嘘、自分勝手、願い
「イツキ」
京子さんが両手に一つずつカップを持ってやってきた。一つを僕に手渡し、僕の隣に腰を下ろす。プラスチックの中で氷と澄んだ緑が揺れた。緑茶だろうか。
「……すみません」
「いいって」
京子さんの声はいつも通り明るく乾いていた。僕はさらにうつむいて、もう一度謝る。
あまりに情けなくて、申し訳なくて、まともに顔が見られなかった。視線だけを逃がして空を見上げる。
妙に艶めかしい夏の夜が町を覆っていた。いつの間にか残照は古びたビルの向こうに消えて、街灯や店の明かりに照らされて濁った空には星一つ浮かんでいない。セミの合唱も止んでいた。ただ、遠い海の波音みたいな笑い声だけが時折はじけている。
僕たちは駅前ロータリーの隅っこにある、誰からも忘れ去られた木のベンチに座り込んでいた。ポストやら掲示板やらの陰に隠れて、足早に駅へ向かう人たちから僕は見えない。京子さんが気を使ってくれたのだ。
結局、僕の最寄り駅で降りた。駅のトイレで三回吐き、最後には胃も空っぽになって、ひくひくと痙攣するだけになった。涙も枯れた。もうみんな空っぽだ。何も残ってない。
肺の裏側を冷たい手で引っかかれるような鈍い痛み。あれだけ勢い込んでいた数十分前が嘘のように、どこかに虚ろな穴があいている。言葉も喉の奥にはりついて出てこなかった。京子さんは何も言わない。
沈黙のあとで、静かな声が降ってきた。
「イツキの言葉に嘘がなかったことはわかってる」
強靭なワイヤーみたいな優しさだった。痛いほど皮膚に食い込んで顔を上げられない。
「あんまり長い付き合いじゃないけど。フランがなんだかんだ言いながら、イツキに頼ってたことも、知ってる」
ようやく言う事を聞いた首を、かすかに振る。頼られてなんかない。僕にできたのは僅かな家事だけ。迷惑は数え切れないほどかけたけれど。
「だからこそ手を引いて欲しかった」
フランも私も、もしかしたら茜崎も、ね――。
熱を持ったアスファルトに、水底で聴くような輪郭のぼやけた言葉が落ちる。僕はやっぱり何も言えなかった。
言葉にも思いにも――決意にも、嘘は一つもなかった。ただ、何も知らなかった。甘かったのだ。何もかもが。脳裏にこびりついた絶叫が、血混じりの涙が、何度目かわからないリピートをはじめる。胃から突き上げてきた何かを必死で押さえ込む。
ふいに京子さんの口調からやわらかさが消えた。冷たい事務的な口調に、かえって安心してしまう。
「イツキが彼女に見せた反応は、生物としては至極正しい。怖いものは怖い。恐怖は最も身近で精度のいい、危険を知らせるためのレーダーだ。恐怖を感じられなければ生き残れない」
何を言っているのか分からなくて、のろのろと顔を上げた。馬鹿みたいな浮かれた笑い声が、忘れられたベンチのすぐそばで跳ね回る。京子さんは手元のカップをじっと見つめていた。口元はうっすらと歪んでいるけれど、笑っているようには見えなかった。
「人間はすごく弱くて、信じられないくらいに怖がりだから、いろいろなものに恐怖を感じる。自分が理解できないものとか、害意を持っていそうなものとか。だから、あのときのイツキの反応は当たり前。何に対しても申し訳なく思う必要はない」
「……そんな」
自分ですら掠れて聞き取れない声が、奇妙に生臭い夜風に運ばれていった。そんな、なんだ? そんなこと言われたってどうしようもない、っていうのか。胸の中で自分を笑い飛ばそうとしたけれど、うまくいかない。
その代わり、外国車のクラクションが下品な叫び声を上げて僕を嘲笑う。どうしようもなく卑怯な僕は、その残響に隠れて、幾分大きな声を出した。
「そんなわけありません」
話をきいて、頼りない高校生を引っ張って、ここまで支えてくれる京子さんに。
先だって警告してくれたフランに。
何より、電車の中で泣いていた『彼女』に。
「何回謝っても足りません」
微かな溜息が聞こえた。あるいは、あたたかく湿った夜風だったのかも知れない。
「さらに言うなら」
氷がぶつかりあって音を立てた。一口も飲まないままぬるくなっていくお茶を流し込んでみても、なんの味もしなければ、冷たさも感じなかった。それでも喉のひりつきがいくらかマシになる。あらためて京子さんに心の底から感謝した。
とめどなく涙を流し続ける容器を白い両手で包んで、京子さんは僕を見た。黒曜石みたいになめらかに光を弾く瞳が、まっすぐ射抜くように見据えてくる。僕は息を吸おうとして何度か失敗する。
「フランから、正気を失った幽霊についてどれくらい話を聞いた」
「ほとんど、何も聞いてないです」
「そうか」
一瞬、迷うように視線を斜め下に向けてから、言葉を紡ぐ。
「知りたいか」
すぐには答えられなかった。唇をかんで黙り込む僕を、京子さんは急かしもせずに黙って見守ってくれている。
「……教えてください。お願いします」
僕が悩んでいるあいだに、どれくらいたったのだろう。いつの間にか騒々しい笑い声は遠ざかって、雨音のような人々の足音もほとんど聞こえなくなっていた。
「いいのか」
頷く。痺れが顎から首筋へと伝った。
「気持ちにも、決意にも、嘘はないんです」
こぼれ落ちていくのは、最低な、けれど紛れもない本音だった。
「僕は、見えるのに何もできないのが嫌で……泣いて目がパンパンに腫れていたり、空っぽな表情で座り込んだりしている幽霊を見るのが嫌で……。結局、自分のためなんです。彼らのためにやるんじゃない。何かができるんだ、ということも知らなかったときは、ほとんどの場合無視していました。……周りの人に変な奴だって思われるのも、同じくらい嫌だったんです。今、フランに解雇されたら、僕は以前に逆戻りしてしまう。彼らにまた手が届かなくなってしまう」
ドロドロした言葉が自分の膝に落ちて、べしゃりと音を立てる。それでも吐き出さずにはいられなかった。
「それだけじゃない。フランがどれだけ悩んでいるか、どれだけ真剣に彼らのことを考えているかも間近で見てきました。この上フランまで放り出すことはしたくないんです。辛くたっていい。怖くてもいい。危なくたって関係ない。ただ、雨よけくらいになれたら」
大きく息を吸う。しゃくりあげるみたいな音を立てる喉から絞り出すようにして、言葉を吐き出す。
「少しだけ手伝えたら――少しだけ支えになれたら。フランのそばにいられたら。……それほど幸せなことはないんです」
吐き気がするほど利己的だ。全部全部自分のため。下手な誤魔化しは通用しないし、何より誤魔化したくない。最低だという自覚くらいある。
「……そうか」
だから、京子さんの声に明らかな笑いが含まれているのに気づいて、僕は唖然と彼女を見た。そうしている間にも彼女の肩の震えは大きくなり、しまいには電車の走行音にも負けないんじゃないかと思えるような大声で笑いだす。
京子さんの変化についていけない僕は、相当間抜けな面を晒していたんだろう。ちらりと僕の顔を見てツボにはまった京子さんの笑いがおさまるまで、たっぷり十分近くはあったと思う。
ようやく笑いをおさめた京子さんが、目尻の涙を拭いながら僕に言う。
「お前ね、そういうのは……」
また笑い出す始末である。もうどうしたらいいのかわからないので、しばらく放っておいた。周りを気にする余裕は全くなかった。
「何を真剣な顔で悩んでいるかと思ったら」
真顔に戻った京子さんが、帯の間からすらりと扇子を抜いた。艶のある柄が街灯のぼんやりとした明かりをはじく。
「いいんじゃないか、それでも。それを言ったらどんな立派な志だって、ほとんどは自分のためじゃないか。イツキは幽霊に対して何もできないことが辛いと思っている。だから幽霊と繋がる手段が欲しい。そのためにフランと仕事をする。それで幽霊はあの世に行ける。もう泣かなくていい。困惑と不安と寂しさの中で立ち尽くす必要もない」
自分の道を確かに歩む人の、力強い声。僕の背中を張り飛ばし、顔を上げさせ、走り出させる。
「いいじゃないか。イツキが幽霊を大切に思っていることは伝わる。イツキはちゃんと幽霊のことを考えてる。自分勝手な願いなんかじゃないと、私は思う」
そう、晴れやかに言い切ってしまった。僕は何も言えずに固まってしまう。
「教えるよ。全部。きっと大丈夫」
一つ一つ、そっと響きを確かめるようにしてそらに放たれた言葉を、僕は忘れられない。
京子さんはぽんと手のひらを扇子で叩き、いたずらっぽい目をして僕を覗き込んだ。こんな仕草をすると、彼女は一気に子供っぽく見える。
「後半のセリフは、フランに直接、な」
わからないなりに頷くと、満足そうな表情で「若いってのはいいねえ」と呟く。ますます意味はわからなかったけれど、いつしか体にまとわりついていた重石はほぐれ、消えていた。
「ありがとう、ございました」
「ん」
お礼も、何度言っても言い足りない。
フランに何と言われるかは分からない。拒絶されるかもしれない。いや、むしろ、その可能性の方がよほど高い。それでも――
「教えてください」
深く深く頭を下げる。どこかで、やわらかで中性的な懐かしい声が聞こえた気がした。