第7話:名前を忘れた聖女と、記憶を繋ぐ少年
──山道の廃教会──
「……あなたは、誰……?」
その言葉は、胸に深く突き刺さった。
でも僕は、表情を崩さずに笑った。
「僕は、君の旅の同行者……いや、今から“はじめまして”でいいよ。名前はカイン。カイン=アレスト」
「……カイン」
彼女がその名を、確かめるように口にする。
その声に、どこか懐かしさが滲んでいた気がして──
それだけで、少しだけ救われた気がした。
教会の片隅には、僕が彼女の記憶を記録していたノートがある。
彼女が忘れないように、毎日こっそりと綴っていた、「僕とエリスの記録帳」。
でも今、それを見せるつもりはなかった。
それは、“彼女自身の選択”を奪う気がしたから。
「ここにしばらく隠れよう。魔力も回復してないし、騎士団の目もある」
「……うん。ありがとう、カイン」
そう言って微笑んだエリスの顔に、初対面のはずの温かさがあった。
彼女の記憶は失われたはずなのに――なぜか、心は覚えているような目をしていた。
僕は教会の奥に、ある魔導陣の設計図を広げていた。
名前は《記憶定着式・エンブレイン》。
対象の記憶を一定周期で魔力記録として脳に焼き付ける儀式術式。
本来は学術用だが、少し改良すれば、エリスのように“時間干渉によって消える記憶”を保護できるかもしれない。
(ただし……術式の定着には、条件が必要だ)
一つは、“記憶に強く残る感情の引き金”。
もう一つは、“対象本人の自発的な記憶定着への願い”。
つまり――彼女が「この記憶だけは忘れたくない」と願う、強い感情が必要なのだ。
翌日。
僕とエリスは、周囲の村に食料を買いに行くことになった。
彼女は僕に手を引かれながら、少し不安げに辺りを見回している。
「……私、こんなに何も知らないの、初めてかも。今の私は“何者”なの?」
「君は、“優しさそのもの”だよ」
思わず本音が漏れる。
彼女はきょとんとした顔で、少しだけ顔を赤らめた。
「……変なこと言うんだね、カインって」
「よく言われるよ」
その後、村の広場で子供が泣いているのを見たエリスは、迷いなく駆け寄って傷を癒していた。
誰に教えられたでもなく、自然と。
その姿は、まぎれもなく“聖女”だった。
(記憶を失っても、彼女は変わらない)
でも、だからこそ、守らなきゃいけない。
このまま、彼女が記憶を失い続けたら、いつか……“自分が誰なのか”さえも失う。
その夜、教会の礼拝堂で、僕はそっと術式の発動を試みた。
「エリス。君に……一つだけお願いがあるんだ」
「なに?」
「僕の名前。“カイン”って名前だけは、……どうか、忘れたくないって、願ってくれないか?」
「……どうして?」
「理由は……きっと、君の心が知ってる。僕じゃなくて、君自身が」
エリスは、少しだけ迷って、でも優しく微笑んだ。
「わかった。“カイン”は……なんか、忘れちゃいけない気がする。だから、忘れたくない。ちゃんと……覚えてるって、願うよ」
その瞬間、魔導陣が淡く光を放ち、静かに彼女の胸に定着する。
(成功した……!)
これで――少なくとも、この“名前”だけは、彼女の中に残る。
それが、僕にとっての、たった一つの“救い”だった。
──だがその夜、別の場所では。
王都の拷問塔に捕らえられた“ある男”が、ついに口を開いていた。
「……“聖女の力”は、止まらない。だが、“記憶の器”が壊れたとき、聖女は“世界を巻き戻し続ける呪い”になる」
「なんだと?」
「“記憶の限界”が来たとき……彼女は、永遠に過去を繰り返す、“壊れた神”になる。世界ごと、な──」
その声が消えた瞬間、拷問塔は謎の魔力爆発で崩壊した。
──そして、誰も知らないうちに。
彼女の“記憶の容量”は、限界に近づき始めていた。