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アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
・●第9章:ヴェリタスの天秤3 楽園の崩壊

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31/51

第1話:生存者たちの傲慢!

完結篇。

前作「君の名を呼ぶ」を読んだほうが良いかも。

https://ncode.syosetu.com/n8833lb/76

王都の夜は、冷たい雨に沈んでいた。

国防教育省、長官執務室。

アリシア・ヴェリタスは眼下の街を見下ろしていた。


「……長官。現場からの報告です」


側近の言葉に、アリシアは振り返った。

その碧眼に、一瞬だけ「姉」としての、そして「娘」としての揺らぎが走る。


「被害者は……?」


「15歳の少年。画家志望の学生でした。……発見者は、エラーラ様とナラティブ様です」


アリシアは目を閉じた。

ここ数ヶ月、彼女は家に帰れていない。

「ヴェリタス獣病院」という名の、世界で一番愛おしいあの場所へ。

国政の改革、教育カリキュラムの再編、旧体制派との折衝。忙殺される日々の中で、彼女を支えていたのは、家族への愛と、彼女たちが住むこの世界を少しでも「優しくしたい」という祈りにも似た執念だった。

だが、現実は無情に彼女を嘲笑う。

今夜起きた事件は、彼女の理想を真っ向から踏みにじるものだった。


「……車を出して。わたくしも現場へ向かいます」


「しかし長官、現場は雨で足場も悪く、何より遺体の損傷が……」


「行きます」


アリシアの声には、反論を許さない絶対的な響きがあった。

彼女は知らなければならない。守ろうとした子供たちが、どのような理不尽に晒されたのかを。そして、愛する家族が今、何を見ているのかを。


・・・・・・・・・・


現場は、スラムの一角にある廃棄された倉庫だった。

黄色い規制線が張られ、警備兵たちが忙しなく行き交う中、アリシアが到着すると、誰もが道を空けた。

泥に汚れることも厭わず、純白の長官は倉庫の中へと進む。

そこには、異様な光景が広がっていた。

倉庫の中央には、キャンバスに見立てられた巨大な木の枠があり、そこに少年が張り付けられていた。

ただ殺されたのではない。全身の皮膚が部分的に剥がれ、筋肉の繊維が露出し、その血で床に極彩色の幾何学模様が描かれていた。

犯人は「芸術家」を自称する狂人。

『才能の開花には極限の苦痛が必要である』という妄執に取り憑かれた猟奇殺人鬼だ。


その遺体の前に、二人の影があった。

白衣を雨と泥で汚した、銀髪の科学者、エラーラ・ヴェリタス。

そして、漆黒のドレスを纏い、鋭い眼光で周囲を警戒する探偵、ナラティブ・ヴェリタス。


「……ふむ。死後硬直の進行度と、魔力残滓の波長から見て、犯行時刻は3時間前だね」


エラーラは、少年の無惨な遺体を前にしても、眉一つ動かしていなかった。彼女の青い瞳は、ただ、「事実」だけを観測している。


「犯人は、あえて治癒魔法をかけながら拷問を続けている。苦痛の持続時間を最大化するためだ。……興味深い。脳内の神経伝達物質が、限界を超えてショートしている痕跡がある」


「お母さま、こっちの傷を見てよ」


ナラが、少年の拳を指差す。その拳は、爪が剥がれ、骨が見えるほどに砕けていた。


「こいつ、最期まで抵抗したんだわ。この拘束具、ねじ切ろうとした跡がある。……へえ、ひょろっとしてる割に、なかなか根性はあったみたいね」


ナラの声には、同情というよりは、戦士に対する「評価」の色が濃かった。

彼女たち二人は、スラムという地獄から、それぞれの力で這い上がってきた「生存者」だ。

エラーラは学力という武器で。

ナラティブは武力という武器で。

痛みを知り、痛みを乗り越えた者だけが得られる「強さ」を、彼女たちは信仰に近いレベルで信じている。


「惜しいね」


エラーラが、遺体の瞼を指先で持ち上げながら呟いた。


「この少年、魔力回路の素質は悪くなかった。この極限のストレス環境下で、もし脳が覚醒していれば……あるいは、素晴らしい魔術師か芸術家になれたかもしれない。生物は負荷によって進化する。だが……彼は、その負荷に耐えうる器ではなかったということだ」


「そうね。弱かったのよ。……でも、痛みを知らずにのうのうと生きてる貴族のボンボンよりは、よっぽど濃い時間を生きたんじゃない?痛みは嘘をつかないから」


ナラも同意する。

彼女たちにとって、この死は「悲劇」であると同時に、「淘汰」という自然の摂理でもあった。殴られたことのない人間は、加減を知らずに人を殺す。痛みを知る人間こそが、真に優しく、強くなれる。

だから、この少年の死もまた、残酷だが意味のある「結果」なのだ、と。

そう、結論づけようとした時だった。


「……お待ちになって。」


凛とした、しかし震える声が、倉庫の空気を凍りつかせた。

エラーラとナラが振り返る。

入り口に、アリシアが立っていた。


「アリシア?なぜここに……長官がこんな汚い場所に足を踏み入れるんじゃない」


エラーラが驚いて声をかけるが、アリシアはその言葉を遮るように、遺体へと歩み寄った。

そして、自分が羽織っていた最高級のマントを脱ぎ捨て、少年の剥き出しの身体にそっとかけた。

その手は、怒りと悲しみで白く強張っていた。


「……おかあさま。ナラティブ。……今、あなたたちは、いま、何と仰いましたの?」


アリシアの声は低く、静かだった。


「事実を述べたまでだよ?アリシア」


エラーラは、娘の異変に気づきながらも、科学者としてのスタンスを崩さなかった。彼女にとって、感情で事実を歪めることは誠実さではないからだ。


「犯人は許しがたい外道だね。だが、現象として見るなら、過酷な環境が生物を進化させるように、苦しみや痛みは、魂を磨く砥石になり得る。……彼には、その砥石が少し、粗すぎたということだ」


「そうよ、姉さん」


ナラティブも、アリシアの機嫌を損ねたくはないが、自分の信念を曲げることはできなかった。彼女自身、エラーラに拾われるまでの地獄のような日々が、今の強靭な自分を作ったと信じているからだ。


「この子だって、もし生き残っていれば……誰よりも強い絵を描けたかもしれない。痛みを知ってる奴は強いのよ。だから……」


「……黙りなさい。」


アリシアの唇から、鋭い言葉が放たれた。

ナラティブが、ビクリと肩を震わせて口をつぐむ。アリシアが、これほど強い拒絶の言葉を家族に向けたことは、かつて一度もなかった。

アリシアは、マントの下で冷たくなっている少年の頬を、優しく撫でた。

まだ15歳。絵を描くのが好きだった、ただの子供。

将来への夢も、恋への憧れも、明日食べるパンの味さえも、すべてを理不尽な暴力によって奪われた命。

アリシアはゆっくりと顔を上げ、最愛の母と妹を見据えた。

その碧眼から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「……おかあさま。ナラティブ。……苦しみから学べることがあるのも、分かります。逆境が人を強くするという理屈も、理解はできます」


アリシアは、血の滲むような思いで言葉を紡ぐ。

彼女は知っている。エラーラもナラも、決して冷酷な人間ではないことを。

彼女たちのその思想は、彼女たち自身が地獄を生き延びるために必要だった「鎧」であり、自分たちを肯定するための「愛」であることを。

だが。

だからこそ。

今、「暴力のない世界」を夢見る者として。

その「生存者の理屈」を、肯定するわけには、いかない。

アリシアは、悲痛な叫びを押し殺した声で、痛烈に言い放った。


「ですが……亡くなったこの子が、一体……いったい、何を学べたというのです」


時が、止まったようだった。

雨音だけが、倉庫の屋根を叩き続けている。

エラーラは、息を呑んだ。

その言葉は、科学者としての彼女の論理を根底から否定するものだった。

死んでしまえば、学びはない。進化もない。

「耐えられなかった器」という言葉で片付けるには、この命はあまりにも重く、取り返しがつかない。

エラーラの脳裏に、かつての記憶が過ぎる。

実験に失敗し、廃人となった同僚たち。戦場で散っていった部下たち。

彼らの死を「無駄」だと思いたくなかったからこそ、「彼らは試練に挑んだのだ」と定義づけてきた。

だが、アリシアは今、それを「無駄な死だ」と突きつけたのだ。

「苦しむ必要などなかった死だ」と。

ナラティブもまた、言葉を失っていた。

「そいつが弱かったから死んだだけ」

喉元まで出かかったその言葉を、彼女は飲み込んだ。

言えなかった。

アリシアの涙を見てしまったからではない。

アリシアの背後に、見えない「何か」を感じたからだ。

アリシアが怒っているのは、二人の思想に対してだけではない。


「なぜ、この子は苦しまなければならなかったのか」


「なぜ、守れなかったのか」


そのやるせない怒りと無力感を、彼女自身に向けていることが分かってしまったからだ。

沈黙の中、金髪の女性が、静かに筆を止めた。

リウ・ヴァンクロフト。

ナラの親友であり、この奇妙な家族の観測者。

彼女は、悲しげな瞳でアリシアの背中を見つめ、そして小さく首を横に振った。


(……違いますわ、アリシアさん。貴女が怒っているのは、正義のためだけではない)


リウだけは、気づいていた。

アリシアのその過剰なまでの「苦しみの否定」。

それは、単なる博愛精神ではない。

もっと個人的で、もっと根源的な……「喪失」の記憶。

彼女自身も気づいていないかもしれない、魂の古傷が、この少年の死によって開いてしまったのだと。

エラーラは、深く息を吐き出した。

彼女の顔から、科学者としての仮面が剥がれ落ち、一人の傷ついた母親の顔が覗いた。


「……そうか。長官殿にとっては、我々の分析は不愉快だったようだね」


エラーラの声は、寂しげだった。

彼女は自分の考えを曲げない。曲げてしまえば、自分が生き抜いてきた過去を否定することになるからだ。

だが、最愛の娘に拒絶された痛みは、どんな拷問よりも彼女の胸を締め付けた。


「現場の指揮権は、国防教育省様にお返ししよう。……行こう、ナラ君」


エラーラは背を向けた。その背中は、いつもより少し小さく見えた。


「え、あ……お母さま……」


ナラは、立ち尽くすアリシアと、去っていくエラーラの間で視線を彷徨わせた。

姉さんを一人にしたくない。でも、お母さまを一人にするわけにもいかない。

そして何より、今の自分たちの言葉が、姉さんを深く傷つけたという事実が、ナラの足を重くしていた。


「……ごめん、姉さん。あたし……」


ナラは、言い訳のような言葉を残し、逃げるようにエラーラの後を追った。

足音が遠ざかっていく。

倉庫には、アリシアと、物言わぬ少年と、そしてリウだけが残された。

アリシアは、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

泥水がドレスに染み込んでいくが、彼女は気にしない。

冷たくなった少年の手を握りしめ、彼女は震えていた。


「……わたくしは……間違っていますか?」


誰に問うでもなく、漏れ出た言葉。

正しさは一つではない。

エラーラの言うことも、ナラの言うことも、この残酷な世界の真理だ。

強くなければ生きられない。痛みを知らなければ優しくなれない。

それは事実だ。

でも、それを「よし」としてしまったら。

痛みを「必要なもの」として肯定してしまったら。

わたくしは……何のために、ここにいるのですか?


「……いいえ」


柔らかい声が、雨音に混ざった。

リウが、アリシアの隣に静かに歩み寄っていた。

彼女は自分の着ていた派手なジャケットを脱ぐと、それをアリシアの肩に掛けた。


「貴女のそれは、間違いなく『美』ですわ」


「……リウ様……」


「エラーラさんも、ナラさんも、間違ってはいません。彼女たちは生存者ですもの。生き残った自分たちの歴史を肯定しなければ、立っていられない」


リウは、懐からハンカチを取り出し、アリシアの濡れた頬を拭った。


「でも、それは『くじ引きに当たった人』の理屈ですわ。『買えば当たる』と胸を張る勝者の論理。……でも、貴女は知っている。何も残せずに消えていった人たちの無念を。貴女は、彼らの声を代弁するために泣いている」


リウの指摘は、鋭く、そして優しかった。

アリシアはリウを見上げた。

この奔放な芸術家は、いつもふざけているようでいて、誰よりも深く人の心の色を見ている。


「……わたくしは、弱いですわ。あの子たちのように、痛みを受け入れて強くなることができない。ただ、痛いのが嫌で、怖いのが嫌で……誰にもそんな思いをしてほしくないと、駄々をこねているだけなのです」


「ええ。なんて人間らしくて、愛おしい駄々でしょう」


リウは微笑み、アリシアの震える手を、自分の絵の具だらけの両手で包み込んだ。

その手は……誰の手よりも温かかった。


「あたしは、そんな不器用な貴女がいじらしくて、好きですのよ。……サバイバーたちの強さは眩しいけれど、傷ついた人のために涙を流せる貴女の弱さは、どんな絵画よりも美しい」


アリシアの瞳が揺れた。

リウの言葉が、冷え切った心に熱を灯していく。

嫉妬していた。

ナラとリウの、言葉にしなくても通じ合う「強者」同士の絆に。

自分だけが、安全な場所から綺麗事を言っている「部外者」なのではないかと、ずっと不安だった。

けれど、リウは言った。

貴女のその痛みこそが、美しいのだと。


「……リウ様。わたくし、この子が味わった苦しみを、『学び』などという言葉で正当化させてたまるものですか」


アリシアが立ち上がる。

その瞳には、先ほどまでの迷いは消え、代わりに教育省長官としての、氷のような決意が宿っていた。


「わたくしなりのやり方で、戦います。……力を貸していただけますか?」


「……喜んで。貴女が描く『愛の世界』というキャンバス、あたしが特等席で色を添えて差し上げますわ!」

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