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アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
・●第9章:ヴェリタスの天秤3 楽園の崩壊

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第2話:学びのない痛み!

国防教育省の最上階。

ここから見える王都は、無機質な光の点滅に過ぎない。

泥の匂いも、血の温かさも、人々の悲鳴も、ここまでは届かない。

あるのは、モニターに映し出されるデータと、報告書の山だけだ。


「……長官。第4地区の監視カメラ網に異常。ノイズにより追跡不能です」


「警備隊からの報告。スラム街の協力者が、昨夜未明に3名、行方不明になりました」


「エラーラ様とナラティブ様は、通信を遮断したまま、地下闘技場跡へ潜入しております」


アリシアは、唇を噛んだ。

通信遮断。それは「こちらの干渉を拒絶する」という意思表示だ。

あの雨の夜、倉庫で決裂してから、家族の糸は切れたままだった。


(なぜ、分かってくださらないのですか……)


アリシアの指が、机の端を白くなるほど握りしめる。

彼女は「安全」という名の檻の中から、必死に外の世界を守ろうとしていた。

だが、その檻の外で戦う家族は、その「安全」を「過保護な弱さ」だと嘲笑っているようにさえ思えた。


一方その頃。王都の最底辺、第9区画。

そこは法の光が届かない、暴力と欲望の掃き溜めだ。


「なんだ?お嬢ちゃんたちが来る場所じゃねえぞ!」


地下闘技場の跡地。たむろしていたゴロツキたちが、侵入者を見て下卑た笑い声を上げた。

だが、その笑いは一瞬で悲鳴に変わった。

黒い旋風が吹き荒れたかと思うと、数人の男が壁にめり込んでいた。

ナラティブ・ヴェリタス。

漆黒のドレスを翻し、彼女は鉄扇をパチンと閉じた。その瞳には、獲物を狩る獣の愉悦と、冷徹な計算が宿っている。


「邪魔よ。あたしたちは『痛み』の先生を探しに来たの。雑魚に用はないわ」


その後ろから、白衣のエラーラが悠然と歩いてくる。

彼女は倒れた男の一人を踏みつけ、その反応を観察した。


「君たち。最近、子供をさらっている『芸術家』を知っているね?」


「言えねえな!」


「言えない?それは『言いたくない』のか、それとも『言うと殺されるから怖い』のか。……後者なら、今ここで私が与える恐怖とどちらが上か、実験してみようか」


エラーラの指先に、青白い電撃が奔る。

それは「尋問」という名の暴力だった。

だが、二人にとってこれは正義だ。痛みを与え、痛みを知ることで、真実にたどり着く。彼女たちはそうやって生き延びてきた。

二人は確信していた。

自分たちは強い。なぜなら、地獄を見てきたからだ。

どんな拷問も、どんな罠も、自分たちの「経験」の前では無力だ。

それは「生存者バイアス」という名の、強固で、しかし脆い鎧だった。


深夜の長官室。

アリシアは一人、窓ガラスに額を押し付けていた。


「……わたくしは、何もできないのですか」


呟きは、ガラスに白い曇りを作って消えた。

教育で世界を変えると言った。愛で暴力をなくすと言った。

だが、今まさに突きつけられている「悪意」の前で、自分の理想はあまりにも無防備で、遅すぎる。


「……暗いですわねえ、ここは」


不意に、部屋の空気が変わった。

絵の具と溶剤の匂い。そして、場違いなほど明るい香水の香り。

アリシアが振り返ると、そこにリウがいた。

巨大なキャンバスを背負い、警備システムをどうやってかいくぐったのか、窓枠に腰掛けている。


「リウ様……」


「こんばんは、孤独な女王様。……あまりに辛そうな顔をしていらっしゃるから、来てしまいましたわ」


リウは軽やかに床に降りると、アリシアの元へ歩み寄った。

そして、持っていたバスケットから、まだ温かいポットとカップを取り出した。


「差し入れですわ。ヴェリタス家の味……ではありませんが、あたし特製のハーブティーです」


アリシアは、震える手でカップを受け取った。

温かさが、冷え切った指先から心臓へと伝わる。その瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになり、彼女はリウの前で崩れ落ちそうになった。

リウは、そんなアリシアを支えるように、隣に座った。


「……ナラティブたちに、会ってきましたの?」


アリシアの問いに、リウは苦笑して頷いた。


「ええ。あの子たち、元気でしたわよ。……スラムの酒場で、あの子は傷だらけの拳を自慢げに見せてくれましたわ。『これが勲章だ』って」


「……勲章?……」


アリシアは顔を歪めた。


「傷つくことが勲章だなんて……そんな悲しいこと、あっていいはずがありません」


「ええ。その通りですわ」


リウは、真剣な眼差しでアリシアを見つめた。


「あの子たちは間違っています。傷はただの損壊です。痛みはただの信号です。そこから学べることなんて、『次は避けよう』ということくらい。……あの子たちが語る『痛みによる進化』は、たまたま死ななかった人間が、自分の運の良さを実力だと勘違いしているだけの、生存者の傲りですわ」


リウの言葉は、残酷なまでに的確だった。

だが、だからこそ、アリシアの胸に刺さった。


「でも……だからこそ、あの子たちは強い。迷いがないからですわ。自分の生き方を全肯定しているから」


リウは、アリシアの手を握った。絵の具で汚れた、温かい手。


「対して、貴女は迷っている。自分の理想が、ただの綺麗事ではないかと。……貴女は弱い。傷つくのを恐れ、失うのを恐れ、塔の上で震えている」


「……っ……」


図星だった。

アリシアは俯き、涙をこらえた。

わたくしは弱い。何も持っていない。

ただ、みんなに笑っていてほしいと願うだけの、無力な子供だ。

だが、リウはその手を強く握りしめた。


「でもね、アリシア。あたしは……そんな貴女だからこそ、狂おしいほどに惹かれるのです」


「……え?」


アリシアが顔を上げる。

リウの瞳には、ふざけた色はなかった。そこにあるのは、芸術家が「至高の美」を見つけた時の、熱っぽく、そして切実な情熱だった。


「『痛みは必要だ』と開き直るのは簡単ですわ。世界なんてそんなものだと冷笑するのも、楽な生き方です。……でも、貴女は諦めない。傷つくことの無意味さを知りながら、それでも『誰も傷つかない世界』という夢を、血を流しながら追い続けている」


リウは、アリシアの頬に触れた。


「それは、どんな強さよりも尊い、美しい『抵抗』ですわ。……あたしは、貴女のその弱さが、その優しさが……好きですのよ」


「リウ……様……」


アリシアの瞳から、涙が溢れ出した。

否定されると思っていた。

強さを尊ぶリウなら、ナラたちの側につくと思っていた。

でも、彼女は肯定してくれた。

この震える弱さこそが、貴女の美しさなのだと。

その時だった。

部屋のモニターが、一斉にノイズを発した。

警報音が鳴り響き、赤黒い光が部屋を染める。


『――ごきげんよう、国防教育省長官。そして、愛すべき生存者たちよ』


モニターに映し出されたのは、仮面をつけた男だった。

背景には、無数の管に繋がれた子供たち。そして、その中央に囚われている二つの影。


「……おかあさま!?ナラティブ!?」


アリシアが叫ぶ。

そこに映っていたのは、無敵のはずの二人――エラーラとナラティブが、鎖に繋がれ、床に伏している姿だった。


・・・・・・・・・・


時間は少し遡る。

エラーラとナラは、ついに犯人のアジト――地下深くにある、巨大な実験施設へと到達していた。


「ここね。腐った臭いがするわ」


「ああ。魔力反応も最大だ。……行くよ、ナラティブ!」


二人は正面から突入した。

罠があることは承知の上だ。だが、どんな罠も力でねじ伏せる。それが彼女たちのやり方だった。

しかし。

待ち受けていたのは、武力でも魔力でもなかった。

部屋に入った瞬間、甘い香りが充満した。

毒ガスではない。エラーラの検知魔法にも引っかからない、無色の気体。


「……なんだ?身体が……」


ナラティブの動きが鈍る。

目の前の景色が歪む。


『ようこそ。痛みを知る者たちよ』


スピーカーから、犯人の声が響く。


『君たちは強い。肉体的な苦痛には耐性があるだろう。……だから、私は用意したのだよ。君たちが絶対に耐えられない、特注の「痛み」を』


「……戯言をッ!」


エラーラが魔法陣を描く。だが、魔力が出ない。

いや、魔力はある。だが、構成できない。

脳が、思考を拒絶しているのだ。


『エラーラ・ヴェリタス。君の恐れは「無知」ではない。「自分の知識が、愛する者を殺すこと」だ』


「……あ、あぁ……」


エラーラの視界が変わる。

目の前に、ナラがいる。アリシアがいる。

二人が、血を流して倒れている。

自分の開発した魔法で。自分の計算ミスで。


「違う……違うッ!私は、君たちを守るために……!」


エラーラは頭を抱え、その場に崩れ落ちた。

肉体的な拷問なら耐えられた。だが、彼女のアイデンティティである「知性」が、愛する者を傷つけるという幻覚は、彼女の精神を粉々に砕いた。

一方、ナラもまた、悪夢の中にいた。


『ナラティブ・ヴェリタス。君の強さは「孤独への恐怖」から来ている。捨てられたくないから、役に立とうとする。……だが、もし彼女たちが、君を必要としなくなったら?』


「やめろ……黙れッ!」


ナラは鉄扇を振り回す。だが、敵はいない。

あるのは、冷ややかな目をしたアリシアとエラーラの幻影だ。

二人が背を向けて遠ざかる。

スラムのゴミ捨て場。雨の音。寒さ。飢え。

あの日、エラーラに拾われる前の、絶対的な孤独が蘇る。


「待って……行かないで!姉さん!お母さま! あたし、頑張るから!強いから!役に立つからぁッ!」


ナラは幼児退行したように泣き叫び、何もない虚空に縋り付いた。

無敵の狂犬は、ただの「捨てられることを怯える子供」に戻ってしまった。


長官室のモニター越しに、その光景はすべて中継されていた。


「やめて……やめてぇッ!」


アリシアが悲鳴を上げる。

画面の中では、エラーラがうわ言を呟きながら床をのたうち回り、ナラが虚空に向かって「ごめんなさい、捨てないで」と泣き叫んでいる。

血は流れていない。骨も折れていない。

だが、二人の心は、完膚なきまでに破壊されていた。

犯人は、仮面の奥で嘲笑った。


『見たまえ、長官。これが「強者」の末路だ。彼女たちは痛みを誇っていたが、自分のトラウマに蓋をしていただけだ。けして、痛みで強くなったのではない。【『痛みで強くなった』と思い込まなければ、痛みに苦しんだ惨めさに耐えられない】のだ』


犯人が、動かなくなったナラの髪を掴み、カメラに向けさせる。

ナラの目は虚ろで、焦点が合っていない。


『さて、長官。ここからが「教育」の時間だ。君は彼女たちを救いたいか? 救いたければ、君自身の足でここまで来たれ』


「……ッ!」


『君の「愛」とやらが、私の「芸術」に勝てるかな? まあ、どうせ、無理だろうね』


通信が切れた。

部屋に、重い静寂が戻る。

アリシアは、真っ黒になったモニターを見つめたまま、動けなかった。

震えが止まらない。

恐怖ではない。激しい怒りと、そして深い絶望。

自分の「保護」も、彼女たちの「強さ」も、すべてが通用しなかった。

サバイバーの誇りも、生存者バイアスも、悪意ある天才の前では無力だった。


「……アリシア」


リウが、背後からそっと声をかける。

だが、アリシアはゆっくりと立ち上がった。

その顔からは、表情が消えていた。

涙も乾き、ただ、底知れない闇のような静けさだけがあった。


「……リウ様」


アリシアの声は、氷のように冷たかった。


「車を、用意してください」


・・・・・・・・・・


激しい雨が、地面を叩きつける。

闇を切り裂くように疾走する、極彩色の魔導車。

ハンドルを握るリウ・ヴァンクロフトの横顔は、いつになく真剣だった。

助手席のアリシアは、膝の上で固く手を組んでいる。


「……怖くはありませんの?」


リウが、雨音に負けない声で尋ねる。

アリシアは、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、塔の上で見せた脆いものではなく、何かを吹っ切ったような力強さがあった。


「怖いですわ。足が震えて、今すぐにでも逃げ出したいほどに」


「正直ですわね」


「ですが、それ以上に許せないのです。あの子たちが……わたくしの家族が、あんな卑劣な罠で、痛みだけが真実だなんて、そんな悲しい嘘を植え付けられていることが……」


アリシアは、懐から小さなデバイスを取り出した。

国防教育省が極秘に開発していた、広域精神感応デバイスの試作機。本来は、災害時にパニックになった群衆を鎮めるためのものだが、使いようによっては諸刃の剣となる。


「リウ様。お願いがあります」


「なんなりと。貴女のためなら、地獄の鬼ともダンスを踊ってみせますわ」


「到着したら、わたくしをあの子たちの元へ届けてください。どんな邪魔が入ろうとも、必ず」


リウはニヤリと笑い、アクセルをさらに踏み込んだ。


「承知!さ、行きましょう。灰色に塗りつぶされたこの世界に、貴女という一番美しい『光』を叩きつけに!」


荷車が宙を舞い、瓦礫の山を飛び越え、最深部の闇へと突っ込んでいく。


・・・・・・・・・・


地下実験施設。

中央のホールには二つの十字架が立てられていた。

そこに縛り付けられているのは、エラーラとナラティブ。

かつて「最強」と呼ばれた二人は、今は見る影もなく憔悴しきっていた。


「うう……計算が……合わない……」


エラーラは虚空を見つめ、うわ言を繰り返している。


「捨てないで……役に立つから……殴っていいから……側にいさせて……」


ナラティブは子供のように泣きじゃくっていた。


その様子を、仮面の男――「芸術家」が満足げに見下ろしていた。


「素晴らしい。これこそが真実の姿だ。強さなどというメッキが剥がれ落ちた、純粋な『痛み』の結晶。……ああ、美しい」


男が指揮棒を振るうと、新たな幻覚ガスが噴出される。


「さあ、仕上げだ。互いに殺し合う幻覚を見せてやろう。痛みこそが絆だと信じて疑わない君たちが、その痛みで互いを引き裂く様は、最高の芸術になる!」


エラーラとナラティブの手が、無意識に動く。

朦朧とした意識の中で、彼女たちは互いの首を絞めようと手を伸ばす。

その時だった。

施設の壁が、爆音と共に粉砕された。

瓦礫の煙の中から飛び出してきたのは、泥だらけの魔導車。


「お待たせしましたわ!」


リウが叫び、ハンドルを急旋回させて車を横滑りさせる。

タイヤが火花を散らし、遠心力を利用して助手席のアリシアを中央へと放り出した。


「アリシアァァッ! 行けぇッ!」


アリシアが宙を舞う。

純白のドレスが、汚れた空気の中で花のように開く。

彼女は迷うことなく、エラーラとナラの元へと着地した。


「な、なんだ貴様は! 武装もせずに!」


「芸術家」が驚愕する。

アリシアは男を一瞥もしなかった。

彼女は、錯乱して互いを傷つけようとしている二人の間に、自らの身体を割り込ませた。


「……おかあさま! ナラティブ!」


「……あ……?」


「……だ、れ……?」


二人の虚ろな瞳が、アリシアを捉える。だが、認識できていない。彼女たちに見えているのは、自分を責め立てる幻影だ。

ナラの手が、アリシアの首にかかる。

エラーラの魔力が、暴走してアリシアを焼こうとする。


「愚かな! 痛みを知らぬ者が、痛みを知る者の暴走を止められるわけがない! 貴様も巻き添えになって死ぬがいい!」


男が嘲笑う。

だが、アリシアは逃げなかった。

ナラの指が首に食い込む痛みに顔を歪めながらも、彼女は強く、強く、二人を抱きしめた。


「……っ……痛いですわ、ナラティブ……。熱いですわ、おかあさま……」


アリシアは、その痛みを拒絶しなかった。

そして、懐のデバイスを起動させた。

ただし、鎮静化のためではない。

「共感」のためだ。


「共有……開始ッ!」


高周波音と共に、アリシアの精神が、二人の精神と強制的に接続される。

瞬間。

アリシアの中に、二人の「地獄」が流れ込んできた。

エラーラが抱える、知識への責任と、失敗への恐怖。

ナラティブが抱える、凍えるような孤独と、自己無価値感。

それは、アリシアが想像していたよりも遥かに重く、暗く、そして冷たいものだった。


(……ああ。貴女たちは、ずっとこんな闇の中で戦っていたのですか)


アリシアの目から涙が溢れ出す。

痛い。苦しい。怖い。

普通の人間なら、一瞬で発狂するほどの負の感情。


「素晴らしい!絶望に染まれ!お前も『こちら側』へ堕ちてこい!」


男が歓喜する。

だが。

アリシアは、その闇の中で、たった一つの光を灯した。


(でも……違いますわ)


アリシアは、精神の世界で、うずくまる二人に語りかけた。


『おかあさま。貴女の知識は、誰かを傷つけるためのものではありません。……そして何より、わたくしが、貴女のその不器用な優しさに、どれほど救われたか』


エラーラの脳内に、温かい映像が流れ込む。

獣病院での穏やかな午後。泥のようなコーヒー。笑い合う食卓。


『ナラティブ。強くなければ愛されない? 役に立たなければ捨てられる? ……馬鹿なことを言わないで。わたくしは、貴女が強いから愛しているのではありません。貴女がナラティブだから、愛しているのです』


アリシアの想いが、二人の荒れ果てた心に降り注ぐ。

それは「痛み」を否定するものではない。

痛みを包み込み、「愛されている」という事実で上書きするものだった。


「……あ……ったかい……」


ナラの手から、力が抜ける。


「……論理的……ではないな……。こんな……変数は……」


エラーラの暴走する魔力が、穏やかな光へと変わっていく。

現実世界で、アリシアは二人を抱きしめたまま、涙を流していた。

そして、顔を上げ、呆然としている「芸術家」を睨みつけた。


「……見なさい。これが、わたくしたちの答えです」


アリシアの声は、凛としていた。


「痛みは、人を強くするかもしれません。ですが……人を『生かす』のは、痛みではありません。愛ですわ」


その瞬間。

エラーラとナラの瞳に、理性の光が戻った。


「もう、大丈夫ですわ。……さあ、悪い夢はおしまいです」


ナラが、震える手で自分の頬を叩いた。

そして、ゆっくりと立ち上がり、仮面の男の方を向いた。

その目には、もう怯えはない。あるのは、静かで、しかし灼熱のような怒りだ。


「……あんた。よくも姉さんを泣かせたわね」


ナラの全身から、凄まじい闘気が立ち上る。

それは、恐怖を誤魔化すための強がりではない。守るべきもののために振るう、真の強さ。


「お母さま。計算、できる?」


「ああ。……変数は修正した。現在の我々の勝率は……確実だ。」


エラーラが白衣を翻す。その表情は、科学者としての冷徹さと、母親としての情熱が完全に融合していた。


「な、なんだ……!? なぜ、トラウマを克服した!? 私の芸術は完璧だったはずだ!」


男が後ずさる。


「克服など、していないさ」


エラーラが杖を構える。


「ただ、認めただけだ。我々は弱く、脆い。……だが、我々は何度でも立ち上がる!」


「行くわよ、お母さま!」


「合わせたまえ、ナラ君!」


エラーラの魔法が幻覚ガスを無効化し、正確無比な座標指定で男の逃げ場を封じる。

その空間を、ナラが弾丸のように駆け抜ける。

ナラの拳が、仮面を、そして男の歪んだ野望を粉々に粉砕した。

男は壁に叩きつけられ、白目を剥いて気絶した。

静寂が戻る。


「……終わった……の?」


リウが、車の陰から顔を出す。

ナラは荒い息を吐きながら、振り返った。


「楽勝よ! ……姉さんがいてくれたからね!」


アリシアは、その場にへたり込んでいた。

緊張が解け、全身の力が抜けてしまったのだ。

ドレスはボロボロで、首にはナラにつけられた赤い痣が残っている。

だが、彼女の顔は、この世で一番美しく輝いていた。


「……皆様。早く帰りましょう。……お腹が、空きましたわ」


三人は顔を見合わせ、そして笑い出した。

リウも駆け寄り、四人は泥だらけの地下室で、互いの体温を確かめ合うように寄り添った。


・・・・・・・・・・


数日後。

ヴェリタス探偵事務所には平和な時間が流れていた。

テーブルには、エラーラの淹れた泥のようなコーヒーと、アリシアの淹れた琥珀色の紅茶。そして、リウが買ってきたケーキが並んでいる。


「……で、結局あの犯人は、国防教育省の更生施設送りになったわけか」


エラーラがコーヒーを啜りながら言う。


「ああ。痛みを知ることで更生するのではなく、徹底的な教育とカウンセリングで、一から心を組み直されるそうだ。アリシアらしいやり方だね」


「まあ、あんな奴どうでもいいわ。それより見てよこれ!」


ナラが、新聞を広げる。

そこには、国防教育省長官の活躍を称える記事と共に、四人が現場から帰還する際の後ろ姿が掲載されていた。


「ふふん、あたしの背中、やっぱりカッコいいわね」


「貴女、ドレスが破れていましたけれど」


アリシアが苦笑しながら、紅茶のカップを置く。


「……ねえ、アリシアさん」


キャンバスに向かっていたリウが、筆を止めて振り返る。


「今回の件で、貴女の『弱さ』が最強の武器になることが証明されましたわね」


「……そうでしょうか」


アリシアは窓の外を見つめた。


「わたくしは、ただ必死だっただけですわ。……それに、やはりわたくしは思うのです。苦しみから学べることはあっても、苦しみなどない方が良いに決まっていると」


アリシアの言葉に、エラーラとナラは顔を見合わせ、やれやれと肩をすくめた。

だが、その表情は優しかった。

それでいい。その甘さこそが、我が家の聖女様なのだから。


「さて、そろそろニュースの時間だね」


エラーラが魔導テレビのスイッチを入れる。

画面には、王都のメインストリートが映し出されていた。

アナウンサーが淡々とニュースを読み上げる。


『――次のニュースです。本日正午頃、第3区画の建設現場にて、資材の落下事故が発生しました。幸い、通行人に怪我はありませんでしたが……』


画面には、崩れ落ちた鉄骨と、ひしゃげた魔導車が映し出されていた。

もし、そこに人がいたら。

もし、タイミングが数秒ずれていたら。

確実に、誰かが死んでいたであろう光景。

それを見た瞬間。

アリシアの胸に、冷たい杭が打ち込まれたような衝撃が走った。


(……ああ。やはり)


アリシアは確信した。

苦しみなど、いらない。

突然の事故。理不尽な死。

そこから学べることなど何もない。

ただ、痛くて、悲しくて、取り返しがつかないだけだ。

だから、わたくしは。

「わたくし」は……?


「……うッ……」


突如、アリシアのこめかみに、激痛が走った。

視界が明滅する。

テレビのノイズ音が、遠い日の「音」に聞こえる。

金属がねじ切れる音。

鈍い衝突音。

そして、誰かの叫び声。


(……え……?)


アリシアはよろめき、テーブルに手をついた。

紅茶のカップが倒れ、琥珀色の液体がテーブルクロスに広がる。


「姉さん!?」


「アリシア!どうした!」


ナラとエラーラが駆け寄ってくる。

リウも支えに入る。


「……あ……頭が……」


アリシアの視界の中で、家族の顔が歪む。

その向こう側に、知らない記憶がフラッシュバックする。

いや、知らないのではない。

「忘れていた」記憶だ。

血まみれの舗装路。

散らばった荷物。

そして、動かなくなった「誰か」。


(……あれは……誰……?)


(わたくしは……何かを……忘れている……?)


「アリシア! しっかりしろ!」


「姉さん! 息をして!」


家族の声が遠くなる。

激しい頭痛と共に、アリシアの意識は暗転した。

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