番外編:日々に名前をつける方法【アルテン&梅】
「ここで、結婚式を挙げさせてもらえないだろうか」
梅の手を引く、長い髪を束ねた男──アルテンリュミッテリオは、そうリリューに切り出した。
学術都市にある、異国的で神聖な空気を醸し出すその建物は、剣術道場だった。リリューはその道場の師範である。山本菊の息子であり、自分の道場を開くことを許された男。
昔、アルテンも彼と手合わせをしたことがあった。菊が竹のような強さだとすると、リリューは鋼の竹だ。菊が望んでも手に入れることの出来ない、頑強さと力を持っている。
そんなリリューは、アルテンに「いつでも喜んで」と静かに答えた。
それに感謝の言葉を述べた後、彼は隣の梅を見下ろした。アルテンは上背があるために、真横に立つと彼女がどんな表情をしているか分からない。しかし、梅は彼の視線に引き上げられるように見上げてくる。そして、小さく微笑んだ。おそらく、自分自身も微笑んでいたのだろうとアルテンは思った。
「こんな年になって式を挙げるのは。少し恥ずかしいですね」
数日前、アルテンが今回の件を切り出した時、梅は自分のしわを気にするように、顔に手を当てた。彼女は、年よりも少しは若く見えるものの、年齢に必ずしも勝っているわけではない。世間的な体裁よりも、そちらを気にしているようにアルテンには思えた。
そんな梅を、彼は目を細めて見つめる。老いを覚えていても、彼女が決して自分の中の「女」を捨てていないのが、垣間見えたからだ。
「私のわがままを聞いてくれると助かるよ、梅。私は女のように、ずっとこの日を夢見ていたのだ。笑ってくれてもいい」
アルテンにとっては、とても長い時間だった。彼女が側にいない時間、彼はただ己の信念を貫きながらも、ずっと遠く離れた梅に恋をし続けていた。愛まで成熟出来ず、身を焦がし、都へ駆けつけたい気持ちを、何度彼はこらえただろうか。
もし都で彼女と再会したとしても、きっと梅はアルテンを拒むことはないだろう。ただ少し悲しげに、「お久しぶりですね」と言う姿が、その度に彼の脳裏によぎる。
それだけは、見てはならないとアルテンは思った。彼女から、他人行儀に接された日には、きっと自分はおかしくなってしまうだろう強く感じていた。
この時ばかりは、菊に教え込まれた忍耐というものに感謝した。勝てない敵を前にした時は、逃げるか、勝てるその日まで耐えるか。アルテンは、梅との戦いで後者を選んだ。「その日」が来る時まで、ただただ正しい自分であり続けた。
「いいえ、アルテン。笑いません……いいえ、笑えません。私はあなたから送られてくる手紙を読む度に、弱い女である自分を鏡のように見ていました……夢であなたに会えた日は、幸せでした」
言葉は、淀みない。しかし、息継ぎは少し多い。それは、よく聞かなければ分からないほどの呼吸音。彼女が己の弱い肺と折り合いをつけながら、自然に身に着けたしゃべり方なのだろう。
そんな呼吸が小さく小さく混じる声を、アルテンは愛しさを募らせながら聞いていた。いくら聞いても飽きはしない。これこそ、彼がずっと聞きたかった本当の彼女の声である。そんな梅の声が、自分のことを語るのだ。
これこそ、アルテンにとっては夢のような時間だった。そして、本当に夢のような日々が続いた。
梅は独身用の宿舎を引き払い、教員用の借家を借りる手続きをすると言った。
身一つで都に行こうとしたアルテンに、とても良く出来た息子は不相応なまでの金銭を持たせた。それがあれば、家を買うことは出来ただろう。
しかし、アルテンは喜んで梅の選択を受け入れた。贅沢なものは、何もいらなかった。彼がずっと欲しかったのは、金では決して買えないものだったのだから。
彼は、梅と共に教鞭を取る道を選択した。学術都市の生徒は年々増え続け、指導者が不足している。彼がこれまで培った領主としての知識は、経済の分野で若者に新しい道を示すことが出来るだろう。
朝ともに起き、アルテンは稽古をするためにリリューの道場へ向かう。梅は食事を作り、帰ってきた彼と共に食す。そして彼女の手を取って、学校へゆく。仕事が終わると、また手を取って帰る。二人で買い物に行く。
二人で客を出迎える。
やってきた菊に笑われる。「好きなだけ笑ってください」と、アルテンも笑みを浮かべて、それでも梅の手は離さなかった。
やってきた桃に困惑される。娘からすると、確かに居心地が悪いだろう。彼らは桃の父と母でありながら、いま初めて夫と妻になろうしていたのだ。娘を抱きしめて父の顔をすると、「邪魔しちゃ悪いから」と苦笑いを浮かべて、桃は出て行ってしまった。
幸せなばかりの日々に、きちんと名前をつけるために、アルテンは式というものを望んだ。ささやかな知り合いに招待状を出す。道場での宴席は、リリューの妻が引き受けてくれた。梅は、その日のための着物を出してきた。菊の時に使ったものを、桃が嫁入りする日のために大事にとっていたという。まさか先に自分が着ることになるとはと、梅は笑っていた。
準備も滞りなく済み、いよいよ明日が結婚式という日。
アルテンはひとつのことを、梅に頼んだ。
「梅……この髪を切ってくれないか?」
長い髪は、この国の貴族の証。生まれていままで、ただの一度もアルテンはそれを粗末に扱ったことはなかった。自分の血の誇りとして、大事にし続けていたものだ。
だが、彼はここに梅の夫になり、残りの人生の全てを共に過ごすために来た。血の誇りは頼もしい息子に受け渡した。梅の夫になる彼にはもう、これは必要のないものだった。
アルテンが小刀を彼女に差し出すと、彼女はそれを両手で「光栄なことです」と恭しく受け取った。
「緊張して怪我をさせてしまったらごめんなさい」
梅は、珍しく軽口を叩いて笑みを浮かべた。まるで少女のような笑みだった。
「梅の傷なら、宝物にしよう」
笑い返すと、「まあ」と彼女は困った笑みを浮かべた。
そんな幸せな空気が、静かになって。椅子に座ったアルテンの背後に、ゆるやかな呼吸の梅が立つ。
その呼吸が、一度止められた後。
さくりとアルテンの髪に刃が入る。
そして彼は──梅の夫となったのだった。
『終』