だった。
何と解りやすいことか。少女漫画の方がまだ引っ張るというのに。バラとかばーんするのに。
と言うか乙女かこの子は。乙女。乙女? 乙女ーーー……。
「…………死にたい」
「ど、どうしたんですか先生!?」
「現役男子高校生に女子力で負けたわ。死にたい」
「そ、そんなコトないですよ! 先生は女性らしいです!!」
「どこが?」
「…………ははっ」
凄まじい勢いでハンドルが切られ、そのままアクセル全開にされかけて数秒。
識那が咄嗟にアクセルペダルの底へ足を挟んでなければ大事故だっただろう。
危うく、女子力に殺されるところだった。
「ど、どうしてそんな話を?」
と、割とヤバい眼になっている女医の気分を変えるためにも問い掛ける。
女医は大きく息を吐いてごつん、と。ハンドルへおでこを押しつけた。
「いやね。私ってこんな職業だから、学生時代はそりゃ勉強勉強の毎日でさ。恋愛話なんて全然なくてねー。彼氏と言えばボールペン。彼氏と言えばテスト用紙。彼氏と言えば参考資料。今の彼氏はお仕事で……。あれ? 私ってばモテモテ?」
「こ、定年退職できるといいですね……」
「あっはっはっは!」
水面下で行われる激しい脚撃バトル。
バトル漫画顔負けな命がけの闘争がそこにはあった。
「……ま、でもね」
女医は足を止め、おでこを引き摺ってハンドルに顎を乗せた。
ぐでんとした風な様子がまたおっさん臭く見えるが、それを言うとバルトが再開しそうなので識那はぐっと堪える。
ぶふぃ~と息を零した様子には、流石に目を逸らさざるを得なかったけれど。
「お見舞いとか看病って、ホント大変なことなのよ。今もそう。御弦木君、自分の時間とかないでしょ? 学校もあるだろうし……、塾だって行けてないじゃない?」
「あ……、やっぱり聞こえてましたか。昨日のは」
「ん、だからこうして乗せてるわけなのだヨー。……君の気持ちは解らないでもないからさ。でも仲直りしたいっていうのは関心だぞ少年よ」
「いえ……、ありがとうございます。でも僕だって、そんなに立派なものじゃない。緋日が病気で倒れてから、塾だって行かなくなって。受験前だから本当はいかなきゃいけないんだろうけど……、でも今の方がずっと、昔より忠実してる気がするんです」
「昔よりっていうのは?」
「……緋日が」
かくん。
少しだけ、車が前に進む。
「……ぁ、いえ。忘れてください」
「あいあいさー……、ってね。でもま、解らないでもないよ。介護とか看病ってね、やっぱり大変だけど……。でもだからこそ接する時間が増えるっていう人は多いの。疎遠になってた親御さんとかさ」
女医は少しだけ悲しそうに、けれど嬉しそうに。
彼女も病院で様々な患者を診てきた身だ。きっと、多くの間柄を見てきたのだろう。
良いものばかりでも、ないはずだ。だけれど悪いものばかりでもないのも、また、確かなことで。
「だから、御弦木君。今を大切にしてあげてね。不幸は目の前にあるものだけど、幸せはいつでも隣にあるのだから」
彼女は大きく体を反らすと、そのままハンドルを握り直す。
そのまま横側にある入り組んだ、大型車では通れないような小路地へと突っ込んだ。
停止から急発進して急カーブ。シートベルトで締められているとは言え識那の体は信じられないぐらい大きく傾いた。
女医もまた、がくんッと弾けるように顔を揺らす。
「じゃ、やっぱり早く行かないとねー! 事故ったらごめん!!」
「こ、これ大丈夫ですか速度とか、一方通行とか!!」
「……事故ったらごめん!!」
「先生? 先生!?」
ほんの数センチとない隙間を縫うように小型のバンが爆走する。
自転車でも押して歩かなければならないような小路地だ。スピードを落とさず爆走するそれの、何と激しいことか。
識那はがくんがくん揺れる車体に思わず意識を朦朧とさせ、吐き気さえ憶えたが、ふと見てしまった。
何処の暴走屋かモヒカンかと思えるほどヒャッハーしてる女医の、顔。髪に隠れ丸眼鏡で抑え付けられた右目のーーー……、眼帯。
明らかに普通ではない、色と、模様の。
「…………先生?」
「んぁん!? どうした少年!! 口開けてると舌噛むぜぃっ!! ヒャッハァどけどけ帝王のお通りだぁッ!!」
「せ、先生……」
若干顔を引き攣らせた青年とテンションハイな女医を乗せた小型バンは路地に残光の尾を引きながら路地を走り抜けていく。
暗闇を縫うかのように、激しく燃え盛る火炎に背を向けるかのように。
はぐれた群生の果てに爆炎と異貌が拡がり蠢く様など、彼等が知る由はないのだろう。
否だ。町中に降り注ぐ視線の豪雨を、掻毟の暗雲を。彼等は知るはずも、識るはずさえもない。
その瞳に映るのはいつもの町だ。何も変わらない町の姿だ。
道端に転がる屍も、瓦礫に埋まる家々も、業火猛る山路も、彼等の瞳には映らない。瞼の裏にさえ、残滓を魅せることさえーーー……、なく。
「早く緋日ちゃんのトコ行かないとね!」
「……えぇ」
日常は未だ、夜闇に嘘を隠し抜く。




