第1話:幽霊少女(1)
西都。
そこは、優雅で厳格な王都中央とはまるで違う、熱気と食い倒れの街だ。
通りには威勢のいい商人たちの声が飛び交い、鉄板でソースを焦がす香ばしい匂いが充満している。
「……騒がしい街ですわね、ここは」
人波をかき分けるように歩く、漆黒のドレススーツの女性。
ナラティブ・ヴェリタスは、不機嫌そうに鉄扇で口元を隠していた。
彼女の手には、屋台で買った「たこ焼き」。
「お母様ったら、『古代遺跡にレアメタル反応があるから調査してきてくれ給え!』なんて……。どうせまた、変なガラクタを作るための材料探しでしょうけど」
ナラは愚痴をこぼしながらも、熱々のたこ焼きを一口で頬張った。
「……熱っ!……でも、悪くない味ね。悔しいけれど」
彼女がたまたま足を止めたのは、西都の下町にある「茜小学校」の前だった。
時刻は午後4時。
下校時刻だ。
校門からは、たくさんの子供たちが飛び出してくる。
だが、その様子が少し奇妙だった。
子供たちは皆、必ず「二人以上」で手を繋いだり、集団になって帰っていくのだ。
一人で帰る子は、誰一人としていない。
まるで、何かを恐れているかのように。
「……ねえ、そこのボクたち」
ナラは、通りがかりの男子生徒二人組に声をかけた。
「どうして皆、そんなに固まって帰るの?」
「あ?なんや?お姉さん」
少年が、怪訝な顔でナラを見上げた。
「知らんの?この学校の『七不思議』やで。
……『ミオちゃん』が出るんや」
「ミオちゃん?」
「せや。日が暮れかけた時、一人で校門を出ると……出るんや。ボロボロの服を着た女の子の幽霊が。そんでな?『ひとり?』って聞いてきて、手を掴んでくるんやて!」
少年たちは慌てて走り去っていった。
ナラは、その後ろ姿を見送りながら、少しだけ目を細めた。
「……幽霊、ね。怪談話にしては、子供たちの目が本気すぎましたわ」
ナラの探偵としての勘が告げていた。
ここには、ただの噂話ではない、何らかの「事実」が埋まっていると。
「……レアメタル調査の前の、ちょっとした暇つぶしですわ」
ナラは、子供たちが去り、静まり返った校舎へと足を踏み入れた。
「さて。まずは情報収集ですわね」
ナラは鉄扇を片手に、誰もいない廊下を進む。
彼女は、子供たちが恐れる「ミオちゃん」の正体を探るべく、3つの場所を目指した。
まずは資料室。
ここには、学校の歴史や、過去の地域新聞が保管されている。
ナラは「ミオ」という名前と、過去の事故記録を照らし合わせた。
そして、10年前の古い新聞記事を見つけ出した。
『下校中の悲劇。児童、暴走魔導車にはねられ死亡』
記事によると、10年前の冬、この学校に通っていた3年生の少女・ミオが、校門を出てすぐの交差点で、魔導車にはねられて亡くなっていた。
時刻は夕方。目撃者はなし。
彼女は、たった一人で帰宅する途中だった。
「……10年前。一人での下校。条件は……一致しますわね?」
だが、ナラは記事の写真に違和感を覚えた。
現場写真の片隅に写っていたミオの靴。
それは、かかとがすり減り、サイズも合っていないボロボロのものだった。
次に、ナラは職員室へ忍び込んだ。
鍵のかかった棚を、ヘアピン一本で解錠する。
10年前の業務日誌を引っ張り出す。
そこには、当時の担任教師の、苦悩に満ちた走り書きが残されていた。
『……今日もミオの腕に新しい痣があった。「転んだ」と言うが、どう見ても大人の手によるものだ。……家庭訪問を実施したが、父親は会ってくれなかった。近所の噂では、毎晩怒鳴り声が聞こえるとのこと……ミオは給食を異常なほど食べる。つまるところ、家で食事を与えられていないのではないか……』
ナラの表情が、氷のように冷たくなる。
「……虐待、ですか」
最後に、ナラは保健室へ向かった。
古い救急箱の横に、当時の「保健室利用記録」が残っていた。
ミオが亡くなった、まさにその日の記録だ。
『氏名:ミオ』
『時刻:14時30分』
『症状:階段から転落。足首を捻挫。額に裂傷』
『処置:応急手当後、父親へ連絡。「仕事が忙しい」と切られそうになったが、「一人では歩けません」と説得。父親は「後で迎えに行くから、校門で待たせておけ」と言った』
そして、その下には、涙で滲んだような文字で、追記されていた。
『……18時。父親は来なかった。ミオちゃんは足を引きずりながら一人で出て行ってしまった。私が……私が無理にでも送っていくべきだった。あの子は、迎えが来ないことに慣れきっていた』
ナラは、日誌を閉じた。
全てのパズルが埋まった。
ミオは、虐待を受けていた。
あの日、彼女は怪我をして、父の迎えを待っていた。
痛む足で。寒い校門で。
「迎えに行く」という父の言葉を信じて……いや、信じなければ家で何をされるか分からないから、必死に信じようとして。
けれど、父は来なかった。
彼女は絶望の中、一人で夜道を歩き出し、そして事故に遭った。
「……迎えに来てくれなかった悲しみ。守られなかった絶望。……それが、怪異の正体というわけね」
ナラは、窓の外を見た。
日は完全に沈み、空は紫と黒のグラデーションに染まっている。
「……いいでしょう。あたしが、その『お迎え』に応じようじゃあ、ありませんか!」
ナラは鉄扇を帯に差し直し、毅然とした態度で立ち上がった。
ナラは、一人で校門を出た。
周囲には誰もいない。
街灯がチカチカと明滅し、カラスが不気味に鳴いている。
「さあ!あたしは今、か弱くて孤独な、一人ぼっちのレディよ」
ナラは、わざとゆっくりと歩いた。
事故現場となった交差点の手前。
空気が、急激に冷え込んだ。
背筋に冷たいものが走る。
風が止まった。
街の喧騒が、嘘のように遠のいていく。
「……ひとり?」
背後から、凍えるように冷たい声が聞こえた。
ナラは立ち止まった。
振り返らない。
まだだ。
「……ひとり、なの?」
声は近づいてくる。
足音はない。
そして。
クイクイ、と。
ナラのドレスの裾が、誰かに引っ張られた。
「……ええ。一人よ」
ナラは、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、10歳くらいの少女だった。
その瞳は――底なしの闇のように黒く、深く、悲しみに満ちていた。
「ミオちゃん」。
少女は、青白い手でナラのドレスを握りしめていた。
「……ひとりじゃ、あぶないよ」
ミオは言った。
普通の人間なら、悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
あるいは、腰を抜かして動けなくなるだろう。
だが、ナラは眉一つ動かさなかった。
「……そうね。夜道は危険がいっぱいだもの。……魔導車が飛び出してくるかもしれない」
ナラは、しゃがみ込んだ。
視線を、少女の高さに合わせるために。
そして、自分のドレスを掴んでいる少女の手に、そっと自分の手を重ねた。
冷たい。
氷のように冷たい手だ。
「……連れて行ってくれるの?」
ミオの黒い瞳が、揺れた。
彼女は頷いた。
そして、ナラの手を強く引いた。
「……こっち。こっちは、あぶないから。……いっしょに、かえるの」
ミオが引いた方向は、大通りとは逆の、細い路地だった。
一見すると、暗くて不気味な道だ。
だが、ナラは気づいていた。
大通りの方から、暴走した魔導車が猛スピードで駆け抜けていく音を。
もし、ナラがそのまま大通りを歩いていたら。
10年前のミオと同じように、あの車にはねられていただろう。
「……!」
ナラは理解した。
子供たちの噂。「捕まったら二度と帰れない」。
それは間違いだ。
この子は、子供たちを襲っているんじゃない。
「……あんた、ずっと守っていたのね」
ナラがつぶやくと、ミオの背中がビクリと震えた。
「自分が事故に遭ったから、一人ぼっちの子が、自分と同じ目に遭わないように。……手を引いて、安全な道へ誘導していた」
そう。
西都の子供たちが「一人で帰るとミオちゃんが出る」と恐れ、必ず集団下校をするようになった結果。
この10年間、この学校の生徒で、下校中の事故に遭った子供は「一人もいない」のだ。
彼女は、地縛霊となってなお、生徒たちを守り続けていた。
けして、人間を呪う悪霊になったのではない。
「自分のような痛みを、他の子には味わせたくない」。
その切実な、あまりにも健気な願いだけが、彼女をこの世に留めていたのだ。
「……バカな子」
ナラの手が、震えた。
恐怖ではない。
やり場のない怒りと、深い悲しみで。
「どうして……どうしてあんたが、そんな役目を背負わなきゃいけないのよ」
ナラは、ミオの手を強く握り返した。
「痛かったでしょう。寂しかったでしょう。……怖かったでしょう」
ミオの動きが止まった。
彼女の黒い瞳から、血の涙が溢れ出した。
「……パパ……。パパ、こないの……。ミオ、いい子にしてたのに……。いたいの……あし、いたいの……」
少女の姿が、恐ろしい幽霊から、ただの泣きじゃくる子供へと変わっていく。
10年間、誰にも言えなかった言葉。
誰にも聞いてもらえなかった叫び。
「……待たなくていいわ」
ナラは、ミオの体を抱きしめた。
泥と血にまみれた、冷たい体を。
漆黒のドレスが汚れることなど、微塵も気にせずに。
「待つ価値もない。あんたは、十分に頑張ったわ。……一人で、よく耐えたわね」
ナラは、自分の体温を分け与えるように、強く抱きしめた。
「あたしが……ナラティブ・ヴェリタスが、直々にあんたを迎えに来てあげたわ。だから、もう泣かないで」
ミオは、ナラの腕の中で、声を上げて泣いた。
10年分の涙を流すように。
「……おねえちゃん、あったかい」
ミオが呟いた。
その体から、冷たさが消えていく。
痣だらけだった肌が、本来の白さを取り戻していく。
「……ありがとう……」
ミオは、ナラを見上げて微笑んだ。
それは、10年前のあの日、父親に向けられるはずだった、無垢で愛らしい笑顔だった。
「ええ。あんたはもう、一人じゃないわ」
ミオの体が、光の粒子となって崩れ始めた。
彼女の「守らなきゃ」という執着が、ナラの抱擁によって解けたのだ。
役目は終わった。
これからは、恐怖の対象としてではなく、本当の意味での守護霊として、空から子供たちを見守るのだろう。
「……バイバイ、おねえちゃん」
光の中に、ミオが消えていく。
最後に残ったのは、ナラの掌にある、わずかな温もりだけだった。




