飛龍の嘆き①
イメージソング:超連射68k サウンドトラック
https://youtu.be/z_GUuSSGVM0?si=FSKCS0XleAcbYkk3
大気圏の最上層。
宇宙の暗闇の中に、それは漂っていた。
飛龍。
地を這い、空を舞い、家畜や人を襲い、時に人間に飼い慣らされる鱗と肉の獣「飛竜」とは根本的に異なる存在。
それは神話上の概念であり、星のエネルギーの奔流、言うなれば「現象」そのものであった。
意志なき宇宙の法則。
ただそこにあるだけの、巨大で美しい星の呼吸の一部。
しかし今、この悠久の時を生きる無機質な現象の中に、あり得ないはずの「波立ち」が生じていた。
星の地表から立ち昇る、あまりにも濃密で、あまりにも異質で、あまりにも不可解な生命たちの残響が、意志なき飛龍の核を激しく打ち据えていたのだ。
最初、それは単なるノイズとして処理されるはずだった。
だが、地表で繰り広げられる狂乱の引力は、星の摂理そのものを歪めるほどの特異点と化していた。
飛龍という現象の内に、徐々に、しかし確実に、未知の概念が結露していく。
それは「呆れ」であり。
それは「恐怖」であり。
それは「嫌悪」であった。
現象が、感情を受胎した瞬間である。
法則が、自らの表面で蠢くちっぽけな有機生命体たちの振る舞いを前にして、震え上がったのだ。
飛龍は、概念上の眼窩を見開き、眼下で繰り広げられるあまりにも奇怪なスペクタクルを俯瞰した。
私は、これまで、これほどまでに異常な生物群を見守り、庇護を与えていたというのか?
それは、飛龍にとって、自らの存在意義を疑うほどの、屈辱にも似たやるせなさであった。
眼下の大地では、人類という種族が、多種多様な手段を用いて、一斉に、自発的に、破滅の戯れを繰り広げていた。
外部からの侵略者も、逃れられぬ天災も存在しない。
彼らはただ、自らの内なる狂気を精緻に組み上げ、手を変え品を変え、自らを無に帰すための芸術的なまでの自滅を遂行していた。
飛龍は、大気圏の上部で、静かに形なき身体をうねらせた。
現象であるはずの飛龍は、論理的な思考を試みた。
さては、人類という種族にとって、殺戮しあうのが最も礼儀正しい挨拶なのだろうか?
そうとしか、思えなかった。
彼らは苦しんでいるのではない。
喜んでいるのだ。
狂気と呼ぶにはあまりにも体系化され、絶望と呼ぶにはあまりにも多幸感に満ち溢れている。
もし仮に、相互理解の果てにあるのが「殺戮」であり、生命の尊厳の行き着く先が「自殺」であるならば、飛龍がこれまで行ってきた「恵みの雨を降らせる」「大気を浄化する」といった行為は、彼らにとって迷惑千万な、お節介な干渉だったのではないか?
ふと、飛龍の記憶の奥底に、一つの契約の残滓が浮かび上がった。
百年ばかり前のことだ。
天を仰ぐ、一人のサメ獣人がいた。
孤独で、しかし強靭な意志を持ったその存在と、大気の現象たる飛龍は、奇妙な共鳴を果たした。その時、飛龍は確かに一つの「約束」を、星の記憶に刻み込んだ。
『本当に世界がおかしくなった時には、助ける』と。
飛龍は、いま一度、眼下で狂喜乱舞しながら腐肉を貪り、沸騰した海に飛び込み、笑顔でナイフを刺し合い、病魔と獣に喉を差し出す人類の姿を見つめ直した。
そして、特に感情もない、単なる宇宙の法則である神話上の現象ともいうべき存在が、困惑に満ちて、ゆっくりと首を傾げた。
これは、「世界がおかしくなった」状態なのだろうか?
もしそうであるならば、助ける理由などどこにもない。
むしろ、邪魔をしてはならない。
その疑問は、いま、確信へと変わりつつあった。
死者の魂が流れ着く終着点。
その、すべての生命が最後に通過せねばならない絶対の関所。
そこは、幽霊界の入国審査場とも呼ぶべき虚空であった。
私、飛龍は、大気圏の最上層から、その関所を俯瞰していた。
だが。
そこに「異常」が滞留していた。
天にも地にも向かわず、絶対的な法則の引力を無視して、関所の只中に居座り続けるおかしな女たちがいたのだ。
一人は、褐色肌の女。
現世において、傲慢極まる理論を世界に振りまき、己の思想の行方に一切の責任を取ることなく、最後は劇薬を煽って自ら命を絶った狂人。
そしてもう一人は、その女がかつて捨てた養子のエルフであった。
養子は女の思想を継ぎ、しかし反発し、国を「正しく破壊」して、狂気に満ちた愛で満たした末に死んだ。彼女が振りまいた愛という名の猛毒によって、王都は血の海に沈んだ。
それほどの破滅を引き起こした張本人たちが、今、死の関所のど真ん中で何をしているのか。
驚くべきことに、彼らは座り込み、楽しげに思い出話に花を咲かせていた。
「あの世界は、愛に溢れていましたわね。彼らはみな、微笑みながら死んでいった……」
養子が、うっとりとした声で語る。
「フム……確かに。理論だけは間違っていなかった。世界はある意味では、到達点に至っていたのだろうねぇ……」
褐色の女が、満足げに頷く。
彼らには、自分たちが何をしたのかという、当事者意識が一切なかった。
宇宙の法則たる死の引力すら、この異常な自己完結の前に立ち往生していた。
そして、彼らの対話は、さらに不可解な領域へと足を踏み入れた。
「ところで……あの少女のことは、心残りでしょう?」
養子がふと、声のトーンを落として言った。
「……不憫な子だったさ。誰にも理解されず、自ら命を絶つしかなかったなんてね。フフフ……あんなにも美しい心を持っていたのにねぇ」
褐色の女が、大仰に嘆いてみせた。
私、飛龍は、耳を疑った。
彼らは、数百万、数千万の命を無惨な死へと追いやった大量虐殺の引き金である。
そのことに一片の罪悪感すら抱いていない者たちが、なぜ、見ず知らずの一人の「自殺した少女」の死を、これほどまでに悼み、気遣っているのか?
彼らの論理構造は、どこから破綻し、どこで繋がっているのか?
目的と手段、動機と結果が、完全に解体されて、狂い咲いている。
だが、私の観察は、さらに悍ましい真実を捉えた。
褐色の女が、少女の死を悼む言葉を口にするたび、その魂の波長が異様な変容を見せていたのだ。
哀れみ?
同情?
悲しみ?
否!
それは、そんな上等なものではない!
女の言葉の裏側に張り付いていたのは、どうしようもなく濃厚で、粘着質な「欲情」であった!
誰も、気づいていなかった!
養子すらも、女の芝居がかった嘆きの奥にある本性に気づいてはいなかった。だが、宇宙のすべてを俯瞰する私の目は誤魔化せない。
女の言葉の端々に、少女の魂を束縛して、自分の思い通りに支配したいという、おぞましい「性欲」が、隠しきれずに滲み出していた!
可哀想な少女を庇護する己に酔い、そして、哀れな少女を意のままに愛玩する。
その歪んだ欲望を満たすために、彼女は少女の死すらも消費しようとしていた。
その時である!
関所で語り合っていた褐色肌の女が、不意に顔を上げた。
そして、次元の壁を隔てて彼女を観察していた私、飛龍と……完全に視線を交わさせた!
私には感情がない。
飛龍はただの現象である。
これまで、恐怖という概念を抱いたことはなく、生や死や愛や混沌といった、有機生命体のちっぽけな悩みによって己の在り方を揺るがすことなど、宇宙の法則への冒涜だと知っていた。
だが!
褐色肌の女は、死んだ少女を己の欲望のためにグルーミングしようとしている本性を私から見透かされたことに対し、恥じるどころか……逆上したのだ!
女の瞳の奥で、どす黒い愛という名の暴力が燃え上がった!
彼女は、視線だけで、私を突き刺した!
『邪魔するな。殺す。』
声なき声が、次元を超えて私を打ち据えた。
私、飛龍は、自慢ではないが、神に等しい存在である。星の意思の代行者であり、万物を覆う大気そのものである。
だが、このちっぽけな人間の女は、ただ己の歪んだ性欲を暴かれたというだけの理由で、神たる私を視線だけで恫喝したのだ。
その傲慢さ!
その自己中心的な、意志の強さ!
法則も、理も、神すらも、自らの欲望の前には平伏すべきだという、底なしの狂気。
おかしい無法者が、いる!
私は、恐怖した!
現象であるはずの飛龍が、未知なる恐怖という感情に粟立った。
「フフ……決めたよ。私はね、あの子を蘇らせる。そして、この世界も、あの子が生きるのにふさわしい箱庭として蘇らせてあげようじゃあ、ないか!」
女は、幽霊界の虚空に向かって高らかに豪語した。
私はさらに恐怖した!
一度滅びた星を蘇らせ、死者を黄泉還らせること。
それは、飛龍ですら、星の全エネルギーを使い果たしてなお完遂するのが難しいほどの、途方もない大業である。
だが!
この女は、己の性欲を満たすためだけに、愛玩動物を生き返らせるためだけに、それを「片手間」でやってのけると言い放ったのだ!
女はそれを「愛」と呼んだ!
この瞬間、私、飛龍は、人類の本質を、一つの真理として理解した!
愛とは、性欲である!
そして性欲とは、究極の暴力に他ならない!
他者のありのままを否定し、己の望む形に歪め、支配し、貪り尽くす。
その絶対的な暴力性こそが「愛」の正体なのだ。
なるほど、大量殺戮で滅んだこの星の惨状は、すべて彼らの言う「愛」ゆえに引き起こされたものだった。
なるほど、それは彼らにとって、紛れもない「正解」であったのだ。
愛が深ければ深いほど、世界は無惨に壊れていく。
私がその凄惨な真理に至った直後、褐色肌の女はいよいよ行動に移った。
彼女は「次元」に手を伸ばすと、そこに漂っていた私、飛龍の体の一部を掴み取り……引きちぎった!
「は……!?」
驚愕する暇もなかった!
女は、神たる私の力を泥棒のように盗み出したのだ。
そして彼女は、虚空から引きずり出した「自殺した少女」の魂に対し、さも自分がゼロから創り出したかのような顔をして、その力を与えた。
「受け取りたまえよ。もう、君が悩まなくてもいいように。」
女は、とろけるような甘い声で、耳障りのいい言葉を並べ立てる。
だが、それはただの盗品の譲渡である……。
自分の腹を痛めることもなく、ただ、神から奪い取った力で、少女を己の好みの形へと作り変えただけだ。
力を注ぎ込まれた少女の魂は、瞬く間に膨張し、肉体を再構築していく。
角が生え、翼が広がる。
少女は、飛龍の力を宿した「竜人」の姿へと変貌させられた。
女は、自らが作り上げた都合の良いペットの姿を見て、隠しきれない欲望に濡れた笑みを深めた。
私は、考えるのをやめた。
神の力を盗み、宇宙の理を冒涜し、己の性欲を愛と呼んで世界を弄ぶ女。
彼女の前にあっては、大いなる宇宙の法則など、ただの便利な道具でしかなかった。
女は、竜人となった少女の腕を引くと、生と死の一方通行であるはずの幽霊界の税関を、堂々と逆戻りし始めた。
それに呼応するように、宇宙が軋み、時間が逆流していく。
すべての破滅が、巻き戻されたフィルムのように再生され、やがて、世界は「破滅の前の平和な状態」へと再構築されてしまった……。
血と灰に覆われていた星は、再び青く美しい姿を取り戻した。
だが、そこはもはや以前の星ではない。褐色女の性欲と暴力によって形作られた、彼女と少女のためだけの、歪な箱庭に過ぎない。
大気圏の最上層に取り残された私、飛龍は、猛烈な困惑の中にいた。
通り魔の女から身体の一部を強盗された喪失感よりも、世界がこうも容易く一人の狂人によって反転させられてしまったという事実が、私の存在意義を根本から揺さぶっていた……。




