雨粒、夕空、涙
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
僕は不意にメモ帳を閉じた。パンッと鋭い音が、まるで僕を叱りつけるように大きく響く。
人間とは哀しいほど単純なイキモノで、僕は自分に嘘をつき続けられるほど器用なんかじゃなくて。そして、感情とはいつも真っ直ぐで、体は何よりも正直だった。
僕はメモ帳とシャープペンシルを乱暴に鞄に放り込むと、席を立った。勘定すらももどかしく、ほとんど確認せずに硬貨をレジ横に叩きつけて店を飛び出す。さすがに慌てた櫻井さんの声が追いかけてきたけれど、僕は振り返らなかった。
雨が弾丸のように頬を叩く。痛い。でも構ってなんかいられない。目を半ば瞑って必死で走る。
何度か転びながら辿り着いた事務所の扉を壊すような勢いで開け、駆け込む。鞄が何かに当たってものすごい音を立てた。気にせず濡れた手でデスクの引き出しを開け、電話帳を取り出す。わざわざ黒電話を使うような余裕はない。僕は携帯電話を取り出して濡れていないことを確認し、間違えないよう逸る指をおさえて番号を押す。
相手はワンコールで出た。噛みつくような勢いで叫ぶ。
「もしもし京子さん!」
『……どうしたの』
びっくりしたような声。当然だろう。僕は出来うる限りの早口で事情を説明した。主のいない事務所に、僕の声と勢いを増した雨音が反響する。
『そうか』
彼女の反応は冷ややかだった。それが当然、といった感じだ。
僅かな哀れみがこもっているような、静かで低い声。雨音で掻き消えてしまいそうなほど弱い溜息が、電波の向こう側でこぼれる。
――これなら、試す価値はあるかもしれない。
僕は唇を湿らせて、言葉を継いだ。慎重に言葉を選ぶ。
「教えて、もらえませんか」
『何を』
「病院にいる、『正気を失った幽霊』についてです。首を突っ込んだら危険だということは承知しています」
『でもフランは』
言いかけた京子さんを制し、言葉を繋ぐ。正論で僕の拙い勘定論を否定される前に、とにかく聞いてもらわなければ。
「フランが僕を巻き込まないようにしているのは分かってます。でも、僕はフランの助手ですから。それに、フランが危険なことは変わりません。これはもともと僕がきっかけで受けた依頼なんです。お願いします。教えてください」
解雇にも納得いかないし、今さら依頼を取り下げてもらうことは出来ないだろう。僕らはすでに、かなり深いところまで足を踏み入れてしまっている。
何より――
「僕が引き寄せた依頼でフランが傷つくのは、耐えられないから」
『……』
沈黙は長かった。
呆れているのかもしれない。さっき、解雇されたと言ったばかりなのだ。
それっぽい理由を並べて言いくるめてしまうことは出来たかもしれないけれど、馬鹿正直に思いをぶつけてしまったほうがいいような気がしたのだ。もう逃げないために。自分に、仲間に、嘘をつかないために。
僕は沈黙を続ける携帯電話を握り締めて、待った。一秒が一分にも、一時間にも感じられる。ここで京子さんに断られてしまってはもう手がない。茜崎さんを頼るという手もあるにはあるけれど、彼はどちらかと言えば生きている人間の側で仕事をこなす人だ。もしかしたら詳しくは知らないかもしれない。
じっとりと手に汗が滲み、くだらない推測が脳裏を駆け巡って視界がぐらぐらと揺れ始めたころ、京子さんが呟いた。
『……後悔しないね?』
「はい」
即答した僕に、京子さんが重々しく言う。
『死ぬかもしれないよ。専門家でも時々、仕事中に亡くなるくらいだからね。君みたいな人が死んでも何の不思議もない。何よりも』
躊躇うように一度、息を継いだ。言いたくないことを無理矢理押し出すような調子。蓋をしたはずの恐怖心が、むっくりと鎌首をもたげる。
『見たくなかったもの、見たら君自身が壊れてしまうようなものを見るかもしれない。……ううん。ずるい言い方をしたね。確実に、君はソレを見ることになるよ。首を掻き切りたくなるかもしれない。フランや私や茜崎を恨むかもしれない。君自身の心が砕けてしまうかもしれない。あるいは、ストレートに身体が壊れてしまうかもしれない』
一言ごとに、重くてどす黒い泥が足元から積もって喉元までせり上がってくるようだった。息が苦しい。
『それでも、フランと一緒に行くの?』
「はい」
即答。
京子さんは驚いたみたいだった。その場の勢いだと思われたのか、何度も念を押されたけれど、僕の答えは変わらなかった。
「行きます。僕はフランの助手だから」
京子さんはまたしばらく黙ったあと、ぽつりと言った。
『分かった。君を巻き込んだこと、フランには恨まれるかもしれないけど、それが君の意志だから。何があっても尊重するよ。今から時間はあるかな』
「あります」
『なら、今からおいで。全部教えるよ』
京子さんが指定したのは隣町の駅だった。そこから京子さんの事務所、というか自宅に行くのだと言う。
「ありがとうございます」
思わず頭を下げてしまう。目の前にいない京子さんは、電話口でくすりと笑ったようだ。もしかして今のが見えたんだろうか、と一瞬怖くなる。
『いいのいいの。じゃあ、着いたら連絡して』
通話が切れた瞬間、張りつめていた焦りと緊張の糸も一緒に切れてしまった。へなへなと座り込み、あらためてがらんとした事務所を見回す。壊れた扇風機も、ソファも、大きなデスクも、あまりにもいつも通りだ。ただ、フランがいないだけ。
僕は机につかまりながら何とか立ち上がって、鞄を持ち、事務所を出た。相変わらず雨が降っていたけれど、傘は持たなかった。これだけ濡れているのだ。これ以上濡れてもあんまり関係ない。さすがにこのまま京子さんに会うわけにはいかないので、一旦家に戻って着替え、それから駅へと向かうことにする。
雨粒は幾分小さくなって、風も弱まり、頬を撫でていくくらいのやわらかさになっていた。鬱陶しかった雨が今はありがたい。傍から見れば、頬を伝っているのが何なのかなんて分からないだろうから。
明るいオレンジに染まった彼方の空を見ながら、僕はそっと頬を拭った。