9.やっとわかった
真っ暗な世界だった。
上下もなく、風も音もない世界。
その中で泣き声だけが、微かに響いていた。
それは、子どもがひとりで泣いているような、胸をざわつかせる泣き声。
足を一歩踏み出すたび、暗闇が波のように揺れる。
ふらりと声の方へ歩くと、靄がゆっくり晴れていく。
——ポッ
柔らかい光が灯った。
その中心に、小さな影が座り込んでいた。
膝を抱え、肩を震わせ、声を殺して泣いている。
(……あれは)
近づくほどに胸がきゅうっと痛む。
細い肩。
震える背中。
あの、芯まで疲れたような泣き方。
どうしても忘れられなかった、あの子の泣き方だ。
(そんな……)
影が、顔をあげた。
涙で濡れた目が、私を捉える。
「……ママ……?」
その一言で、世界が止まった。
あの日、玄関で見た思い詰めた顔で“泣きながら背を向けた娘”ではない。
もっと幼く、もっと弱く、もっと寂しそうな目。
私は喉の奥がぎゅっと詰まって声が出なかった。
けれど、私は娘に謝らなければ…。
そっと一歩近づく。
娘はびくっと肩を震わせ、一歩下がる。
それは拒絶ではなかった。
そして怒りでもなかった。
それは、「信じたいけれど、信じられない」
そんな目だった。
「……なん…で……?」
娘が搾り出すように言う。
「なんで…ここに…いるの……?ママ……もう、死んだんでしょ……?」
胸がきしむ。
あぁ……そうだ。
私はこの子を置いて死んだんだ。
私はゆっくり膝をついた。
娘の目線と同じ高さに。
そして静かに言った。
「……ごめんね……」
娘の瞳が揺れる。
「……え……?」
「ごめんね…あなたの苦しみを、何ひとつ聞いてあげられなかった…」
視界がにじむ。
「あんなに、やめて、もう無理ってあなたは訴えていたのに…全部…私は見ないふりをしていたわ。…あなたのためって言葉であなたを縛っていた…」
「あなたの望むこと、何もわかってあげられなくて…ずっと私の正しさを押し付けていた…」
娘はぎゅっと手を握りしめた。
「…ママの目がずっと怖かったの…期待を裏切ることが…ガッカリした顔をさせることが怖かった…」
その言葉に胸が張り裂けそうになる。
私は首を振った。
「…やっとわかったの…あんなの愛じゃなかった…。間違った形で、私の思いを押し付けていただけだったって…」
娘の目が、不安と混乱で揺れる。
「……なんで」
「どうしても…あなたに謝りたかった…」
私は震える息を吸う。
「あなたの幸せを……願いたかったの」
娘は目を丸くし、そのままぽたりと涙を落とした。
「……でも……わたしなんか…しあわせになれるわけ……ない…」
その言葉は、自分を切りつける刃のようだった。
私はそっと手を差し出す。触れようとはせず、ただ置くように。
「あなたは絶対幸せになれるわ」
娘の肩が小さく揺れる。
「あなたは……幸せになっていい子なの。あなたが、自分をどう思っても……わたしは信じてるの」
涙があふれた。
「……ねぇ……もし…わたしのことを思い出すと苦しくなるなら……」
娘が顔をあげる。
「……忘れていいの。難しいきもしれない。でも、ママの事なんて捨てて良いの。ママ影のに縛られないで……」
娘の表情が大きく揺れた。
「……なんで……そんなこと……言うの……?」
「あなたが自由でいられるなら…あなたが笑っていてくれるなら…それが…幸せだから…」
娘の唇が震える。
「……ママ……じゃあ……わたしは……どうしたら……」
私は微笑んだ。
涙でにじむ視界の中、娘の顔がこんなにも幼く、こんなにも愛しかったことに気づく。
「あなたの幸せだけを祈るわ。どんな時も、あなたは幸せになれる。私はそう信じてる…祈ってる。」
娘は息を吸い、震える唇をそっと結んだ。
そして…
「……うん……」
小さく、でも確かに頷いた。
それは許しじゃない。
忘却でも甘えでもない。
“これから自分の人生を歩くための、静かな肯定”。
私はそっと娘を抱きしめた。
戸惑いながら、少し遅れて娘の小さな手が、ぎゅっと私を抱き返す。
その瞬間、涙が止まらなかった。
「……ありがとう……」
「……うん……」
光がゆっくり強くなり、世界が白く溶けていく。
娘の姿も、声も、温もりも、少しずつ、光に飲まれていく。
でも、娘の最後の表情は、
前の世界では一度も見たことのない、
とても、とても穏やかな笑顔だった。




