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想い、決意、夢物語

 最寄りの駅に着くころには雨は完全に止んでいた。夏の雨上がり独特の、生ぬるくて青臭い風が、乾ききらない髪をすくい上げていく。僕は焦りのままに改札を駆け抜けて、ちょうどホームに到着した電車に滑り込んだ。

 車内は奇妙なほど静かだった。走行音や蝉の声さえも息をひそめている。僕の立てる足音だけがひどく異質で、耳障りだ。

 時間帯のせいか、それとも夕立のせいか、乗客は僕以外に一人しかいなかった。

 薄い黄色のカーディガンに白いブラウスの若い女性。着ているものは全て泥水にひたしたように濡れて、元の色が判別しにくいくらい不自然に汚れている。うつむいた顔はぐっしょりと濡れた髪に隠れて見えない。細い肩はぴくりとも動かなかった。僕は目をそらす。

 ああ、彼女は――。

 今は彼女に関わるだけの余裕がない。今の僕では何もできない。思わず唇をかみしめると、うっすらと海の名残の味がした。

 たった二駅の距離がひどくもどかしい。どうしても落ち着かなくて、窓の外を見たり、意味もなく何度も時計を見たりを繰り返してしまう。一瞬ではるか後ろへと押し流されていく窓の外は、何もかもが冗談みたいなオレンジで染まっていた。今この瞬間に世界が終ってしまいそうな、そんな光景。

 焦りが不意に身をよじるようにして燃え上がった。早く。一分でも一秒でも早く。鈴原さんの依頼に、フランに、姿と声はいつだってそばにいる隣人に、僕の手が届くうちに。

「――ご乗車ありがとうございました。これより列車は十分間停車し――」

 開いていく扉に体をねじ込むようにして電車を飛び出し、階段を駆け上がって改札へ走る。駅に向かいながら連絡を取って、京子さんは改札前で待っていてくれることになっていた。もはや懇願に近い焦りの濁流の中に、ぽつん、と思いがあぶくのように浮かんでくる。

 僕は、『何もできない』ことが嫌なだけなのだ。自分の無力なんて噛み締めたくはないし、誰にも気づかれずに苦しみ続ける人をただ見ていたくない。そんな自分勝手な理由でがむしゃらに伸ばした手が、いつか誰かの支えになったら。小さくて凛として、ちょっぴり怖くてちょっぴり優しい、『死繋執行人』の風除けくらいには役に立てたら。

 しみこんだ雨水で重くなったスニーカーが、階段の最後の一段を思いっきり蹴る。心の中で、黒いゴシックロリータと白い髪に包まれた小さな背中に呼びかける。

 たとえどれだけ危なくても、どれだけ自分がすり減っても――これほど幸せなことはないんだよ。

「京子さん!」

 改札の向こうから見慣れた和服姿の女性が足早に近づいてきた。黒い着物を着こなした、長身の京美人だ。アップに結われた髪が一筋、頬にはりついている。

「イツキ」

 改札を抜けようとする僕をジェスチャーで押しとどめて、なぜか自分が改札を通る。その表情がいつになく厳しい。油断なく周囲に目を向けながら、一直線に歩いて行くのは僕が乗ってきた電車のホームだ。

「あの、どこへ」

 答えは無い。僕は漠然とした不安を抱えて後に続く。

 ほとんど走るようにして僕らが飛び込んだのは、まさに僕が乗ってきた――ずぶ濡れの『彼女』がいるはずの車両だった。

 妙に間の抜けたアナウンスが流れ、ドアが閉まる。電車は終点であるこの駅から折り返して運転するらしい。僕ら以外の人間がいない鉄の箱の中に、やっぱり『彼女』は座っていた。

 


 京子さんの全身に力が入ったのが、横に立っている僕にも分かった。ひたりと『彼女』に視線を合わせて、無造作に歩み寄っていく。よく分からないまま僕も続いた。ただ、京子さんがここまで警戒する『彼女』が怖い。

 小さく三歩ほどの距離を残して、京子さんは足を止める。すっと伸ばした左手が僕の体の前にあった。これ以上近寄るな、ということだろうか。右手は帯にはさんだ扇子に添えられている。居合いの達人のように一部の隙もない姿勢だった。『彼女』はやはり全く動かない。

 僕の中に、初めて違和感が湧き出した。何かが――説明はできないけれど、何かがおかしい。うなじの毛がぴりぴりするというか、ぞわぞわと逆立つみたいな感覚。

 足がすくむ。動かない。でもここから逃げ出したい。鬱陶しい人いきれが今は恋しい。

 誰も動かない。冷房の効きすぎた車内が寒かった。むき出しの腕や首筋には鳥肌が立っている。

 やがてどれくらいの時間が経ったのか分からなくなり、ゆうに二、三十分は経ったんじゃないかと感じられるようになったころ、列車が何かを踏んだのか、ふいに小さく跳ねた。

 それが合図だったかのように、京子さんが口を開く。

「こんにちは」

 『彼女』は何も言わない。

「今日は暑いですね」

「……」

「どこへ行かれるんですか」

「……」

 質問だけが機械的に繰り返される虚しい問答。

 京子さんは相手が答えなくても、一定の間隔を保って質問を続けた。揺れる車内で一切体勢を崩さずに淡々と話し続ける。

 相変わらず身じろぎ一つしない『彼女』が、僕はひどく恐ろしくなってきた。違和感はすでに確信に変わっている。彼女は明らかに僕が今まで出会ってきた幽霊たちとは違う。何かが、根源的な何かが決定的に違う。冷や汗がこめかみを伝って鎖骨に落ちた。

 一つ駅を過ぎる頃、京子さんがふいに扇子を掴んだ。まるで何かを覚悟するように一度目を閉じ、開けて、僕をさらに一歩下がらせる。

 京子さんを取り巻く空気さえもが表情を変えた。

 音もなく扇子の先を『彼女』に向けて構え、囁くように、低く問う。

「――痛かったですか」

 『彼女』ががばっと顔をあげた。思わず僕の肩が跳ね上がってしまう。悲鳴を上げそうになる口を必死で抑え込む。

 顔は一部しか見えなかったけれど、こちらを凝視しているのははっきり分かった。ぎらついて充血した両目が鳥のようにまんまるに見開かれている。

「痛かったですか?」

「……ア……」

 『彼女』が声を発した。掠れてか細く、洞窟から吐き出される風のようにどんよりと重い。

 京子さんがたたみ掛けるように問う。何もかもを呑み込んだように黒い扇子の先は、白刃の切先を思わせて『彼女』の眉間に突きつけられていた。

「痛かったですか? 怖かったですか? 悔しかったですか?」

「……ゥあ……いダァイ……」

 『彼女』を覆っていた沈黙が剥がれ、宙へ突っ張るように腕が伸ばされる。細かく痙攣する手足はやはり泥水の色だった。

 『彼女』は京子さんに触れられない。傷つけることはできない。そう分かっていてもなお、背筋を冷たい汚泥がつたっていくような気味悪い悪寒が這い上がってくる。

「寂しかったですか? 怖くて怖くて押しつぶされそうでしたか?」

 どこか昆虫じみたぎこちない動作で、京子さんへと手を伸ばす。京子さんを傷つけるつもりなのは明らかだった。簾のように顔を隠す髪の間から場違いに真っ白い歯が数本のぞいている。口を、裂けてしまいそうなくらい大きくあけているのだ。

 京子さんは動かなかった。座席に乗ったままの『彼女』の腰がありえない角度で曲がっている。もう後ずさることさえできなかった。

「……ァああ」

「――自ら死んだことを後悔しましたか?」

 罪人に楔を打ち込むがごとく、京子さんが告げる。――瞬間、「コエ」が爆発した。

「アあああァアあいだあああああいイィイいい」

 むちゃくちゃな方向に曲がった腕が振り回すようにして突き出された。

 膝が砕けるのを堪えきれなかった。容赦なく床に叩きつけられた膝が痛んだけれど、それすら意識まで登ってはこなかった。

 せめて、『彼女』の容姿が化け物そのものであったなら。

 せめて、『彼女』の言葉が全く聞き取れなかったなら。

 せめて、『彼女』が涙なんて流さなかったなら。

「そんな……」


 半ば正気を失いかけた『彼女』を、ただのバケモノとして怖れることができたのに。


 同時に悟る。フランが僕を遠ざけ、今僕が足を踏み入れようとしているのは、こういう世界なんだ。

 涙が勝手に溢れだす。

 この世界はあまりにも正常だ。バケモノだって宇宙人だってスーパーヒーローだっていやしない。夢物語に逃げることなんてできない。どれほど恐ろしくても――彼らは僕らと同じ、ただの人間なんだ。

 自らの目を抉る寸前で止められた指を払うことすらせずに、京子さんは静かに告げた。

「もう、ここにはいたくないでしょう」

 京子さんの言葉に、『彼女』は首が取れてしまいそうなほど頷く。透明な涙の粒がいくつもはじけた。

「イツキ。目、閉じてて」

 呼ばれたのが自分の名前だと気づくまで、少し間があった。慌てて目を瞑ると、薄ぼんやりとした世界の中で、京子さんの声だけが響く。

 死者をおくる、「船頭」の唄。

 次に目を開けた時、彼女が座っていた座席にはただ、ぐっしょりと泥水の染みだけが残されていた。


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