2.わたしの名前はニア
……あたたかい。
背中に感じる柔らかな布。
鼻先をくすぐるお日さまの匂い。
雨の冷たさも、濡れた玄関の石の感触も、もうどこにもなかった。
まぶたの裏が、ほんのりと明るい。
(……ここは…?)
ゆっくりと目を開けると、見知らぬ木の天井が広がっていた。
木目の暖かな節目が目にやさしい。
シミも汚れもなく綺麗。
その清潔さが、逆に夢のように思える。
視界に影が差した。
顔をのぞきこむ女性の輪郭がぼやけて見えた。
「……あぁ、起きたのね。本当に可愛いわ…」
涙で濡れた頬を、震える指がそっとなぞる。
抱きしめている腕はぎこちなくて、でも限りなくやさしい。
私は息を呑んだ。
(…私…赤ちゃんになったの…?)
身体はまるで自分じゃないみたい。
手足はあまりにも短く、思うようにも動かない。
視界もぼんやりしている。
状況を理解しようとしても、うまくいかない。
ただ一つだけ……胸の奥にじんわりと広がる温かさだけは、はっきりしていた。
女性はそっと私の頬に触れ、祈るように目を閉じた。
「……無事に生まれてきてくれて、ありがとう。
本当に…ありがとう…私の、天使……」
その言葉に、不思議なほど胸がふるえた。
“生まれてきてくれてありがとう”
そんなふうに言われた記憶なんて…前の世界では、一度もなかったかもしれない。
胸の奥がちくり、と痛む。
(……どうして……?どうしてこんなことで……泣きそうになるの……?)
女性はそっと微笑み、布に包まれた私の身体を揺らしながら言った。
「あなたの名前は……ニア。これからたくさん名前を呼ばせてね。ニア…可愛いニア……」
(……ニア。)
その響きが、冷たい空洞のようだった胸の奥に、ふっと落ちていく。
そして、深いところで暖かな何かが灯った。
名前——。
前の世界で、私は…誰かに名前を呼ばれていただろうか?
(……ママ……ママ、ママ、ママとしか呼ばれていなかったかもしれない…)
娘の泣きはらした顔が脳裏に焼きついて離れない。
『ママとはもう関わりたくない……』
『ママといると壊れそうになるの……』
あの声の震え。
あの痛み。
あの小さな背中が遠ざかっていく瞬間——。
(……どうして……どうしてあんな……)
胸が苦しくなり、涙がにじむ。
だがその時、女性がもう一度、そっと私の額にキスを落とした。
「ニア、大丈夫よ。あなたは、あなたのままでいいの。私が守るからね…」
それは、小さな言葉だった。
けれど、その小さな言葉ひとつで、
前の世界では一度も感じられなかった“安心”が胸に広がった。
(…私…新しく生まれ変わった…名前…わたしはニア…)
ママではなく、役割でもなく。
ニアという、私だけの名前。
こんなたった一言で心が温まるものなのだろうか?
(…ニア…わたしの名前はニア…)
小さな身体が勝手に震えた。
かすかに動いた手に、女性は嬉しそうに微笑む。
「あら、動いたわ、本当にかわいい…」
その喜びが、まるで自分の価値をまるごと肯定されたようで…涙がひとつ、頬を伝って落ちた。
(……どうして……こんな…こんなにも……あったかいの……?)
生まれなおした世界は、
あまりに優しくて、
あまりに静かで、
あまりに眩しかった。
——私は、もう一度やり直すのだろうか。
この小さな手で。
“ニア”として。
その答えはまだわからない。
でも今はただ、与えられた温もりに身をゆだねるしかなかった。
それは信じられないほど柔らかで心地良かった。
女性が、耳元でやさしくささやく。
「……おやすみ、ニア。あなたは私の宝物よ……」
私はその声に包まれながら、
静かにまぶたを閉じた。




