【B-7】
【B-7】
「…………」
筧の一差しと中指が空中で円を描き、直線に打ち払われた。
それを合図にバシャバシャと音を立てながら、彼等は進行していく。
そこは水垢やカビがこびり付いた壁面に覆われる、下水道だった。廃病院を出発してから既に数時間が経過しており、外はもうそろそろ日が沈み始めている頃だろう。
下水道というこのルート。廃病院から目的地の大学病院まで、地上ルートを通る倍は掛かるであろうルートだ。いや、交通機関も考慮すればさらに。
だが、筧はこのルートを選んだ。上空の霊体達に姿を見られることを忌避するということもあったが、何より彼の経験から来る意味合いが強かった。
「……敵影、なし。読みが当たりましたね。筧さん」
「えぇ、どうにか。相手が摂理の破壊者ならこっちは異貌の記録者ですからね。裏を掻かせて貰うだけです」
まず、病院までの道程を行く中で筧が真っ先に想起したのは7.22事件。病原菌テロが怒ったセントラルシティのーーー……、とある異界の事件だ。
その事件の原因となった病原菌は生きている人間を改造し、無意識下の記憶を統合。媒体である原初発病者に収束させながら感染者を増やしていくという特質を持っていた。
記憶と言っても、視認した事実や接触した物体の情報ばかりでなく特定の衝撃や毒素なども含まれる。
つまり感染者の一人に見られれば全ての感染者へ位置情報が伝わり、特定の解除方法を行わなければ開かない扉は開けっ放しに等しく、銃を放てばそれを無効化する硬度に変質され、特効薬を与えれば適応し無効化されるという始末であった。
だが、この事件は既に解決済みであり、その方法というのは至極単純だった。
原初発病者を抹殺することで感染者達の記憶リンクを切断、適応力がなくなった時点で治療薬を散布する、というものだ。
「要するに人目にさえつかなければ良かった。当時は有意志情報体を雇ったりと大変でしたが、今回は下水道を通るだけで充分なようです」
「よく憶えていましたね。あの事件は確か、随分と前の極地的なものだったのに。私だって説明されてどうにか思い出せたぐらいです」
「何せ、上からの嫌がらせで資料整理だのを強いられたこともありますのでね。……若い奴が気に入られないのは何処でも同じですが、いびり(・・・)も役に立つことがある」
「……笑って良いものかどうか」
「どうぞ笑ってやってください。こうして役に立ったのだから。……それより上空の霊体と創造級の関係性は不明ですが、やはりこのルートで進んで正解でした。認識さえされなければ創造級も我々を攻撃はできないはずですから」
「上で先行したチームを囮に使うようで気が引けますけれど……。紫紋もあの霊体達にやられたんでしょうか」
「えぇ、それもあるでしょう。しかし彼等が私の思いつくことをやらないとは思えない。恐らく……」
そう言いかけたとき、下水に埋もれる爪先へ何かが当たった。
筧は無言でそれを拾い上げ、表面に付着した泥や落ち葉を払い除ける。
現れたのは見覚えのあるエンブレムーーー……、紫紋のものだった。
「地上だけではない、ここにも何かあるということだと思います」
彼の言葉を遮るように、クロミーが甲高い悲鳴を上げる。
筧と能城は咄嗟に反応して銃を構えたが、当の彼女は尻餅して腕をブンブンと振っているだけだった。
どうやら、何かに驚いて転んでしまったらしい。飄々とした性格だし妙に気丈だから忘れていたが、彼女も女性ということだろう。
もっとも、その際にワースを吹っ飛ばして壁に打ち付けてしまったのはどうかと思うが。
「……大丈夫かね、ワース」
「機能損傷はありませんが外部壁に傷がつきました。ウィズ。……お肌が荒れましたね」
「あぁ、それ一応お肌なんだ……」
「まずこっちを心配してほしいヨーーーーッ!!」
仕方なく筧と能城で彼女の両脇を抱え上げて、やっと一息。
するとクロミーの足下からぱたぱたっと一匹の鼠が這い出し、下水道の奥へ逃げて行く。
どうやら彼女はその鼠に驚いたらしい。確かに見ない人間からすれば緊張感の中であんな生物がいたら驚くのも解る。
解る、が。一番驚いたのは突然押し潰された鼠の方ではなかろうか。
「……鼠、か」
「この世界にもいるんですね。やはり我々の世界に酷似してますよ」
「不衛生なところを好むのも一緒のようですね。……しかし、クロミー。こんなのに驚いてどうする。情けない」
「だってだっテ、私の世界にはこんな大きなのいないのサ! 指先ぐらいの可愛くて小さいのならいるけドー!!」
筧達は泣きじゃくるように喚く彼女に大きなため息を零す。
けれどこの緊迫し、精神的にも安心できない現状。鼠の乱入で少しは落ち着けたところはある。普段は毛嫌いする動物だが、今だけは少し可愛らしく見えた。
「さて……、それよりここからどうするかだ。ワース、進路はどうなっている?」
「ウィズ。ここから目的地の下水道は一度地上に出なければ入れません。目的地周辺は地下を円形状にぐるりと覆い囲むような形になっています。このまま進めば遠回りして駅に出ることになるかと。ウィズ。目的地距離的にはそちらの方が近いですが、総合的な時間からすれば大幅なロスです」
「……私は構造建築学には疎いんだが、そんな構造とやらは有り得るのか?」
「余程の手抜き工事か偏執設計者でなければ有り得ません。周辺設備でさえ、通れる場所は全て病院から隔離されている形になります。ウィズ。そもそも設備機能が働くはずもない……。間違いなく意図的に作られたか、造り替えられたかです。ウィズ」
「後者、だな。地下からの侵入ならば或いはと思ったが、どうやら対策済みらしい。……むしろここまで侵入できたのが僥倖か」
目的地、大学病院までは残り数キロメートル。
最短ルートは商店通りを通って直線。妨害なく行ければそう時間は掛からないだろう。
だが気掛かりはあの上空の霊体達だ。こうして地下通路を進行しているから未だ被害はないが、地上に出てあの数に襲撃されれば一溜まりもない。
だが、ここから先は地上を行かねば到達できないのも事実ーーー……。
「……危険を承知で進行するしかないな。一気に駆け抜けるか、最悪交通機関をジャックする」
「後始末が大変そうですね。ウィズ」
「それは我が組織の仕事だ。……無論、死体処理もな」
笑えないジョークです、とワースは軽く上下して見せる。
ふよふよと浮かぶ彼の反応が未だよく解らないが、それを追求する暇はない。
計画開始から既に相応の時間が経過している。他部隊は無事を願いたいが、望みは薄いだろう。幾つかの部隊の中には超重機ーーー……、簡素に言ってしまえばロボットを所持している部隊もあったはずだ。
だが、その重音も聞こえない。恐らくロボットを召集する前に創造級に妨害されたか、エネルギー問題から使用できなかったか。
いや、呼び出し戦えていたとしてもーーー……、超重機程度でどうにかなるはずもない。
文字通り、彼等は捨て石となった。いや、他の部隊も、チームも、そうだ。
数少ない可能性を侮り、有り得ないと断定し。迂闊に編成を構築させたーーー……、間抜けな上層部の犠牲という捨て石に。
そして、それを事前に察知して予測できなかった指揮官である、無能な自分の損失という捨て石に、なった。
「……後始末は、今考えるべきことではないか」
さて、問題はここからどうするかだ。
地上を行くか、それとも地下を掘り進むか。
ワースが健在ならそれも可能だっただろうが、いやそれこそ轟音をーーー……。
「クロミーさん?」
異変にまず気付いたのは、能城だった。
クロミーが銃を構えている。表情は切迫し三歩と半分、後ろへゆっくり後退った。その様は鼠に怯えていた彼女のそれではない。
その行動は皆に波紋し、誰も彼もが言葉なく武器を構えていく。
下水道の奥。鼠が消えていったその先から伝わる、ざぶり、ざぶり、という音へ。
「…………」
能城は生唾を飲み込み、今一度、姿も見えない何かに銃の照準を定めた。
数秒。その何かが暗闇から姿を現すまで、数秒だ。
だがーーー……、遠い。心臓の鼓動は確かに脈打ち、聞こえているのに、遠く、永久い。
能城だけではない。クロミーは呼吸を乱し、筧も額に粒汗を浮かべている。変わらないのは機械であるワースだけだ。
皆、感じているのだろう。暗闇の底から浮き出る何かが、異様な存在であることを。
「……撃」
て、の一言が出ない。
筧の指先から黒の塊が零れた。ばしゃんっ、と。高電磁圧縮銃が一際大きな音を立てて下水に飲み込まれていく。
ざぶん。今一度その音と共に、華奢な足が暗闇から覗き出る。紅葉色の髪と、漆黒の眼帯も、共に。
影墜ちるその姿は世辞にも綺麗だとは言えなかった。四肢の端々に見える血痕や、足下にへばり付いたへどろ。髪先には、何かの肉片のようなものさえ付着している。
然れど、それは間違いなく人間だった。人間で、この世界の存在ではなかった。
指先まできっちりと覆った手袋やくすんだ茶色のコートの風貌故に、ではない。その者が纏う、異様なものが何よりの証拠となった。
対峙しているだけで足が竦む。顔立ちを見るに女性であろうが、女性らしからぬ眼隈の走った鋭い隻眼の光は明らかに堅気のそれではない。
異貌狩りの、筧達と同じく異界の人間だった。
「……ワース。彼女は部隊の人間カ?」
「照合中です。ウィズ」
一秒。
ざぶん。
「……止まってください。警告ですよ。貴方の潔白の証明の為でもあります。止まってください」
二秒。
ざぶんざぶん。
「……結果」
三秒。
ざぶざぶざぶざぶざぶざぶざぶざぶざぶざぶッ。
「無し。敵です。ウィズ」
四秒。ざンッ。
下水が跳ね、彼女の姿は消え失せた。
違う。跳躍している。天井近くの壁面へ、跳躍している。
双腕には銃。小型ではあるがマスケット銃と称される一撃高火力の銃器。
照準は、既に定められていた。
「筧さんッ!!」
能城の絶叫と共に筧が慟哭する。
撃つなーーー……、と。這い出るように、彼等の前へ。
皆が一瞬、その命令に怯んだ。刹那の隙を作ってしまった。一瞬、銃のトリガーから指先を離してしまった。
その隙を、縫う。弾丸は能城の頬を擦り、空へ浮遊するワースの液晶へと、直撃、させない。
筧がワースを殴り飛ばすようにして庇ったのだ。弾丸は彼の肩先を貫通し下水へ烈撃を刻み込む。凄まじい水飛沫と衝撃が下水道の壁を斬り結んだ。
遅れて全ての音が空間に反響する。それは爆薬に等しく皆の脳味噌を掻き回し、吐き気さえ催させた。
だが、その衝撃は逆に一瞬の隙間を埋める。能城とクロミーは雷撃に貫かれるが如く腕を跳ね上げ、発砲したのだ。
通路を斬り裂く反響に、激突。金属を打ち付けたような鋭尖が耳渦から全ての音を奪い去る。
静寂は、停止へと。一瞬にして全ての場面がリセットされた。
壁へ激突し、沈み逝く筧。彼に庇われ胸元に覆われるワース。
着地に跳ね上がる飛沫を打ち払い、双腕を交差させて震動を殺す女。
トリガーを引き絞り即座に二発目の発砲態勢に入った能城とクロミー。
「……がッ」
僅かな、苦悶。
筧の零したそれは刹那にも満たない静寂を再び動かした。
まず最初に動いたのは能城とクロミー。彼等は問答無用で女に向かって発砲した、が。
照準を定めていた眼は己自身が見ているものを猜疑する。瞼を開ききり、息を止めさせる。
「……馬鹿な」
猜疑は、止まない。
未だ脳髄が、理性がその事実を否定する中、能城とクロミーの腕は跳ね上がっていた。
遙か後方で、ばしゃんと音が聞こえる。弾かれた銃が下水に沈む音が。
それでもなお肉体は動かない。雷撃は刹那にして枯れてしまった。
今あるのは、重圧な岩石。己の四肢全てに石を縛り付けられたように、動かない。
「こんナ……」
女が行ったことは至極単純だった。
発砲と反射の両立。クロスさせた腕を開く瞬間に発砲し、その動作で双腕の銃底を使って銃弾の軌道をズラしたのである。高速の物体に僅かな力と衝撃を与えて、ズラしたのである。
ただ、絶句するより他なかった。異貌の力が使えないはずのこの空間で、彼女は純粋な技術力のみで、傷一つなく彼等を無力化して見せたのだ。
圧倒的な、それは最早、言葉さえ必要ないほど圧倒的な顕示だった。眼前で平然と装填行為を行う女を止めることさえできない。
このまま彼女が照準を定め、物言わず発砲すればそれだけで誰かが死ぬ。
不治の病のように、恐怖に溺れたまま緩やかに死に行くのだ。己の現状を否定し続けて。
「……それだけは」
能城はクロミーの、いや、腕で彼女を押しのけつつ、自分の背に皆を隠した。怯え、動けなかったことの恐怖を誰よりも知っている彼だからこそ、動くことができた。―――……いや、怯え動けず、喪うことの恐怖を知っているからだからこそ、と述べるべきかも知れない。
「させない」
丁度、縦列になる位置合いだ。彼の太ましい体型だからこそ、その背に皆を隠せた。
巨大な、ワース・セブンスリーの機体から拝借したガトリングガンを負う背中に。
「私が引き付けます。この直線上の通路だ。避けられはしないでしょう」
「……私は反対ネ。あんな化け物、真正面から渡り合う、絶対だめヨ」
「だから、引き付けるんですよ。五分……、とは言えませんが三分は引き付けられます。あ、もしかしたら一分かも」
「ハッキリしないネ!? どうするのサ!!」
「……私を囮にしてください、ということですよ。要するにね」
気丈に笑っているが、彼の指は酷く震えていた。
クロミーがそれに気付くなり、彼は隠すように背中のガトリングガンを持ち出して大きく構え込む。
背負って移動できたのは彼の重量故だろうが、流石に構えての移動は難しいだろう。いや、元々彼に移動するつもりなどないのだろうけれど。
「どうです、カッコイイでしょう。やっぱり男の子に産まれたなら一度は言ってみたい台詞だ。ヒーローみたいで……」
「……何カ、言い残すことハ?」
議論の意味がないことを、クロミーは知っている。
あの女がいつ発砲してもおかしくないことも。
「中村屋のクリーム饅頭が食べたかったですね」
「墓前に供えるヨ」
「はは、有り難い」
一息、吸って。
「――――走ってッッ!!」
叫んだ、瞬間だった。
能城の背後から銃声が鳴り響く。同時に能城の足下で水滴が散滅する。
撃ったのは他でもない、筧だった。彼は撃たれた右肩からだらんと腕を垂らしながらも、慣れない左腕で乱暴に、かつ使い慣れてもいないワースの武器で射撃したのである。
場合によっては能城の足か、クロミーの背中に直撃していたかも知れない。だがそれでも彼は二人を静止する為に撃ち放ったのだ。
「やめろ……」
苦痛に、声がくぐもっている。
押せば倒れてしまいそうな、吹けば崩れてしまいそうな、揺らせば溶けてしまいそうな。
それほど、脆い声だった。小さく、淡い声だった。下水の音にさえ掻き消されてしまいそうな、声。
だと言うのに彼の眼光は何よりも強く唸っていた。この暗闇さえ斬り裂かんばかりに、唸りを上げている。
痛み故に、ではない。純粋に、強い意志を示すが故に。
「やめるんだ……!」
ずるり、と。下水道の壁に背を這わす。
その言葉が向けられるのは能城か、クロミーか。いや、どちらでもない。
ただ双腕に銃を構え、冷徹に隻眼を開く一人の女へと。
「極月ッ……!!」
極月暮刃。
その名は、銃弾よりも呆気なく、能城とクロミーを静止させた。
第一部隊である紫紋と共にこの世界へ訪れ、そして通信を途絶させた異貌狩り。
有名な、禁書書庫の管理を任されるフリーの異貌狩りだ。能城やクロミーと同じ、いやそれ以上に格上の人物。
そして、筧と同期で、幾度も共に任務をこなしてきた存在でもある。
「…………筧」
重々しく、彼女は唇を開く。言葉さえも重圧な鋼鉄に等しい。
故に、のし掛かる。一言一句が重力となって加算されていくようだ。
ただ名前を呼んだだけだと言うのに、余りに鋭く重い声に、能城とクロミーは再び指先を強張らせた。
「生き残りたいなら、もう何もしないことよ。この世界はルールさえ破らなければ平常な世界なんだもの」
「……そういう訳にはいかない。お前も知っているだろう。創造級は危険だ」
「えぇ、知っているわ。だから(・・・)よ」
小型マスケット銃の銃口が、こつこつと眼帯を叩く。
その動作は何よりも明確な答えだった。だからこそ、筧は己の口端を縛る。
「夢は、覚めるぞ」
「……覚めるから、人は夢を夢と呼ぶのよ」
けれど、と。
「覚めない夢があるのなら、それは何と呼ばれるのでしょうね」
返答は、ない。筧はただ鋭い眼光で答えるばかりだった。
喉を潰したわけではない。彼は沈黙を答えとしたのだ。
答えと、しなければならなかった。極月の望みを知ってしまったからこそ、その単純さと、悲壮さ故に。
――――否定することはできずとも、否定しなければならないが故に。
「……夢を壊すのなら、そうすれば良い。貴方達に強制する権利は私には無いもの」
「敵対する……、ということですか」
「さぁ? 別に貴方達を死なせるつもりはないし」
能城の質問に対する答えは能城とクロミーを呆然とさせる。
先程までの攻防を行っておきながら、よく言えたものだ。
あと一歩で筧もワースも、或いは能城も死ぬかも知れなかったのに。
「冗談じゃないネ……。何が目的か知らないけれド、世界が崩壊しても良いって言うノ!?」
「世界一つくれてやりなさい。願いはそれより尊いもの。有象無象が芥を吼えるな」
斬り裂くような殺気に押され、クロミーは短い悲鳴を上げながら能城の背後へ飛び込んだ。
隠れ蓑にされた能城自身も、流石にこれ以上の追及を行おうとは思えない。
ただ睨み付けるという行為が、どうしてこうも恐怖させるのか。奥歯を噛み締めてなければ今すぐにでも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「……ならば、極月。お前はどうする。その願い(・・)とやらを、貫くのか」
「それを決めるのは私ではないわ。貴方でも、彼等でも……。私達はそれを赦す側よ。私は彼等を護りもしないし、壊しもしない。流れに身を任せるだけ」
「笑わせるな。貴様が、そんな自主性のない女か」
「自分でどうにかできたら、夢ではないでしょう」
ふつ、と波紋が彼等の足先へ伝う。
能城とクロミーは急くように構え直したが、戦闘の意志はない。
意味なき敗北と死が約束された戦いを望むはずもない、という事だろう。
いや、意味なきという点では、彼女も等しく。
「……筧。もし貴方が夢を覚ますと言うのなら、それか、夢見る者を護るというのなら、一つだけ教えましょう」
緩やかに、闇へ呑まれ。
「『ハーメルンの笛吹き』は孤独なのよ」
その一言を残し、水面に波紋を立たせることなく極月は消え失せた。
現れた時よりも静かに、否、音さえない。全てが夢幻だったのかと疑うほど、沈黙して。
文字通り、彼女は闇へと沈んだのだ。
「…………」
皆が、唇を開けずにいる。何と述べるべきか、解らない。
極月という存在も、今の攻防も。何もかもが不明瞭だ。
ただ一つ確かなのは、この異世界に極月暮刃という異貌狩りが存在するだけ。
ジョーカーカードのように役割を眩ませる、異貌狩りが。
「……そろそろ宜しいでしょうか? ウィズ」
と、靄霧に覆われた静寂が支配されていた場に、ワースの音声が割り込んだ。
どうやら彼は筧の庇いで胸元へ抱えられてから、ずっとそこで待機していたらしい。
真っ先に狙われた上に戦闘能力も極小の、暴徒鎮圧しかできないような電磁針ぐらいだから無理もないが、何とも強かというか即断的というか。
「まず筧様の傷を手当てしましょう。ここは非常に不潔です。ウィズ。このままでは破傷風になってしまう」
毎度のようにプロペラで浮遊してワースは能城の衣服へと着地した。
そこからアームで首元を細かく弄り、再び筧の傷口へと着地。
いったい何をされたのかと能城は首元を弄りながらクロミーに視線を合わせるが、互いに首を捻るばかりだった。
「少し痛みます。ウィズ」
ぷちぷち、と。
「ぁ、ぐッ……!」
「我慢してくださイ。ただいま、能城様の衣服から拝借した糸屑で傷口を縫合しております。ウィズ。止血程度しかできませんが、貫通していたのが幸いでしたね。もし弾が残っていたらショックで気絶していたかも知れません。ウィズ」
「マ、麻酔なシ!? ひィ!!」
「と言うか私の衣服使ってるんですか!? これ一張羅だから三日前から洗ってませんよ!」
「……下水よりは綺麗でしょう。たぶん。ウィズ」
「知らぬが仏というコトワザもあってだぁがががががが!?」
ちなみに私は医療初心者です。書物データはありますが、と。
知りたくなかった事実に片腕を諦めつつ、筧は下水に萎びた頭髪を掻き上げるように眉間を押し上げた。
「……大丈夫ですか?」
「痛み以外は、な……! 続けてくれ……っ」
「ウィズ」
額を強く圧迫し、視線を落とす。傷の痛みよりも苦しいものが筧の心で渦巻いていた。
最悪の形で的中してしまったのだ。極月が死んだなどという事実を飲み込んでいたわけではないが、それでもこんな形では否定されて欲しくなかった。
彼女に夢という言葉を使ったけれど。夢を見ていると言っていたけれど。
夢であって欲しいと願っているのは、誰よりも自分だと言うのに。ーーー……極月という女性が敵に回ったという事実を、幻だと願いたいのは。
「……極月暮刃という女性について、名前を聞いたことはありました」
ワースやクロミーよりも先に、能城が切り出した。
名前以上に、先の一連の戦いで嫌と言うほど実感させられた。彼女の技術、戦力、冷徹さ。
その全てが極月という女を示し、刻み込む。彼等の脳裏に恐怖として。
「『魔眼』の保持者ということ、禁書書庫の管理者であるということ。フリーの異貌狩りで様々な事件に関与する、異貌狩り組織としても重宝されている人物」
それが界隈一般の彼女に対する認識だ。多くの者が彼女を知っている。だからこそ、彼女を知らない。
有り触れた代名詞は恐怖という事実によって上書きされ、その名こそが偽りだったのだと知らしめる。
そして訪れるのは謎だ。失われた代名詞の変わりを求め足掻く手は何も掴めない。それがまた、恐怖となる。
「我々は彼女を何も知らない」
それを知るのは、筧だけだ。
彼女と同期であり、連なる代名詞ではなく、塗り潰された恐怖ではなく。
極月暮刃という個人を知る、唯一の人物。
「説明していただけますね?」
「……あぁ、無論だ」
ぷちん。ワースの縫合と共に余分な糸が切り取られた。
僅かに苦痛が揺らぎ、眼端が絞られる。不衛生や異臭などは歓迎できたものではないが、薄暗い下水道であったことは幸運だったかも知れない。
こんな表情、指揮官が見せるものではないから。何と情けない顔か。
「諸君は『万神なる者』を識っているか」
筧が問うた、通称。それは災禍だ。創造級という災害でなく、個人でありながら絶対的な存在故に災禍として認識される存在だ。
同列なる存在である『七大罪』達や『十三の王』達のように世界を滅ぼす力も次元を操る力も超越に到る力もなく。その者はただ何の力も持たない個人であるにも関わらず。
意識的な概念の摂理を理解する(・・・・・・・・・・・・・・)ことにより、異界共通概念である『神』から拒絶され、破壊された者。
「……神を喰った者」
だがその者は神を喰った。破壊され、破壊した。
それは何故か。どうして何の力も持たなかったはずのその男が、噛みを破壊し得たのか。喰らい得たのか。
当然、理由がある。余りに逸脱した、それこそ理不尽で不条理な理由が。
そもそも、神とは信仰や禁秘、即ち様々な生物の想像によって創り出されるものだ。
生命や遺伝子といった生物を構成するもの。異界で言えば純魂や六次元回路よりもさらに一線を引く存在こそがそれである。
想像と創造はイコールで直結しない。想像は魂でしかなく、創造となるには身体がないから。
その身体となるのが行動や現実という誓約に架された様々な事象であるが、神は違う。
想像と創造をイコールで直結させ、さらにその先まで行く存在である。
「そうだ。奴は神を喰った。幾人もの神を、喰った」
その者は神に拒絶され、破壊され。然れど神を喰って生き延びた。
自身の思想による概念の理解により、幾万幾億という、いや無限である異界や異次元に存在する生命の、また幾倍もある思想を。
たった一人で、超えたのだ。
「謂わば究極の哲学者。思想し、思案し、思念し、求めるべき神に拒絶され、破壊され、然れど神を喰らうことにより生き延び、神になった男」
その者が幾人の神を喰ったかは定かではない。
幾つもの概念や幾つもの生命や、そういったものを喰らったのかもまた、定かではない。
だが奴は超えられない壁を越えてしまった。創造者として想像してはいけない次元を、想像者として創造してはいけない次元を、超えてしまった。
「し、しかし彼……、或いは彼女はもう何十年も前から話を聞きません。余りに突拍子もない話だから、御伽噺とまで言うものもいる。この世には侵してはならない領域が二つある。生死と、神です」
「そんな風に言われてる領域だからそこを目指す者も後を絶たないし自らの身を滅ぼす者も後を絶たなイ。……なのニ、その一つを犯したどころか、食べちゃった奴はそりゃ御伽噺って言われるネ」
「しかし問題はその『万神なる者』が極月暮刃という人物にどう関わるかではありませんか? ウィズ。実在の証明はともかく」
額押し上げる腕を、下水に落とし。
忌々しく、悲嘆に、筧は己が口端を噛み締める。
「組織が一度だけ、奴を補足したことがあったんだ」
その情報に、名のある異貌狩りや組織歩兵、傭兵部隊など。それだけで七つは世界線を滅ぼせるだけの戦力が集結した。
だけではない。下位異界の現神人が七体、上位異界の神より直接下された断片神が三体。これだけで第一戦線の戦力を遙かに超えている戦力だ。
極めつけは神そのものが本体で一体。降臨や憑依を通さない、また断片隔離による分身造形でもなく、真に神なる者が現界したのである。
「そこに極月も参戦していた」
異貌狩りとして、訓練学校に出てから数ヶ月。
異例の記録を叩き出していたが故に、また自身の要望もあって特例として認められたからこそ参戦できたのだ。捕縛を副次目的とし、抹殺を絶対条件とした作戦に。
だが、その結果はーーー……。
「全滅、ですカ」
「……いや、死者は一人も出なかった」
然れど、と。
「極月を覗く全ての者が、今も組織研究施設の中で純黒状の金属として生きている」
ふつ、と。彼は唇を噛み締めた。
鮮血の味が歯牙を伝い、唾液と混じり、喉へ流れていく。
「……金属として、え? 金属、ですよね?」
「そうです。金属として、です。意思疎通も可能だし、飲食も、限られたものですが行える。臓腑の躍動が観測できるし、ごく一部の末端なら動かすこともできる。全員が意識ある身ですよ。……接触は禁じられていますが」
「で、では彼等は当時のことを何と?」
「……何も。意思疎通は可能ですが、まともではないんです」
言葉を掛ければ、幾億もの言葉が返ってくる。金属に変換させられた変貌させられたかは定かではないが、その被害者たち全てが応答しているのだろう。
故にそれの解読は困難を極めた。数年単位で、優秀な科学者達を動員して一つでも『万神なる者』の情報を引き出そうとして、そして。
科学者達は首を横に振ったのだ。解読できなかったからではない。解読結果の公表を拒むために、振ったのだ。
「多くの言葉や感情あれど、結局、観測できた反応は二つだけ。『殺して』と『助けて』だけです」
純粋で、単純な。諦望し絶望した者のみが吐く言葉。吐くことが赦された言葉。
然れど彼等にはそれさえ赦されない。吐くことさえ、ただ零すことしか赦されない。
開け放たれた蛇口などではなく、断絶し曲壊した水道管のように。純粋な水を泥水に替えて流し続けることしか、できないのだ。
「金属の解析は不可能でした。如何なる異界の、如何なるデータにも該当するものはない。骨肉にさえ、適合しなかった。流石に神は不可能でしたが」
「そノ、断片神は何ト? 神の欠片なら本体である神にもその時の記憶はあるはずジャ?」
「全員消滅が確認されたよ。現界時間の三日以内にな」
筧は未だワースによる治療中にも関わらず、懐から煙草を取り出した。
だがこの下水道での戦闘後。異臭や汚れ、湿気などで当然ながらもう吸えたものではない。
彼は八つ当たりのようにその箱を暗闇へと投げ捨てる。音さえなく、それは泥靄の中へ消えていった。
こんな話などーーー……、吸わなければやっていられないのだろう。特にここから述べなければいけない、彼女のことについては。
「だが、彼女は生き残った。神さえも抗拒できなかった存在に、叛してみせた。……あの片目と引き替えにな」
「眼帯で覆われていた片目ですね。……彼女は、その時のことを何と?」
「何も。組織でも個人でも一番付き合いが長いと自負しているが、あの時のことだけは話さない」
聞こうともしていないが、と。
彼はその言葉を、頬先から伝う嫌な汗と共に飲み込んだ。
「本題だが……、彼女の眼、『魔眼』と称されるそれは我々組織でも解析はできていない。ただその金属に近い……、物質、かは解らないが、存在であるのは間違いないだろう」
「一般的に魔眼の特徴は不可視を視ること(・・・・・・・・)ですが、彼女のそれも?」
「いや、彼女の眼は特殊でな。彼女のは召喚か降臨でもない、何かを飼っているんだ」
「何カ……?」
「敢えて異貌と呼ばないのは、組織でさえ、それを異貌と称して良いか判別できてない為でな。彼女の眼にいるそれ(・・)は彼女の身体能力や精神感知を高めるし、治癒能力も比較的に向上させる」
「宿主と共存関係にある、寄生虫のような?」
「……寄生虫などと、カワイイものではありませんよ。身体能力にせよ精神感知にせよ、治癒能力も向上するのはあくまで人間の領域でだ。異界の者達に比べれば……、クロミー、君の治癒能力にさも格段に劣る」
「向上するんだったら良いじゃなイ……、なんてモノじゃないよネ?」
「当然だ。それは、特性か習性かは解らないが異貌を引き寄せる。そして、喰うんだ。『万神なる者』がそうであったように、奴もまた異貌を喰らう。喰らって、宿主である極月の体を浸蝕していく」
「浸蝕……、というのは存在の変質カ?」
「解らない。彼女が果てに異貌になってしまうのか、それともその何かと同じ存在になってしまうのか……。本人さえも知る由は無いだろう。知るのはあの忌々しい異端者だけだ」
「ですが、奇妙な話ではないですか。異貌を引き寄せるなら摘出……、できるような物ではありませんよね。しかしそうでなくとも、異貌を引き付けない異界や結界はある。私も一時は結界術を囓っていたから解りますが、凶悪な異貌でも超えられない結界はある」
「それは私も提案しました。高額ではあるがその結界がある高級地に居を構えてはどうか、と。金がないなら同僚のよしみで貸すことも厭わない、と。……しかし彼女は拒絶した。それどころか、つい数日前までそうであったように異貌を狩り続けている」
「ド、どうしテ?」
「聞こえるんだそうだ。聲が」
聲について、彼女は多くを語らない。
だがその眼とあの金属が繋がっていることだけは、容易に想像できた。
科学者達が公表することを拒否した、あの怨嗟の金属に。だとすれば彼女の脳裏にはずっとその聲が鳴り響いているのだろう。
食事の時も入浴の時も戦闘の時も睡眠の時も、いつも。安息などなく、延々に。
「……彼女はその眼を埋め込まれてから延々と戦い続けた。血戦によって怨嗟の声を散らす為ではない。その眼を抉る異貌を見つけるために、だ。右腕を失っても両脚を失っても。それ等を義手義足にした後も、ずっと」
「あ、あれで義手義足ですか……!?」
「本気ではなかったんですよ、彼女も。基本的な武装一つでしか掛かってこなかった。それにこの世界の法則で言えば魔眼の効果も……。意外と殺す気はなかったという言葉も冗談ではないのかも知れませんね」
能城は最早、目眩すら憶える。
自分が犠牲になってようやく逃がせると思っていたのに、何と滑稽なことか。
彼女からすれば数匹の蟻の内、一匹が牙を剥いたに過ぎなかったのだろう。
「……ですが、能城さん。先程はありがとうございました」
苦悶の汗を流しながらも、彼は微笑みを浮かべる。
その言葉は指揮官として、正しい言葉だ。意味さえも何ら間違ってはいない。
庇ったことに対する礼ではないのだろう。適切な(・・・)判断を下した事に対する、礼だ。
「……いえ、皆が生きていて良かった」
思案する。能城はぎしりと軋む膝を押さえながら、独白する。
彼は若い。自分の半分ほども生きていないほどに、若々しい。
だと言うのに自分より立場は上で、超えてきた修羅場も数倍の差はあるだろう。
先の言葉とその笑みが何よりの証拠となる。割り切るということは、自分でさえ未だ苦しいことだ。
何とーーー……、強い人物なのだろう。負傷や疲労ではなく今、誰よりも苦しいのは他ならぬ彼だろうに。
「兎角、私が話せる極月に関しての情報は以上だ。彼女の戦力や装備は任務ごとに大幅に変わるので、下手に予測を述べて先入観を持たせたくはない。強いて言うなら、義手や義足には仕込みが可能ということぐらいか」
「あれ以上の武装なんて勘弁やだやだネ。……にしてモ、それもあるけド、気になるのはあの言葉ネ。はーめるんのふえふきっテ。誰のこト?」
「ハーメルンの笛吹きは孤独、でしたね。あの状況で意味もない言葉を残すとは思えない。何かの意味があるんでしょう。筧さん、何かご存じで? 私もハーメルンの笛吹きというのは、よく……」
「ハーメルンの笛吹きとはこちらの世界にある、御伽噺の一種です。もっとも『万神なる者』のようにあやふやではありませんがね」
とある村があった。その村は鼠の被害に悩まされていた。
そこに不思議な音色を奏でる笛吹き男が現れた。大人達は彼に鼠を追い払って欲しいと頼み、男はそれを了承した。
彼は笛を吹いて鼠を河へ誘い、溺れ死にさせた。こうして村は救われたのだ。
しかし大人達は彼に報酬を与えることを拒んだ。これに男は激怒し、今度は笛の音で村の子供達を連れ去ってしまった。
男と子供達は村の遠くにある洞窟に隠れて入り口を岩で塞ぎ、そこから出て来ることはなかったという。
「……なるほど。何らかの逸話や神話、御伽噺に乗せて術式を構築するのはよくある話です。それだけで神秘性が上乗せされるから、強力にもなる。神秘を取り込むことは人々の信仰や思想を取り込むということだからね。対象のイメージも追加されると言ってもいい」
「って事ハ……? もしかしてこの世界の法則がはーめるんのふえふきってことじゃないノ!?」
大ヒントどころか大正解じゃないカ、とはしゃぎ回るクロミー。
その際にへどろ水が飛沫となって飛散するものだから、手術の邪魔だとワースに怒られた。
流石に大人しくなった彼女だが、未だうきうき気分は抜けないようで。
「やったやっタ! 解明すれば脱出できるネ!! これでこのムチャクチャ世界ともおさらばヨー!!」
「……あの、クロミー君? 任務のこと忘れてない?」
「ア」
「あのね、君……。気持ちは解らないでもないけど」
ぷちんっ、と。
丁度、ぎゃあぎゃあと喚くクロミーと能城の喧騒止まぬ中、ワースによる応急手術も完了したようだ。
傷口は痛々しくて見れたものではないし痛みも無くなったわけではないが、これで破傷風になる確立はぐっと減っただろう。
もっとも所詮は応急処置。この世界から出たら消毒などの、きちんとした処方を受けなければならない。
「ありがとう、ワース。御陰で楽になった」
「いえ……。それより筧様、少しよろしいですか? お伺いしたいことがあります。ウィズ」
「何だ?」
ワースは未だ騒ぎ続ける二人を一瞥すると、ふよふよと筧の耳元へ浮上し、肩先へ着地した。
プロペラも停止させたところを見るに、内密な話なのだろう。いや、或いは聞かれたくないか、聞かせるべきではないか。
それはーーー……、後者であった。
「先程のお話ですが、極月暮刃は夢を見ていると言いました。それはつまり、彼女にとってこの世界が安眠できる世界ということではないのですか?」
例えそれが悪夢であったとしても、夢とは眠る時に見るものだ。
筧の言う通りならば、彼女がまともに眠れているとは思えない。いや、安息さえ存在しない彼女に眠りはないのだろう。
「つまり、それは……。ウィズ」
この世界で、彼等を真っ先に抑え付けた法則。
異貌の力が使えないというーーー……、法則。
「この世界こそが、彼女の追い求めた安息の地なのでは?」
能城も、クロミーも、彼女の魔眼が発動しているかどうか解らないと耳にした時点で薄々感付いてはいるのだろう。
異貌の力が封じられ、創造級の常識に縛り付けられるこの世界では、彼女の存在もまた非常識であるはずだ。
どうして彼女が生き残っているのかは解らない。けれど、どうして彼女がその対象に味方しているのかは解る。
彼女は、安眠しているのだ。夢を見ているのだ。怨嗟の聲なく眠る日々を、ただただ求めた
であろう日々を、この世界で。
「私は個人であるとは言え、機械だ。貴方達より感情は乏しいでしょう。先の能城様の行動だって、どうしてあそこまで即決できたのか解らない。……ヒーローだから、なんて理由でないことも解っています。しかし、だからこそ、この事も解らない。あの方がそれを選んだのなら、筧様。貴方も彼女の安息を願うものではないのですか?」
「……君の言う通りだろうな、ワース・セブンスリー。能城さんのように誰かを思い、それを成すのならそうすべきだ。……だが、だ」
彼女が、追い求め続けた安息がここにあるのだとしても。
彼女が、願い続けた夢がここにあるのだとしても。
無償の倖せを与える老父のように、それを叶えてやることは、できない。
「我々には我々の任務がある。倒れていった仲間達の意志を継ぐ義務がある。異界の平穏を護る理由がある。……彼女の為に、それらを犠牲にすることはできない」
例え、それが如何なる相手であろうと。親しき者であろうと、近しき者であろうと。
組織に入った時から、上を目指すと決めた時から、反り返った岩山に手を掛けたときから、決めている。
何人をも斬り捨てるのだ、と。そして何人をも救うのだ、と。ーーー……小を捨て大を得る罪人に、小にせせら笑われ大に地獄から後ろ首を捻られようとも。平穏なる世で断頭台に上るべき者になるのだと決めている。
「……であれば、これ以上は言いません。貴方の覚悟に敬意を表します。ウィズ」
「すまないな、ワース」
「いえ、謝らないでください。お詫びなど貴方と極月暮刃の恋愛談のみで結構です」
「そう……、いや待て何と言った今」
「長年同期で彼女のことを案じ、土地代を肩代わりしようとするぐらいなのですからそれぐらいの感情はあるでしょう。ウィズ。見た感じかなりの美人だったようですが。義手義足と聞いてポイントアップです。あと顔がボルト式ならファンになってました。ウィズ」
「割と俗物的だな貴様……! 何が感情は乏しいだ!?」
「楽したいので機械ですから。ウィズ」
「だから……と…………」
気付けば瞳輝かせるクロミーと、止めるスタンスこそ見せているが一切止める気のない能城の顔がそこにはあった。
暫しの沈黙。急かすように頷くクロミー。段々と顔から表情が消えていく筧。
次の瞬間、治療されたばかりの右肩から延びる腕がクロミーの頬を、ワースという名の球体を掌握した。いや、掌握というかアイアンクローだった。
筧の腕が二本だったので何事もなかった能城はススッと顔を引く。と言うか逃げる。
「むぐグーーー!」
「筧様、前が見えません。筧様。ウィズ」
「いいか貴様等。古今東西、男女の間柄には割入らんのが常識だ。特に、見るからに傷物な二人の間柄には入るな。重みで割れる」
「って事は関係あっむぐグーーー!!」
「筧様、本体は脆弱で、筧様」
「割入るな。もう一度言う。割入るな」
「ア、もしかして失恋しみぎゃああああああああああ口がぁああああああああア!!」
「筧様、メキメキいってます、筧様。ウィズ」
結果としては能城が止めるよりも前に筧の傷口が開いて彼がへたり込むわけだが。
兎も角、暗沌とした空気は去った。明確ではないが希望も出て来た。
ならばいつまでもこんな下水道にいる理由はない。臭く淀んだ空気をこれ以上身に染ませたくもない。
「……諸君、三秒だ。覚悟を整えろ」
クロミーとワースから離れた掌が、指先が、筧の眉間と顎先までを手合わせして拝むように覆い尽くす。
そして人差し指で眉間を強く押さえながら、彼は静かに息を吐き出した。
異臭が鼻腔に舞い込んでくる。生暖かい汗が指先を伝う。じっとりとした感触が肌に張り付く。
「…………」
だが、そんな物は筧の思考を乱す要因にはならない。そんな物を気に掛ける間もなく、彼の脳では幾重もの採択が行われているからだ。
思考できるだけ、それこそ三つ同時など当たり前のように。たった数秒という赦された猶予に自身の、いや仲間の命さえも賭けるルートを選び出す。
ペット。レートが一番高いものではない。より安全で、より安牌な物を斬り捨てていく。求めるのは効率化。
仲間を斬り捨てることを、仲間を救うことを計算に入れながら、幾度も拡がる最悪を振り払い、一度も拡がらない最善を選び尽くす。
「…………」
押しつけられた両掌の中で、彼の口が不気味なほど小刻みに躍動していた。
目頭から口元までを覆ったのはその小刻みを隠すためでもあるが、何よりそれが産む言葉を潰すためだ。
彼の脳にある思考は口を閉じるという機能すら破棄し、思考に廻しているのだから。
「……まずは何より法則性を解明する」
極月の残した、ハーメルンの笛吹きが何を示すのか。
この世界の、何と関与するのか。
「一般的に、能城さんが言った通り神秘の模倣は術式の効果を高める。創造級ほどの力がありながら神秘を取り込む理由や、それにハーメルンの笛吹きを選んだ理由は解らないが、まずこれを解明しないことには話にならないだろう」
「では、どうされますか? ウィズ。その御伽噺が元としても、問題は解明方法です」
「ハーメルンの笛吹きに登場するのは、主人公である笛吹きと村人、子供、鼠だ。この四つの要素を埋めたい。……まず主人公である笛吹きは言うまでもなく創造級である対象のことだろう。追い払われた鼠は我々異貌狩りだ」
「あの、上空の霊体は?」
「解りません。子供か村人かで言えば、鼠を追い払おうとした村人……、でしょうか」
未確定要素が多すぎる。ここまでの当てはめも、殆どこじつけのようなものだ。
だが、その仮説は決して無駄ではない。そこにこそ解決の糸口がある。
「残るは子供。ハーメルンの笛吹きが連れ去り、共に隠れたとされる子供だけだ。彼を追い払った村人や彼に追い払われた鼠と違って、唯一彼とどの形でも敵対していない存在であるこの子供こそが法則の鍵となるはずだ」
「子供ネー……、登場人物もう全部出尽くしちゃったヨ。極月暮刃はどうかナ? 随分グラマーな子供だけド」
「馬鹿な。どうして彼女が……」
と、一息。
単純な事に、気付く。
「……待て、そうだ。どうして彼女はこの世界にいられるんだ?」
「何故って……、創造級に認められているからではないですか? ウィズ」
「そう、認められている。だがそれはつまり攻撃をしないという事だ。あの上空の霊体達が攻撃手段だとするならば、それはおかしい」
「……おかしいって?」
「忘れたのか? 創造級は生命エネルギー……、身体に欠陥を持っている。大雑把に使っていることさえ驚きなのに、特定の誰かを攻撃しないようにするほど、精密な動作ができるわけがない!」
「し、しかし、それを言うならこの世界の人間達も攻撃されていない。霊体達は上空にしか……」
「上空、そう、上空だ。どうして対象は奴らを町中に放たない? そうすれば直ぐにでも我々は全滅するだろう。……だが、そうしない。町の人間を傷付けないためか? だとすれば、あの霊体達はいったい何のためにある!?」
何かが、噛み合わない。
「待て、待て。これはそんなに単純な話じゃない……! 何処かで食い違っている。そもそも創造級はどうして罠を張って息を潜ませていた? これ程の、異貌を封じ自身の法則に縛り付ける力があるのに! 何故、奴は病院に踏み込むという作動条件を作ったんだ!?」
「……筧さん。病院に何があると思うと貴方は私達に問いました。予期せずでしょうが、その意味は大幅に変わったのでは?」
「そうなります。根本から、何かが違う……!」
創造級は病院にいて、そこに侵入されたからあの霊体を作動させたと思っていた。
異貌の力を無効化することとあの無限にも等しい霊体達こそが創造級の力だ、と。
だが違う。違うのだ。掻き上げた理論が間違っているのではない。そもそも、それを書く紙さえ正しいものかどうか。ペンまでも。
「この世界は何かがおかしい!!」
ぱしゃんっ。
聞き慣れた音が、呼吸に等しく鳴り止まないその音が、響き渡る。
彼等は息を止めた。言葉さえも、ふつりと途切れさせた。
耳にこびり付いたその音が鳴り止まない。皆の視線が一斉に一カ所へと集まっていく。
音が、したのだ。水を掻き分ける音が。――――遙か暗闇の底から。
「……戻ってきた? 極月暮刃が?」
「まさか……。きっと彼等が帰って来たんだヨ」
下水の底でクロミーの足に触れるのは一度が筧が拾い上げた紫紋の遺品。
一瞬だけそれに視線を向けるが、暗がりと下水の澱みで輪郭さえもボヤけて見えた。
闇靄より現れた、その異貌と同じように。
「お腹に入って……、ネ」
赤黒く濁った液体が、奇妙に浮き上がる。
その異貌が動く度に、腹部分にある液体はぐるりぐるりと、まるで卵子のように蠢いた。それが一層液体を目立たせた。
泥人形のような、肩のないのっぺりとしたフォルム。そこに真っ白な目玉が二つ。そして腹部の赤黒い液体。
肉は泥、骨血は下水。この汚らわしい闇夜の番人でも気取ったか、異貌に怯む様子はない。
いや、怯むという知能すら存在しないと思わせるーーー……、ノロマなのだ。
「これも創造級の創り出したものカ? また登場人物が増えちゃったネ」
「全く、我々は小説家でなければ絵本作家でも、その編集者でもないのだがな。……体細胞が下水だ。物理攻撃は無意味だろう。異貌の力が抑えられている現状では面倒な敵だ」
「ベストは火炎や氷結と言った属性現象ですね。ウィズ。しかしここでは……」
「あぁ、うん。任せて」
一度は背負い直したそれを、彼はぐるんと重心ごと流しながら再び持ち直した。
極月には放つことさえなかったが、さて活躍の場があるならそれに超したことはない。
物理攻撃が効かない? 属性現象が存在しない? だったら簡単な話だ。
「もっと強力な物理攻撃で吹っ飛ばすだけだよ」
ガトリングガンが文字通り火を噴いた。
閃光は暗闇になれた彼等の眼を一瞬眩ませたが、それ以上に下水道の狭い通路へ反響し続ける轟音が脳を激震させる。
先の、極月との銃撃戦より数倍は激しい閃光の点滅と衝撃の乱射。閃光弾でも音響弾でも良いからこの目と耳を潰してくれ、と悲鳴を上げそうになった瞬間。
ガトリングガンの銃口は下水の異臭とはまた異なる、鼻先をつんざく白煙を噴き上げながら、緩やかに停止した。
「……ふぅ」
「のーーーギッ!! 撃つなら撃つって言って欲しいネ!!」
「い、いやぁ、申し訳ない。正直撃ってみたくて……。あ、憧れません? 巨大銃器って。僕からするとこれも充分異貌の力なんですけどねぇ」
「割とヤバい人ですねこの人も。ウィズ」
「……解らんでもないがな。男としては」
やがて反響音が消え去り、硝煙が沈んだ頃。開けた視界に映るのはへどろの異貌だった。
ただしガトリングガンの超火力により現代アートよろしく上半身のない、赤黒い球体と下半身だけの奇妙な状態ではあったが。
その姿が現れてから間もなく下半身も態勢を崩し、ずるずると崩れていく。ただ残るのは赤黒い球体ばかり。
――――その赤黒い球体も、数秒と立たない内にパンッと弾けて溶け出した。
「うヒッ。流れてくるヨ!」
「無害でしょう。ウィズ。恐らくは消化途中だった紫紋隊員かと……」
「地上で傷付いて下水道に逃げ込んでやられたか、それとも我々と同じく下水道を進んでやられたか……。召喚部隊が主戦力な彼等ではワース君のように火力ある機械兵器は持ってなかったんでしょうね。この異貌がどんな生態かは解りませんが……、こうして消化された、と」
「うーン。……ア・ペリ・ルドフ。安息なる日常に戻りたまエ、ネ」
胸の前で二回、三回と円を描く。それが鎮魂の祷りである事は皆が感じ取れた。
どの世界でも、どの異界でも。風習は違えど風土は違えど、死者に対する祷りは等しく存在する。
それは霊体や霊魂が生きる世界であっても、だ。この奇妙な共通点は、何を意味するのか未だに解ってはいない。
或いは解明するべきものではないのかも知れないけれど。侵すべき、領域ではないのかも知れないけれど。
「……祷りを」
時間にして、十秒にも満たない隙間。一刻を争う状態であるにも関わらず、筧はその命令を下した。
それは釈明なのだろう。彼等への鎮魂の祷りよりも、自身達への言い訳に他ならない。
既に壊滅状態にある部隊への、それを救うべき立場でありながら無力にも見過ごす決定を下し、或いは従った自分達への。
誰も口に出すことはない。然れどそれが自傷か、自慰か。己の為にあるべきものだと知っている。彼等の鎮魂のためになると信じながらの代償行為であることを、識っている。
「行こう」
四人はそれぞれの祷りを、黙祷をやめ、武器を抱え上げる。
その瞳には浅黒く沈殿する液体は映っていなかった。ただ、意識の端で残骸に対する注意だけは怠らない。
再び意志を叩き直す。一度や二度の絶望で折れることなき、意志を。熱した鋼鉄が如く、然れど冷えた銅銀が如く。鍛堅にて不砕。折れないのではなく、折らない意志を。
遂行の為に彼等は、己が心に波打つへどろさえも、飲み込んでーーー……。
「……?」
が、皆が通路の奥へ進む中、ふと筧は足を止めた。
赤黒い液体の近くに浮かぶ紫紋の遺品。それが、何かに引っ掛かったようにその場で留まっているのだ。
もしかすると、極月と対峙した時に落とした高電磁圧縮銃かも知れない。彼は足を引きずるようにしてそれに手を伸ばすが、指先が触れ、掌が掴んだものは銃などではなかった。
人間の、手首だ。重さだけは銃と同じぐらいだが、その形状は全く違う。
恐らく先程の異貌に飲み込まれた遺体だろう。腕先だけ消化されなかったかーーー……。
「どうしたネー? 置いてっちゃうヨー!」
「あぁ、今……」
ぷつ。そんな音と共にそれ等は浮き上がる。
腕だった。足だった。頭だった。地面に叩き付けられたジグソーパズルのように、弾けた体だった。
嗅ぎ慣れた異臭が鼻先に立ちこめる。下水の異臭ともまた違った、自身の腕から漂うそれと酷似した異臭。
鮮血の、真新しいーーー……、紅色の臭い。
「……これは」




