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アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
●第7章:ヴェリタスの天秤1 痛みを知る者

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第2話:善意の撮影(1)

王都の片隅、錆びついた鉄扉の奥にある地下室。そこは赤い光に満たされていた。

レイ・アクトは、現像液に浸された一枚の印画紙をピンセットで揺らしていた。水面の下から、ゆっくりと像が浮かび上がってくる。


それは、かつての友人たち。

ケン、ショウ、そしてマリ。

五年前の卒業旅行、雪山で撮った最後の一枚だ。

写真の中の彼らは、眩しいほどの笑顔を浮かべている。だが、この直後、彼らを乗せたバスは崖下に転落した。


「……僕が、殺したんだな」


最近になって、彼はようやく気づいたのだ。

自分の手に握られた古いカメラが、ただの記録装置ではないことに。

それは、言葉を運命へと固定し、周囲の「善意」を暴走させる呪いの発動機だった。

あの時、レイはシャッターを切る瞬間に心から願ったのだ。


『みんなのこの笑顔が、永遠に失われませんように』……と。

救助隊が発見した時、彼らは氷点下の雪の中で、笑ったまま凍りついていたという。まるで、誰かが彼らの幸福を永遠に保存しようとしたかのように。


それだけではない。

十年前、火災で死んだ両親。レイは彼らを撮り、『二人がずっと一緒にいられますように』と呟いた。

焼け跡から見つかったのは、固く抱き合ったまま炭化した二つの遺体だった。引き剥がすことすら不可能なほど、彼らは「一緒」にされていた。


レイは暗室のライトを消した。暗闇の中、彼の手には父の遺品である重厚なカメラが握られている。

彼は、絶望の段階をとうに通り過ぎていた。

自分の力が「呪い」であるならば、それを「正義」として運用する。それが、無意識に愛する者たちを屠ってきた自分に課せる唯一の贖罪だと考えたからだ。


「カイト、入るよ」


扉が開き、弟のカイトが顔を出した。レイにとって、この世で唯一残された宝物。

カイトは少し脚が不自由だった。一年前、ひき逃げ事故に遭ったせいだ。犯人は王都の有力者で、「不注意だった」と謝罪会見で涙を流しながら、裏では巨額の口止め料を提示して罪を揉み消した男。


「兄さん、また暗室? 晩ごはん、できてるよ」


「すぐ行く。……カイト、あの男のことはもういいのか?」


「……うん。あの人は、街の慈善事業にたくさん寄付してるってニュースで言ってた。きっと、根はいい人なんだよ。僕のことだって、わざとじゃなかったんだ」


カイトの純粋な言葉が、レイの胸を抉る。

善人のふりをして、責任を取らず、慈悲深い仮面の下で他人を蹂躙する。

そういう「無責任な悪人」こそが、この世界を腐らせているのだ。

レイはカメラを鞄に詰め、静かに立ち上がった。


王都の中央広場には、大勢の群衆が集まっていた。

壇上に立っているのは、王都議会議員のゴードン。カイトの脚を奪い、それを金と涙で覆い隠した男だ。

彼は今、「貧困層への無償配給」を謳い、カメラのフラッシュを浴びながらパンを配っている。


「皆さん! 私は悲しいのです。この王都に、今日食べるものに困る人がいるという事実が、私の心を切り裂くのです!」


ゴードンはハンカチで目元を拭った。見事な演技だった。

周囲の人間は「なんて素晴らしい人だ」「彼こそ真の指導者だ」と口々に称賛している。

レイは群衆の隙間を縫うようにして、ゴードンの正面へと回り込んだ。

ファインダーを覗く。

レンズの向こう側で、ゴードンの偽りの笑顔が拡大される。

レイの指がシャッターボタンにかかる。

彼の唇が、静かに、だが明確な意志を持って呪文を紡いだ。


「彼は、人々に愛され、求められるべきだ。誰一人として、彼の手を離してはならない」


カシャッ。


乾いたシャッター音が響いた。

その瞬間、レイの視界の中で、世界の「糸」が書き換えられる感覚があった。

異変は、最前列にいた一人の老婆から始まった。

彼女はゴードンからパンを受け取ると、その手を握りしめ、感激に震えながら言った。


「ああ、ゴードン様……なんてお優しい。あなたを、離したくない。一生、私のそばにいてほしい」


「ははは、困りましたな。私は皆さんのものですから」


ゴードンは余裕の笑みで返したが、老婆の手は離れなかった。それどころか、隣の男も、その隣の女も、まるで磁石に吸い寄せられるようにゴードンへ詰め寄り始めた。


「そうだ、ゴードン様を独り占めにしてはいけない!」


「私たち全員で、彼を支えましょう!」


「彼を、私たちの心臓の一番近い場所に!」


群衆の目が、一様に濁り始めた。それは狂気ではない。彼らは至って真面目に、純粋な「善意」から行動していた。

愛する人を守りたい。素晴らしい人を逃したくない。

その純粋すぎる思いが、彼らのリミッターを外した。


「おい、何をする?……離せ!」


ゴードンの悲鳴が上がった。

だが、人々は微笑んでいる。


「大丈夫ですよ、ゴードン様。みんな、あなたを愛しているんです」


「寂しくないように、みんなでずっとくっついていましょうね」


一人が彼の右腕を抱きしめる。もう一人が左足を。さらに三人が胴体にしがみつく。

「離してはならない」というレイの言葉が、強制力を持って彼らの運命を縛っていた。

ガードマンたちが止めに入ろうとしたが、彼らもまた「善意」に汚染された。


「そうだ、我々も彼を守らなければ。もっと近くで、密接に!」


もみくちゃにされるゴードンの姿は、もはや人間の形を留めていなかった。

数百人の人間が、一人の男を「愛する」ために、折り重なり、押し寄せ、圧殺していく。

温かい言葉の合唱の中で、ゴードンの肋骨が折れ、肺が潰れる音がレイの耳に届いた。

数分後。

広場の中央には、奇怪な人間の山ができていた。

その中心で、ゴードンは満足に呼吸もできず、愛という名の物理的な圧力によって、肉の塊へと変えられていた。

人々は、事切れたゴードンの肉片を後生大事に抱きしめ、幸せそうに涙を流していた。


「……ありえん。こんな事件、どう立件しろというんだ」


王都警察のベテラン捜査官、ドイルは凄惨な現場を前にして頭を抱えていた。

加害者は、その場にいた市民全員だ。

だが、彼らに殺意はなかった。取り調べをしても、返ってくるのは一様に「彼を愛していたから」「幸せにしたかったから」という、純粋無垢な供述ばかりだ。


「凶器もなし。毒物もなし。あるのは、異常なまでの親愛の情だけだ」


ドイルは、現場の端で静かにカメラを構えていた一人の青年を思い出した。

事件の直前、確かに彼はそこにいた。だが、彼が何をしたわけでもない。ただ、写真を撮っていただけだ。

一方、自宅に戻ったレイは、現像タンクの中で新しい写真を洗っていた。

浮かび上がったのは、肉の山の中で押し潰されたゴードンの、恐怖に満ちた最期の顔だ。


「兄さん、ニュース見たよ。ゴードンさんが亡くなったって……」


カイトが不安そうに部屋に入ってくる。

レイは弟の方を向き、優しく微笑んだ。


「ああ。みんなに愛されて、幸せな最期だったみたいだよ」


「……そうなのかな。でも、あんなにたくさんの人に囲まれて死ぬなんて、ちょっと怖いよ」


「怖くないさ。あれが、彼にふさわしい『報い』だったんだ」


レイはカイトの頭を撫でた。

その手は、かつて友人たちを凍りつかせた時と同じ、静かな冷たさを帯びていた。


レイ・アクトの戦いは始まったばかりだった。

王都には、まだまだ「無責任な善人」が溢れている。

自分の保身のために、部下に責任を押し付けながら「君の成長のためだ」と微笑む上司。

不衛生な環境で子供たちを働かせながら「社会勉強の場を提供している」と説く篤志家。

不倫を隠しながら「家族を愛している」と公言する聖職者。

レイは、カメラのレンズを通して彼らを「視る」。

彼らにふさわしい、最高の「幸せ」をデザインするために。


次に彼が狙いを定めたのは、王都の医療ギルドの長、バッカスだった。

彼は高価な薬を独占し、貧民には「祈れば治る」と説き、自分を神の代弁者だと思い込んでいる男だ。

レイはバッカスの病院の前で、彼が馬車から降りる瞬間を待った。

バッカスは、病に苦しむ人々を慈愛に満ちた目で見つめ、こう宣言した。


「安心しなさい。神は、耐えられない試練は与えません。皆さんの苦しみは、天国への階段なのです」


レイは静かにシャッターを切った。

呟いた言葉は、こうだ。


「彼は、自ら説いた通り、神のそばへ行くべきだ。誰よりも早く、最も崇高な方法で」


カシャッ。


翌朝、バッカスの部屋を訪れた従者は、奇跡を目撃した。

バッカスは、ベッドの上で祈りのポーズを取ったまま、浮いていた。

いや、浮いているのではない。

部屋中に飾られた神の像から伸びた「後光」が、まるで彼を天へ引き上げようとする意志を持っているかのように、彼の皮膚を貫き、天井から吊り下げていたのだ。


「ああ……バッカス様は、神に召されたのだ!」


従者は恐怖ではなく、法悦に震えて跪いた。

バッカスの顔は、苦痛に歪んでいたが、その口元は周囲の「善意の魔力」によって、強制的に微笑みの形に固定されていた。

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