第3話:善意の撮影(2)
レイ・アクトにとって、この世界で唯一の「光」だった弟のカイトが、死んだ。
遺体が見つかったのは、裏通りのゴミ捨て場だった。
死因は、鈍器のようなもので頭部を執拗に殴打されたことによる脳挫傷。
カイトの傍らには、彼が大切にしていた、不自由な脚を支えるための松葉杖が、無残に折れ曲がって転がっていた。
「……カイト」
警察の安置所で、レイは弟の冷たくなった頬に触れた。
カイトの顔は、苦痛に歪んでいた。レイが今まで「慈悲」を与えてきた悪人たちが、周囲の善意に包まれて「幸せそうに」死んでいったのとは、あまりにも対照的な、剥き出しの暴力による死。
「犯人は、まだ捕まっていないのですか」
レイの声は、低く、地を這うような怒りに満ちていた。
対応した若い警官は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「現場周辺の監視カメラはすべて壊されていました。計画的な犯行の可能性が高い……。ですが、カイトさんのような心優しい少年がなぜ、こんな目に……」
警官の口から出た「心優しい」という言葉が、レイの逆鱗に触れた。
「優しいからこそ、殺されたんだ。この、腐りきった、自称・善人どもの世界で!」
レイは背を向け、安置所を後にした。
彼の目には、もはや悲しみはなかった。
あるのは、この世界に蔓延る「自分を正義だと思い込んでいる悪」を、根絶やしにするという狂気じみた決意だけだった。
一週間後。
レイは、王都の裏社会を牛耳る「博愛会」の幹部、ヴィクターを追っていた。
ヴィクターは「孤児たちの救済」を掲げながら、その実、孤児たちを運び屋として利用しているという噂の絶えない男だった。
「カイトを殺したのは、お前だな」
レイは、ヴィクターが高級クラブから出てくる瞬間を、向かいのビルの屋上から望遠レンズで捉えた。
ヴィクターは、集まった報道陣に対し、「亡くなったカイト君の遺族には、我が会から多額の義援金を送るつもりだ。悲しい事件だね」と、涙ぐみながら語っていた。
その偽善的な顔が、ファインダーの中で歪む。
カイトが死んだ夜、ヴィクターの車が現場付近で目撃されたという情報を、レイは独自に掴んでいた。
レイはシャッターボタンに指をかける。
「彼は、自らの慈愛の心に飲み込まれるべきだ。彼が助けてきたはずの者たちの『手』によって」
カシャッ。
翌朝、ヴィクターは凄惨な死体となって発見された。
彼は、自分が経営する孤児院の子供たちに、「ヴィクター様、いつも美味しい食事をありがとう。もっと、もっと食べてください」と、喉の奥まで大量のパンとスープを詰め込まれ、窒息死していた。
子供たちの顔には、狂気はなく、ただ純粋な「感謝」と「善意」だけが張り付いていた。
「……これで、カイトの仇は討てた」
レイは暗室で、ヴィクターの最期の写真を現像しながら呟いた。
だが、その時。ラジオから流れてきたニュースが、彼の思考を凍りつかせた。
『……速報です。カイトさん殺害事件で、警察は先ほど、真犯人と見られる二十代の男を別の窃盗事件で逮捕しました。男は容疑を認めており、「金目的で声をかけたが、抵抗されたのでカッとなってやった」と供述しています。なお、博愛会のヴィクター氏との接点は一切なく……』
「……え?」
レイの手から、ピンセットが滑り落ちた。
ヴィクターは、カイトを殺していなかった。
彼は「ただの偽善者」ではあったが、「カイトを殺した犯人」ではなかった。
レイは、自分の「正義」の名の下に、無実の男を、その特殊能力で処刑してしまったのだ。
「……はは、はははは!」
レイは暗室の中で、狂ったように笑い出した。
誤審。誤認。正義の執行者であるはずの自分が、取り返しのつかない間違いを犯した。
だが、その笑いはすぐに、より深い、暗黒の情熱へと変わっていった。
「いいさ。ヴィクターも、カイトを殺したあの男も、この世界を腐らせている『悪』であることに変わりはない。僕が間違えたんじゃない。世界が、正解を隠しているのが悪いんだ。ならば、片っ端から消してやる。自称・正義の味方も、偽善者も、すべて。僕がこのカメラで、真の平和を作り直してやる」
「……ヴィクターの死は、あまりにも異常だ」
王都警察の特別捜査本部。
ドイル捜査官は、壁一面に貼られた「善意の怪死事件」の写真を見つめていた。
ゴードン、バッカス、そしてヴィクター。
被害者たちの共通点は、世間的には「善人」として知られているが、裏では黒い噂が絶えない人物であること。
そして死因が、周囲の人間による「過剰な善意の行動」によるものであること。
「これは偶然じゃない。何らかの力が、彼らの運命を書き換えている」
ドイルは、現行の法体系では裁けない「何か」が動いていることを確信していた。
そして、彼はヴィクターの死の直前、現場近くでカメラを構えていた不審な影——「カメラマン」の存在を、監視カメラの死角を繋ぎ合わせることで、ようやく「一人の青年」という輪郭まで追い詰めていた。
ドイルは、賭けに出ることにした。
犯人を「焦らせる」ことで、自ら尻尾を出させるという賭けに。
その夜、王都の全チャンネルが、ドイルの緊急会見を中継した。
レイは、自宅の古びたテレビの前に座っていた。
画面の中には、鋭い眼光を放つドイルが映っている。
「王都の市民の皆さん、こんばんは。私は王都警察のドイルです」
ドイルはカメラを真っ直ぐに見据え、まるでテレビの前にいるレイ本人に語りかけているような口調で話し始めた。
「現在、王都では不可解な事件が続いています。被害者たちは、法で裁かれない悪人であったかもしれません。ですが、犯人——君に言いたい。君の行っていることは正義ではない。ただの幼稚な独り裁きだ」
レイはテレビのリモコンを強く握りしめた。
「幼稚……? 僕の『慈悲』を、幼稚だと……?」
「君は、自分が神にでもなったつもりか?自分の力が絶対だと信じているのか?だが、君は大きな間違いを犯した。ヴィクター氏のような無関係な男を、罪のない子供たちの手で殺させたんだ。……君こそが、今、この王都で最も醜悪な『悪』だ」
ドイルの言葉が、レイのプライドを切り裂く。
画面の中のドイルは、さらに挑発を続けた。
「君には、私を殺す力があるのだろう? ならば、今すぐやってみるがいい。私は今、王都放送局のスタジオにいる。生中継だ。君がどこにいようと、この画面を通して私を見ているはずだ。さあ、カメラマン。シャッターを切れ。君のその『安っぽい正義』を、私にぶつけてみろ!」
「……っ、この野郎……!」
レイは激昂し、傍らにあったカメラをひったくった。
レンズをテレビ画面に向ける。
ファインダーの中で、ドイルの不敵な笑みが拡大される。
レイは、ありったけの殺意を込めて、シャッターを切った。
「彼は……正義の重圧に押し潰されるべきだ! 自分が掲げる『法』の文字が物理的な凶器となり、彼の肉体を粉砕するがいい!」
カシャッ!
フラッシュの光が、暗い部屋を白く染めた。
運命が書き換えられる、あの独特の感覚。
レイは確信した。これでドイルは、スタジオのセットや、彼が信奉する法典の重みによって、跡形もなく消え去るだろう。
だが。
「……ん?」
テレビの中のドイルは、何一つ変わらず、平然と立っていた。
一秒。五秒。十秒。
何も起きない。
スタジオの天井が落ちてくることも、ドイルが苦しみ出すこともない。
「……どうした。何も起きないな。君のカメラは、電池切れか?」
ドイルが画面の中で、冷酷に笑った。
「残念だったな。君の能力の正体は、すでにある程度予測がついている。君の力は、カメラという『フィルター』を通した光学的・物理的な接触が必要なんだろう?だが、この画面に映っている私は、ただの電気信号、データの集合体に過ぎない。私の肉体はここにあるが、君が見ているのは私の『虚像』だ。モニターという壁は、君の『言霊』を通さない。……フィルター越しにしか世界を見られない臆病者には、私は殺せないんだよ。ははははは!」
「……な、なんだと……」
レイは、カメラを握る手が震えるのを感じた。
能力の限界。
自分の力が、メディアという皮膜を通した瞬間、無力化されるという致命的な弱点。
「カメラマン。君の名前はすでに把握している。
君の家も、君が今どこにいるかも、時間の問題だ。私は逃げない。このスタジオで、君が直接、私を撮りに来るのを待っている。……来い。正義と悪、どちらが本物か、決着をつけようじゃないか」
中継が切れた。
静まり返った部屋の中で、レイは茫然とテレビの砂嵐を見つめていた。
レイは立ち上がった。
弟の仇を討つという目的は、今やドイルという「自分こそが絶対的な正義であると信じている、最大の宿敵」を抹殺することへと変貌していた。
ドイルは知っているのだ。
「カメラマン」を追い詰めることが、さらなる死を生むかもしれないというリスクを承知の上で、彼は自分を餌にした。
その「自己犠牲的な正義」こそが、レイにとっては最も吐き気のする「悪」だった。
「待っていろ、ドイル。モニター越しじゃなくていい。お前のその高潔なツラを、真正面から撮影してやる。死ぬ瞬間に、お前がどれだけ無力で、自分の信じた正義がどれだけ人を不幸にしたか、その目に焼き付けてやる」
レイは暗室に入り、現像液を準備した。
これから撮る、ドイルの死に顔のための液だ。
一方、王都放送局。
中継を終えたドイルは、防弾チョッキを締め直し、拳銃を確認した。
彼の周りには、武装した特殊部隊が配備されている。
「来るか、ドイル捜査官」
「ああ。奴は必ず来る。自分のプライドを傷つけられたことを、何よりも許せない種類の人間だ」
ドイルは窓の外、霧に包まれた王都を見つめた。
今夜、この街の「正義」が塗り替えられる。
法を守るための暴力か、平和のための殺人か。
王都を揺るがす最大の戦いの幕が、今、静かに上がろうとしていた。
レイ・アクトは、愛用のカメラを鞄に詰め、嵐の夜へと踏み出した。




