目覚め
# 第2章:逃走と覚醒——ゲスト権限の目覚め
タカの意識は、底なしの冷たい泥の沼に沈んだまま、どうしても水面へと浮かび上がれずにいた。
全身が痛い。特に殴られた顔の左半分と、蹴り飛ばされた腹部が、心臓の拍動に合わせてズキズキと脈打つような鋭い痛みを訴えている。冷たい石畳が頬と背中に張り付き、服越しに体温を奪っていく。指先の感覚が薄れ、四肢の末端から徐々に意識が剥落していくような感覚があった。
たった数時間前まで、自分はまだ東京のオフィスビルで終わらない仕事と戦っていたはずだ。それが気がつけば見知らぬ異世界の路地裏で、正体不明のチンピラに殴られて石畳に這いつくばっている。あまりにも理不尽な状況のはずなのに、不思議と怒りよりも先に浮かんだのは「ああ、デスマーチの現場でも理不尽な暴力に慣れてたからな」という諦念だった。
唯一かろうじて機能していると思われる網膜の右端の隅で、現代のサーバールームで散々見飽きたシステムコンソールを思わせる無機質な緑色の文字列が、チカチカと点滅している。それが、真っ暗に暗転した淀んだ視界の中で、ただ一つの不安定な光源だった。
顔面に直接受けた無慈悲なチンピラの蹴りの熱が、ドクン、ドクンと心臓が脈打つたびに頭蓋骨を激しく揺らし、鉄の味が口の中にじわじわと広がっていく。鼻の奥には、腐りかけた生ゴミの悪臭と、長年日の光を浴びていない路地裏特有の、湿ったカビと苔の不快な匂いがこびりついていた。
「チッ、なんだこのヒョロいオッサン。弱すぎるだろ。蹴ったこっちの足の甲が痛ぇじゃねえか」
「ほんと使えねえな。まあいい、金目のものはなさそうだ。……あーあ、せっかくの気分が台無しじゃねえか。おい、そこのお前! さっさとこっち来い! 逃げられると思ってんのか?」
不快な舌打ちをした、安酒の饐えた匂いをプンプンと漂わせる革鎧の男たちが、路地裏の石畳にボロ雑巾のように転がったタカを一瞥しただけで完全に興味を失い、再び壁際に震えながら追い詰められているフェルの方へと向き直った。
一人が、手負いのウサギを嬲ろうとする飢えた野犬のように下卑た笑みを浮かべながら、節くれだった太い指の関節をボキボキと威嚇するように鳴らす。
もう一人の坊主頭の男は、「邪魔な虫」を完全に片付けたとばかりに、無防備に背中を向けてタカへの警戒を完全に解いていた。
(まずい……このままじゃ、あの子が……っ! 動け、俺の体……っ!)
タカは奥歯を噛み締め、必死に指先を動かそうとするが、神経が完全にショートしてしまったかのようにピクリとも動かない。
視界の隅で『System Warning: Critical Physical Damage』の文字が冷酷に流れ続けている。
その、男たちがフェルを完全に無力な獲物だと見做して油断した、まさにその瞬間だった。
「……っ!」
壁際でガタガタと震え、怯えきっていたフェルの翡翠色の目つきが、ふと、ガラスの破片のように鋭く、そして冷ややかに変わった。
小刻みに震えていた華奢な身体からスッと無駄な力が抜け、肩がストンと落ちたかと思うと、それは恐怖による単純な弛緩などでは決してなかった。
狐人族に生まれながらにして刻まれた、天敵から逃れるための原始的な生存本能——追い詰められた野生の狐が、死地から脱出する直前に見せる、爆発的で完璧な予備動作そのものだった。
怯えて涙目だった弱々しい表情を能面のように一変させた彼女は、男たちが彼女の腕を掴もうとニヤニヤしながら手を伸ばすよりも早く動いた。
信じられないほどの身軽さと、物理法則を完全に無視したかのような地面を滑り込む流れる軌道で、彼女は男たちの太い腕の下のわずかに空いた狭い隙間を、一陣の風のようにすり抜けたのだ。
男たちが「あ?」と間抜けな声を上げて反応する間もなく、フェルは倒れ込んで悶絶しているタカの元へ音もなく到達し、彼のよれよれのジャケットの襟首と、腰のベルトのあたりを小さな両手でしっかりと、万力のように掴んだ。
そして、そのまま「ひょい」と、まるでお気に入りの軽いぬいぐるみを拾い上げるかのように、小脇に抱えるようにして背負い上げてしまったのだ。
「は……?」
薄れゆく朦朧とした意識の中、タカの口から、場違いで間の抜けた掠れた声がポロリと漏れた。
これは現実なのか。夢なのか。それすらもう判断がつかない。ただ確かなのは、この少女の背中から伝わる温もりと、規則正しく刻まれる心臓の鼓動——それだけが、今の自分を現実に繋ぎ止めている唯一の命綱だった。
身長175センチ、現代日本でそこそこの平均的な体肉もついた体重70キロはある大人の男である自分が、自分より頭一つ分は優に小柄で、風が吹けばへし折れてしまいそうなほど華奢な着物姿の少女に、ただのスーパーの買い物袋か手荷物のように軽々と、全くの無理なく担がれている。
タカの身体を下からごつごつと固定しているフェルの腕は、一見するとタカの細い手首ほどの太さしかないように見えたが、彼を支えるその背中と腕の力は、まるで分厚い鋼そのもののように硬く、彼女の体幹は微塵も揺らいでいなかった。
「お、おい、待てコラ! ふざけんな! 何してんだあの小娘!」
予想外すぎる展開に完全に思考が停止し、取り残された男たちが、数秒遅れてようやく事態を飲み込み、顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げるが、時すでに遅し。
頭の上の大きな狐耳を警戒するようにピンと立て、背中のふさふさの尻尾の毛を箒のように逆立てたフェルは、湿った苔の生えるひどく滑りやすい石畳を、火事場の馬鹿力としか言いようのない脚力で力強く、そして深く蹴り上げた。
バンッ!!
という、爆竹が弾けたような鋭い破裂音と共に、フェルが強く踏み込んで蹴った足元の古い石畳が、ミシリと音を立ててわずかに沈む。
狐人族の血が騒ぎ、危機回避の本能が全身のリミッターを解除したかのように、彼女は人間の動体視力を置き去りにするような驚異的な加速度で、一気にその場から大通りへ向けて駆け出した。
「ちょっ……ま、待って、揺れる……胃液が……マジで吐く……っ!」
タカの情けない、涙交じりの悲鳴は、ヒュンヒュンと刃物のように風を切って耳元を鋭くかすめる強烈な風の音にあっさりと吹き飛ばされ、誰の耳にも届かなかった。
薄暗く入り組んだ、迷路のようなスラムの路地裏を、矢のようなどこまでも直進的な速度で抜け、フェルはタカを抱えたまま、裏道から一気に人通りの多いアルベロの街のメインストリートである大通りへと躍り出る。
強烈な太陽の光が、網膜を焼き切るようにタカの目に突き刺さった。
フェルは、密集する商人や冒険者の人混みの中を、まるで障害物競争の達人のように、あるいは岩肌を流れる清流の水のように滑らかに縫いながら疾走し続ける。
揺れる視界の中で、タカはこの異世界の街並みの断片を必死に拾い集めていた。
石造りの建物の壁には、見たこともない文字で書かれた看板が並んでいる。武器屋、薬屋、鍛冶屋——図案化されたイラストから辛うじて用途が推測できるが、文字そのものは全く読めない。空を見上げれば、この世界の太陽は日本のものより少しだけ赤みが強く、空の色もどこか青緑がかっている。
通り過ぎる人々の姿も多種多様だった。
(ちょっと待て。今、視界の右端に何か——)
タカの意識がフラッシュバックする。先ほどの倉庫で見たあの半透明の文字列。あれは幻覚だったのか、それとも——
走るフェルの背中に揺られながら、タカは右目を細めて意識を集中してみた。すると、ぼんやりと——本当にぼんやりとだが——すれ違う人々の頭上に、薄い緑色の光の断片が浮かんでいるのが見える。文字のようだが、速すぎて読み取れない。
(あれは現実の映像じゃない。俺の脳だけに映っている何かだ。つまり——あの倉庫で見たモノは、やっぱり幻覚なんかじゃなかった)
だが、それが何を意味するのかを考える余裕はなかった。背後から追っ手の怒号が近づいてきている。鎧を着た戦士風の男たち、フード付きのローブを纏った魔法使い風の女性、背丈がタカの腰ほどしかない小人族の商人、頭に角が生えた赤い肌の種族。そのすべてが、この街の日常に溶け込んでいる。タカの常識が、根本から崩壊していく音がした。
タカの激しく縦横に揺れる視界には、見知らぬ中世ヨーロッパ風の、レンガ造りや木組みのくすんだ街並みが、まるで壊れた万華鏡のように激しくグルグルと回転しながら不規則に映り込んでいた。
串焼きの屋台からは、香ばしくも強烈な獣脂の匂いと、鼻につくほどの強い香辛料の濃厚な煙の匂いが立ち昇り、風圧でタカの顔に叩きつけられる。金槌で鉄を打つ鍛冶屋の甲高い金属音、呼び込みをする商人のがなり声、様々な人種の入り乱れる活気が、爆風のように過ぎ去っていく。
前方に立ち塞がっていた、荷車を引く分厚い灰色の皮膚を持つ四足歩行の巨大なトカゲのような騎獣が、疾風の如く通り過ぎるフェルの規格外の殺気に驚き、パニックを起こして「しゃああっ!」という激しい威嚇音とともに長い首を振り向かせて暴れ出す。
山積みされた色鮮やかな絹や麻の布束を広げていた恰幅の良い露天商の男が、「おいコラ危ないぞ! 前見ろ馬鹿者!」と怒鳴り散らす怒声が、通り過ぎたずっと後方からドップラー効果のように間延びして聞こえてくる。
硬い石畳を「タァンッ、タァンッ」と規則正しい、しかし力強いリズムで蹴り続けるフェルの軽快な足音に混じって、遥か背後の方から先ほどのチンピラたちの怒号がかすかに聞こえるが、その声の距離は一瞬にして何十メートルも開き、やがて街の喧騒の中に完全に溶けて消えてしまった。
オレンジ色からやや紫色へと染まり始めた、異世界の美しい夕暮れの空の下。
建物の影が黒く長く伸びる中を、フェルとタカ、二人の影は一つになって、建物の間を縫うように、まるでパルクールのように壁を蹴りながら駆け抜けていった。
激しい縦揺れと衝撃が起きるたびに、男に蹴られた腹部と脇腹から、焼けた鉄串を刺されたような鋭い痛みが全身の神経を無慈悲に貫く。
タカは目を固く閉じ、必死に奥歯を食いしばって、胃から喉へとせり上がってくる酸っぱいものをなんとか堪えようとするが、最悪な作りのボロいジェットコースターもかくやという常識外れの凶悪な急加速度と、重力を完全に無視したかのような頻繁な跳躍による数メートルの上下動によって、内臓の配置が完全に空中に置き去りにされるような最悪の浮遊感覚が続き、視界がぐるぐると渦を巻いて意識が遠退きそうになる。
フェルが大通りの直線から、再び人目のつかない細い路地へと、ブレーキも踏まずに直角に近い異常な角度で飛び込むと、急激すぎる方向転換により、背負われているタカの身体が容赦ない遠心力で大きく外側へぶん回されるように振られた。
すれ違いざまに、迫り来るレンガの壁の粗くザラザラとした表面がタカの右肩を容赦なく激しく掠め、現代で長年着古して愛着のあった安物のスーツジャケットの布地が「ビリリリッ!」と嫌な音を立てて無惨に引き裂かれ、肩に薄く血が滲む。
「……す、すみませんっ……ぶつけちゃって、痛いですよね。でも、もう少し……あともう少しだけ我慢してくださいっ……!」
フェルは息を激しく切らし、ハァハァと肩を上下させて息をしながらも、決して走る速度を緩めようとはしない。
彼女の美しい銀色の長い髪が強風に煽られて激しくタカの顔にペチペチと当たる。頭頂部の大きな狐耳が、追手の微かな気配や足音を探るように、高性能なレーダーのごとく忙しなく前後左右にピクピクと動いているのが間近で見えた。
タカの脇腹に無理やり押し当てられ、背中の振動に合わせて激しくポンポンと揺れる、信じられないほど柔らかくてふさふさの尻尾の震えが、彼女自身の極度の緊張と、絶対に彼を安全な場所へ運ぶという必死な決意をありありと物語っていた。
(物理法則……一体どうなってんだ、マジで……この頭のおかしいファンタジー世界……!)
タカの思考回路が、目の前の異常な光景を必死に解析しようと空回りする。
体重70キロの成人男性を、細い片腕の力だけで担いだまま、信じられない速度で走り続けている。フェルの呼吸は確かに荒く、細い腕はプルプルと震えている——明らかに彼女自身の筋力の限界を超えた無茶だ。
だが、それでも彼女は止まらない。これは鍛え抜かれた戦闘能力ではなく、狐人族が本能的に持つ「逃走」に特化した瞬発力と持久力なのだろう。
獣人の中でも狐人族は、大型の獣人や人間の騎士との正面からの殴り合いでは圧倒的に不利だが、危険を察知して全速力で逃げ切る能力においては、この世界でも群を抜いている——そんな種族特性のようなものが、今まさにフェルの全身から溢れ出していた。
この世界では、「強さ」と「速さ」は全く別のステータスなのかもしれない。
そして、もう一つ。タカは揺れる視界の中で、コンソールが自分を背負っているフェルのステータスを勝手に表示しているのを見た。文字が揺れて読みづらかったが、断片的に捕捉できたのは——『Name: Fel、Race: Fox_Kin、STR: 12、AGI: 89』。STR(筋力)が12。そしてAGI(敏捷性)が89。
(なるほどな……運動能力のパラメータが絶望的に偏ってやがる。筋力12で敏捷性が89って、完全に回避特化型のステータス振りだ。どおりで俺を担いでも走れるわけだ。ただし、あの筋力でこの重量を担いながらじゃ、彼女の隢と肩の筋はもう悲鳴を上げてるはずだ。それでも止まらないのか、この子は)
罪悪感が胸を刷いた。自分のせいで、この少女は体を壊しかねない無理をしている。それなのに自分は、ただ荷物のように背負われていることしかできない。せめて「降ろしてくれ」と言おうとしたが、声帯が痙攞して、かすれた息しか出てこなかった。
やがて、大通りの喧騒と熱気、人々の話し声が遠く彼方へと遠ざかり、周囲は人の気配が全くない、ひっそりとした、どこか寂れた静かな裏通りへと変わっていった。
潮が完全に引くように追手の男たちの怒鳴り声も完全に消失し、静寂の中でタカの耳に聞こえてくるのは、フェルのリズミカルな荒い息遣いと心音、そして屋根の上のどこかで鳴く、カラスとは違う奇妙で不気味な鳴き声の見知らぬ鳥の声だけだ。
タカの意識が途切れかけるたびに、フェルの背中の温もりが引き戻してくれた。彼女の着物の布地越しに伝わる体温は、人間よりほんの少しだけ高かった。ちょうど子供の頰ほどの温度——そのたった一度の差が、この少女が人間ではないことを、そしてそれでも確かな命を持つ生き物であることを、タカに静かに教えていた。
(この子は何者なんだ。なぜ見ず知らずの俺なんかのために、ここまで——)
理由はわからない。だが、この背中に身を預けていることだけは、不思議と怖くなかった。彼女の心臓の音が、等間隔に刻まれる安心のリズムが、タカの意識をかろうじて水面に繋ぎ止めていた。
東京では、誰かの心臓の音をこんなに近くで聞いたことがあっただろうか。ワンルームのマンションに帰れば、待っているのは冷たい空気と、洗い忘れたマグカップと、明日のデスマーチのスケジュールだけだ。誰かに心配されることも、誰かのために走ることも、もうずっとなかった。
それなのに、この見ず知らずの狐耳の少女は、命を張って走っている。自分のために。
フェルの走る速度が、少しずつ落ち始めた。
背中越しに伝わる彼女の心臓の音が、先ほどよりも明らかに速く、荒くなっている。息遣いが「ハァッ、ハァッ」という短い噴気に変わり、タカを支える腕がわずかに震え出した。限界が近い。それでも彼女は止まらない。止まろうとしない。
やがて人通りもまばらになり、街の賑わいが嘘のように遠ざかった。石畳の道は舗装が途切れ、雑草が隙間から顔を出す古い参道のような小径に変わる。両脇に立つ建物は次第に低く、古くなり、苔むした石垣と手入れの行き届かない生垣が続くようになった。
ふいに、周囲の空気の質がガラリと変わった。
街の中心部に分厚く滞留していた、人の熱気や料理の煙の混じった生活臭に代わって、古い、しかし手入れされた木材が乾燥した心地よい匂いと、墨汁のような静かな香り。
タカは薄れる意識の中で、朦朧と目を開けた。
周囲の建物が消え、代わりに古い苔むした石段が視界に入った。石段の両脇には、雑草に半ば埋もれかけた小さな石灯籠。そしてその先に——木製の、古びた鳥居が佇んでいた。
この異世界に、日本の神社のような建造物があるのか。
だがそれを考察する余裕はなかった。意識が急速に沈んでいく。視界が暗転し、音が遠のき、身体の感覚が溶けるように消えていく。
最後に知覚したのは、背中に感じるフェルの体温と、彼女の心音がドクッ、ドクッ、と規則正しく脈打つ振動だった。
フェルの走る速度は、もうほとんど歩きと変わらなかった。
それでも彼女は、一歩も止まらない。ぜいぜいと喘ぐ呼吸の合間に、小さく何かを呟いている。
「大丈夫……大丈夫ですから……あともう少しだけ……もう少しだけ、頑張ってください……っ!」
その声が、誰に向けられているのか——タカにか、それとも自分自身にか——はわからなかった。
石段を一段、また一段と登るたびに、フェルの膝がガクガクと震える。背中のタカの体重が、彼女の小さな体に容赦なくのしかかる。翡翠色の瞳からは、汗なのか涙なのかわからない雫が頬を伝い落ちていた。
だが——フェルは諦めなかった。
歯を食いしばり、爪が割れるほど石段を握りしめ、最後の一段を登り切った時、彼女の膝が力尽きて崩れ落ちた。タカの体をそっと鳥居の根元の苔の上に横たえ、彼が安全であることを確認してから——フェルもまた、隣に倒れ込んだ。
彼女の小さな手は、それでもタカのジャケットの裾を握ったままだった。意識がなくても離さないとでも言うように、細い指が布地に食い込んでいる。
二人は並んで、異世界の星空の下に横たわった。
頭上には見たこともない星座が広がっていた。北斗七星もオリオン座もない。代わりに、紫がかった淡い光の帯が空を横切りにし、その中に白と金の小さな光が無数に散らばっている。美しい、と素直に思った。
古びた鳥居の木材が、夜風を受けてかすかに軋んだ。どこから、線香のような古い、しかし不思議と心が凪ぐ香りが漂ってくる。石灯籠の影が長く伸び、苔むした参道の石畳が月明かりに淡く光っている。
ここがどこで、これからどうなるのか、何もわからない。だが不思議と、恐怖はなかった。隣で荒い息をつく少女の存在が、たった一つの確かな現実として、タカをこの見知らぬ世界に繋ぎ止めていた。
タカの意識が完全に途切れる直前、コンソールが最後のメッセージを表示した。
『System Notice: Safe Zone Reached. Entering Sleep Mode. Welcome to this world, Debugger.』
その文字列の意味を考える間もなく、タカの意識は深い闇の底へと沈んでいった。頭蓋骨の内側で、何かが短く明滅した。あのコンソールの光だ。それに微かに鼻の奥を甘くくすぐる、薬草や古いお線香のような独特の、郷愁を誘う神聖な香りが漂ってくる。
タカは、自らの重い体重を文句ひとつ言わずに必死に支え続け、泥だらけになって走ってくれたこの正体不明の狐少女への深い申し訳なさと、この華奢で小さな体のどこに一体そんな出鱈目なエンジン出力が宿っているのかという致命的な設計の謎を同時に胸に抱きながら……急速にブラックアウトしていく視界の中で、ついに痛みの限界を超えて、完全に意識の糸を手放したのだった。
***
「ん……」
全身のあちこちの骨と筋肉が、ひどく錆びついた機械のように軋むような痛みを訴えていた。
特に腹部から胸にかけては、浅く呼吸をするだけでズキズキと熱を持った鈍痛が走り、肋骨の何本かが確実にやられていることをタカに自覚させた。
それでも、彼が今横たわっている場所が、先ほどまでの冷たく湿った石畳の上とは違うことはわかった。不揃いな干し草を麻布で包んだような、かすかに植物の匂いがするわずかばかりの柔らかさを感じる何かのシーツの上に寝かされている。
タカは鉛のように重い瞼を、顔をしかめながらゆっくりと開けた。
まず目に飛び込んできたのは、ひょうたん型の奇妙な形をしたランプに照らされた、ひどく埃っぽい木造の天井だった。長年の囲炉裏の煤けが染み付いた太く黒光りする梁には薄く蜘蛛の巣が張り、部屋の隅にある斜めに立て付けられた小さな小窓からは、かろうじて夕暮れ時の赤錆のような弱々しい光が差し込んでいる。
ところどころ泥の剥げ落ちた壁の隙間からは、外の冷たい風がひゅうひゅうと音を立てて吹き込んでおり、部屋の中には古い紙の墨の匂いと、床に踏み固められた土の匂い、そしてかすかに甘く胃を刺激するような、薬品かお香のような独特の香りが漂っていた。
タカは痛みに耐えながら、鈍く動く首をゆっくりと左右に回して、自分が寝かされている部屋の全体を観察した。
四畳半ほどの狭い板張りの部屋だ。壁には古い掛け軸のようなものが一枚だけ掛かっており、達筆ではあるが何語かもわからない筆文字が並んでいる。床の片隅には、洗い込まれて色褪せた小さな座布団が二枚、きちんと重ねて畳まれている。見るからに古く貧しい部屋だが、どの角にも埃やゴミは一切なく、毎日丁寧に掃き清められている痕跡が感じられた。
枕元には、欠けた木のカップに水が一杯。そして、白い布に包まれた何かの薬草の束が丁寧に置かれていた。苦い草の匂いがそこから立ち昇っている。
——誰かが一生懸命、自分の世話をしてくれたのだと、寝ぼけた頭でも理解できた。
「……あ、気がついた……?」
不意に、すぐ傍らから風鈴が鳴るような、ひどく高く細い声がした。
痛む首をゆっくりとそちらに向けると、ベッドの脇で、古い木箱を椅子代わりに腰掛けた少女が、大きな瞳で心配そうにこちらを覗き込んでいた。
路地裏でガラの悪い男たちに絡まれていた、あの銀髪の狐耳少女——フェルだ。
薄暗い部屋の中で改めて間近で見ると、彼女の髪はまるで月明かりそのものを細く削り出したようにきめ細かく、汚れのない美しい銀色をしていた。その頭頂部にちょこんと乗った大きな狐耳と、背後で不安げに揺れるふさふさの尻尾が、彼女の焦燥感と警戒心を雄弁に物語っている。
身に纏っているのは日本の「巫女装束」によく似た白衣と緋袴だが、近くで見ると生地の端はすり切れ、袖口や膝のあたりにはあちこちに丁寧な繕いの跡があった。大きな翡翠色の瞳にはうっすらと涙の幕が張っており、青ざめたタカの顔色を祈るように見つめている。
彼女の手元からは、さっきまで何かの薬草を潰して塗っていたらしい、石のすり鉢と擂り棒が転がっている。細い指先が、薬草の汁で緑に染まっていた。
タカは改めて自分の置かれた状況を整理しようとした。
ここは少なくとも病院ではない。文明的な医療設備は皆無だ。だが、この少女は見知らぬ自分のために、薬草を自分の手で擂り潰し、怪我の手当てをし、水を用意してくれていた。しかも自分の膝の傷を放置して。
ふと、部屋の隅に目をやると、フェルが使ったと思われる布巾と水桶が置いてあった。布巾には乾いた汗の跡が残っている。タカの額を冷やし続けてくれていたのだろう。水桶の隣には、すり潰した薬草を混ぜた小さな軟膏の壺。腕を見ると、路地裏でできた傷に、丁寧に薬草が塗られ布が巻かれていた。
(この子は、見ず知らずの俺のために、ここまでしてくれていたのか……)
タカの胸の奥で、何かが軋むように痛んだ。東京での三十年間で、こんなに手厚く看病してもらった記憶は一度もなかった。
オフィスで倒れても、救急車が来るまで誰も手を貸してくれなかった東京のあの環境を思い出し、タカは胸の奥がちくりと痛んだ。
「……君が、ここまで運んでくれたのか?」
「うん。でも、ごめんなさい……私のせいでおじさん、あんなにひどく殴られて……!」
(おじさん……まあ、今年で30の徹夜明けSEだしな。否定はできない。むしろ小中学生くらいに見えるこいつからすれば順当な呼称か)
タカは乾いた唇で苦笑しながら身を起こそうとしたが、「ぐっ」と思わず無様な声を漏らしてベッドに逆戻りしてしまう。
たった一発の蹴りだったが、見事に肋骨にひびでも入っているんじゃないかという激痛だ。息を吸うだけで肺が内側から突き刺されるような感覚がある。
「だ、駄目だよ! まだ動いちゃ! 無茶しないで! あなた、内臓も傷ついてるかもしれないのに……!」
フェルが大粒の涙をポロポロとこぼしながら、タカの肩側を慌てて細い両手で押さえようとした。
「怪我をすぐに治せる回復魔法をかけてくれる、教会の神官様を呼ぶお金も、今の私にはないから……せめて薬草の塗り薬だけでも、って……」
彼女の声が途中で細く震えた。ふと、タカの視線がフェルの膝に落ちる。
巫女装束の白い袴の膝から下が、乾いた赤黒い血で汚れている。自分の血ではない——タカを背負って走った時に、膝を擦りむいたのだろう。にもかかわらず、彼女は自分の怪我には手当てをせず、タカのために薬草を潰して塗り続けていたらしかった。
申し訳なさで今にも押し潰されそうな彼女の痛切な表情を見て、タカはどうにか安心させようと、強がりの言葉を口を開きかけた。
その時だった。
『System: Entity [Taka] - Physical Damage Detected.』
(……ん?)
タカの視界の端——正確には、網膜の右下あたりの空間そのものに、半透明の「緑色の文字列」が静かに浮かび上がった。
それは路地裏で意識を失う直前に一瞬だけ見たものと同じ、現代のシステムエンジニアが日常的に見ているコマンドプロンプトや、サーバー管理用のターミナル画面によく似た明朝体のフォントだった。
「なに、これ……」
タカは目を瞬かせたが、その文字列は幻覚のように消えるどころか、視界の中央にコンソールウィンドウとして明確に展開され始めた。
```
> get_status -target Taka
Entity ID: 8823-TAKA
HP: 12 / 100 [WARNING: Critical Damage]
MP: 50 / 50
Status: [Bruised], [Rib_Fracture]
```
(……ステータス画面? なんで俺の生前の名前が……いや、それ以前にこの書式パラメータと引数の渡し方、完全にコマンドラインのコンソールじゃないか)
フェルはこの突然空間に現れた不可思議なウィンドウに全く気づいていないようだ。彼女の視線は空中ではなく、相変わらずタカの顔を心配そうに向けられており、依然として申し訳なさそうにおろおろと手を彷徨わせている。
つまり、このインターフェースは世界に実在するホログラムなどではなく、タカの視界(あるいは脳内)にだけ直接マッピングされて映っているものらしい。
(ステータス画面? いやこれは、もっと根源的なものだ。ゲームのUIのように万人向けにデザインされたものじゃなく、むしろ——サーバーの管理コンソールに直接アクセスした時のような、生のシステムインターフェースに近い)
タカの頭の中で、かつて深夜のサーバールームで障害対応をしていた時の記憶が蘇った。冷房が効きすぎた部屋、モニターの青い光、キーボードを叩く自分の指。嫌というほど見慣れた緑色のコマンドライン。あの時と同じだ。同じ匂いがする。
あのサーバールームは、タカにとって孤独の象徴だった。深夜二時、三時。オフィスには自分以外誰もいない。警備員の巡回の足音と、サーバーの冷却ファンの唸りだけが伴奏曲だった。障害を直しても、誰に感謝されることもなく、誰かが「お疲れ様」と言ってくれることもなく、ただ異常が解消されたことを示す緑色の『OK』の文字だけが報酬だった。
だが、決定的に違うことが一つある。
あの頃のコンソールは、サーバーの中で動くプログラムのログを映していた。今、目の前に浮かんでいるこのコンソールは——この世界そのもののログを映している。
そして、もう一つ違うことがある。今、このコンソールの傍で、枯れ木の倉庫からわざわざ自分を助けに来た少女がいる。あのサーバールームには、そんな人間はいなかった。
タカは息を整え、震える意識を集中させた。
コンソールの文字列が少しずつ鮮明になり、スクロール速度も安定してきた。どうやら、集中すれば表示内容をある程度コントロールできるらしい。反応速度も、慣れるにつれて上がってくる。
そして、もう一つ——タカはコンソールの端に表示されている、自分自身のステータスらしき情報に目を留めた。
『User: Taka_Saitou
Permission Level: Guest (Read-Only + Limited Debug Access)
HP: 27/100 (Critical)
MP: 0 (N/A — Non-magical entity)
Physical Stats: F-rank (Minimum)
Special Ability: System Console (Passive)
Status Effect: [Severe Exhaustion] [Minor Malnutrition] [Dimensional Jet Lag]』
(HP27……しかも全ステータスF。物理攻撃力も防御力も最底辺。魔力に至ってはゼロ。Non-magical entity——つまり俺はこの世界の魔力体系に一切組み込まれていない外来種だ。ステータス異常も三つ重なってるし……数値がどの程度のものなのかは分からないが、何となく危ない状況ではありそうだった)
タカは一つずつステータスを検証した。
職業病——あるいはSEとしての悲しい性というべきか。
タカは自らの身体の激痛を忘れ、その表示された緑色の文字列の「仕様と法則性」を、無意識のうちに分析し始めていた。
(『get_status』というコマンドと『-target』というオプションで対象を指定して、ステータスを取得(Read)している。ということは、データベースに対するプロパティの更新(Update)も可能なんじゃないか……?)
だが、見知らぬシステムの正しい仕様や構文を一発で当てられるほど甘くはないだろう。仕様書もリファレンスマニュアルもないのだ。
タカは手元に物理的なキーボードがあるつもりで、空中で指をパラパラと軽く動かした。
すると驚いたことに、タイピングのジェスチャーに連動して、空中のコンソールにカタカタと緑色の文字が自動的に打ち込まれていく。
『> help』
『Available Commands:
get_status, update_status, remove_status, scan, ...
Type 'help <command>' for details.』
(おお、ちゃんとヘルプコマンドが通った。最低限のコマンドラインの常識を備えた、親切な設計で助かる)
タカはさらに指を動かす。ひび割れた肋骨の痛みよりも、未知のシステムに触れるハッカー的な知的好奇心が勝っていた。
『> help update_status』
『Usage: update_status -target <Entity_ID_or_Name> -property <Property_Name> -value <New_Value>』
(なるほど。対象とプロパティと、新しい値を引数で順番に渡せばいいのか。単純明快だ)
構文を理解したタカは、己の肉体を修復するための本番のコマンドを入力する。
『> update_status -target Taka -property HP -value 100』
頭の中でエンターキーを弾いた。
これで痛みが消え、完全無欠のチート能力の証明となるはずだった。
しかし、空中のコンソールには非情な赤い文字がエラーログとして返ってきた。
『Error: Permission Denied. Current user access level is [Guest]. Cannot execute [update_status] on critical parameters.』
(……マジか。俺、この世界の管理者(Admin)じゃなくて、ただのゲスト(参照専用)権限なのかよ)
異世界転移モノにありがちな、すべてを意のままに書き換える万能の神というチートの夢は、開始5分で儚く砕け散った。
つまり、この世界のパラメータやステータスを「見る」ことはできても、己の力で直接「書き換える」アップデート権限は付与されていないということだ。
「はは……そりゃそうだよな。世の中、そんなに甘くないわな……イテテッ」
乾いた笑いを漏らした拍子に腹部に激痛が走り、タカは再びベッドの上で丸くうずくまった。
フェルが「大丈夫ですか!? やっぱり休んでてください!」と慌てて駆け寄ってくる。
(いや、待てよ。ステータスを直接書き換えられないなら、別の方法はないか? 例えばシステムの抜け道だ)
タカは冷や汗を流して痛みを堪えながら、再びコンソールの画面を凝視した。
瞳の奥で、エンジニアとしての炎が静かに点火された。どんなシステムにも必ず裏口がある。完璧な設計など存在しない——それは十年以上この業界で泥を啜ってきたタカが、体の芯に叩き込まれている鉄則だ。
SEとしての経験則。システムが真っ当なアクセスを拒否するなら、アクセス権が不要な既存のプロセスや関数を外部から利用してやればいい。
『> get_status -target Taka -detail』
詳細なステータスログを展開すると、ずらりと並ぶシステム変数の羅列の中に、見慣れない項目を見つけた。
```
Process [Auto_Regen_Base]: Status = STALLED
Condition_to_Resume: [Respiration_Rate < 15] & [Posture == Supine] & [Apply_Pressure_to_Acupoint_0x3F]
```
(……自動回復の基本プロセスが、打撲の物理的ショックで停止(STALLED)状態になってる? というか、この世界の人間にはデフォルトで自然治癒のバックグラウンドプロセスが走っていて、特定の条件を満たせばそれを意図的に再起動できるのか)
これだ、とタカは直感した。
プロパティの書き換えは権限不足で弾かれるが、システムが要求する「回復プロセス再起動のトリガー条件」を物理的に満たしてやれば、システム側の管理者権限の判断として、勝手に回復処理が走るはずだ。
タカはコンソールの表示に従い、痛みに耐えながらシーツの上で仰向け(Supine)になり、ゆっくりと深呼吸を繰り返して心拍と呼吸(Respiration_Rate)を極端に落ち着かせる。
そして最後に、『Acupoint_0x3F』——視界に薄く緑色でARのようにハイライト表示された、自分の左の鎖骨の下にある特定のツボを、親指で強く押し込んだ。
『Condition_Met. Process [Auto_Regen_Base] resuming...』
次の瞬間だった。
タカの体を苛んでいた焼け付くような激痛が、スッと潮が引くようにみるみるうちに引いていった。
息をするのも辛かった胸の重苦しさも、顔面の腫れも、猛烈な勢いで細胞が再生し、骨が結合していくような熱い感覚とともに完全に消え去っていく。
「……え?」
「ふぅ、助かった……」
タカが先ほどまでの重傷が嘘のようにベッドから軽々と跳ね起きると、フェルは信じられないものを見るように目を丸くして彼を見た。
頭頂部の狐耳が、驚きでピンと逆立っている。
「えっ……!? あ、あの、痛くないの!? さっきまであんなに苦しそうに顔を真っ赤にしてて、骨も折れてたはずなのに……!」
「あー……」
タカは自分の傷が一瞬で全快したことに対するもっともらしい言い訳を、フルスピードで回転する頭で即座に考えた。
「実は俺、ちょっと特殊な『治癒魔法』みたいなものが使えてね。自分の体なら、ちょっとした儀式で一瞬で治せるんだよ」
「ち、ちゆまほう!? でも長い詠唱もしてなかったし、神官様みたいに手が光ってもいませんでしたよ!?」
「ま、まあ、俺の故郷に伝わる、一族秘伝の特殊な無詠唱魔法……的なやつでして。ツボを押すのがコツなんだ」
胡散臭い笑顔で適当な嘘をついて誤魔化すタカを、フェルはしばらくポカンと口を開けて見つめていたが、やがてその翡翠色の瞳に、深い安堵の涙をぽろぽろと零し始めた。
「よかったぁ……本当に、死んじゃったらどうしようって、ずっと怖くて……ごめんなさい、見ず知らずの私を庇ったばかりに……」
「いや、いいんだ。俺も現状の自分のステータスを把握せずに首を突っ込むなんて、ちょっと無鉄砲すぎたしな」
わあわあ泣きじゃくるフェルの柔らかな銀髪の頭をポンポンと不器用な手つきで撫でながら、タカは心の中で大きく安堵の息を吐いた。
(……どうやら、この冗談みたいな「ゲスト権限(観測コンソール)」と、俺が現実世界で培ってきたSEとしてのシステム構造の知見だけが、この理不尽な異世界で生き残るための唯一の武器になりそうだな)
「そういえば、名前をまだ聞いていなかったね。俺はタカ。君は?」
涙を袖でごしごしと拭いながら、狐耳の少女は少し赤くなった目でまっすぐにタカを見上げて答えた。
「フェル。……フェルって、言います」
窓の外から夕暮れの光が差し込み、フェルの銀色の髪を淡い橙色に染めていた。涙の跡が残る頬に落ちる光は柔らかく、この粗末な小屋を一瞬だけ温かな場所に変える。
タカはふと思った。自分は三十年間生きてきて、こんなに真剣に自分のために泣いてくれた人間がいただろうか、と。
両親は高校の頃に離婚し、それ以来ほとんど連絡を取っていない。友人と呼べる人間は、大学を出た後、一人、また一人と疎遠になっていった。三十歳の誕生日は、デスマーチの真っ只中で、コンビニのケーキを一人で食べた。誰かに泣いてもらうどころか、誰かに「誕生日おめでとう」と言ってもらうことすら、もう期待しなくなっていた。
それが今、異世界の小さな神社の一室で、見ず知らずの狐耳の少女が、自分のために大粒の涙を流している。その事実が、タカの胸の奥で、長い間凍りついていた何かを、静かに溶かし始めていた。
***
フェルが、使い込まれて縁の欠けた小さな土鍋で丁寧に時間をかけて淹れてくれた、湯気の立つ温かいハーブティーを一口ずつゆっくりとすすりながら、タカはようやく落ち着きを取り戻し、自分を取り巻く混沌とした現状の整理を試みていた。
手渡された木製のくすんだマグカップからは、ミントとカモミール、それに名前の知らない甘い花の蜜を混ぜたような独特の素朴で優しい香りが漂い立ち昇っており、過労とデスマーチ、それに先ほどの乱闘と逃走による極度の緊張で冷え切っていたタカの胃の腑を、じんわりと内側から温めてくれる。
彼らが腰を下ろしている神社の裏手にある小さな和室の部屋の中は、とても質素で、壁紙も畳もかなり年李が入って色褪せていたが、フェルが毎日欠かさず丹念に掃除と手入れをしているらしく、埃っぽさやカビの匂いは最小限に抑えられており、古き良き日本家屋特有の、どこか心が安らぐ心地よい清潔感があった。
部屋を照らすのは、古びた燭台で揺れる一本の小さな蝋燭のオレンジ色の灯りだけだ。
「なるほど。つまりここは、俺のいた世界とは全く違う『ルミナリス王国』という豊かな国の、かなり辺境寄りに位置する交易都市アルベロ。そして、魔法も魔物も、お前のようなエルフや狐人といった『亜人』たちも、ファンタジーの物語の中ではなく、当たり前の現実のシステムとして存在する世界……ということだな」
「はい。タカさんは、よほど遠くの国から流れ着いていらっしゃったんですね。世界最大のルミナリス王国の名前すらご存じないなんて、驚きました」
フェルは正座したまま、不思議そうにコトリと小さく首を傾げる。その拍子に、背中まで伸びた艶やかな銀色の髪が一房、さらりと滑るように彼女の華奢な肩からこぼれ落ち、蝋燭の光を反射してキラキラと銀糸のように輝いた。その動きに合わせて、頭の上の大きな狐耳も同時にピクンと追従して動くのが、なんとも言えない可愛らしさである。
タカは、「ずっと山奥の隠れ里に引きこもって、師匠の下で修行ばかりしていて、最近になって初めて外の世界に下りてきたばかりの世間知らずで」という、昔のファンタジーRPGで何百回と見たような『世間知らずのテンプレ中のテンプレ言い訳』で、どうにか彼女の無邪気な疑念を胡麻化して凌いだ。
(とはいえ、初期の情報収集のフェーズとしては上出来だ)
自分が深夜の残業中に転移した先が、剣と魔法、そして亜人種が存在する典型的な中世ヨーロッパベースの王道ファンタジー世界であること。
そして、自分にはこの異世界を構成する裏側——物理法則や魔法の構造、人々のステータスといったシステムの変数やプロセスの一端を、現代のプログラマーのように視覚化して「閲覧・スキャン」できる、制限付きではあるが強力なアクセス権限(ゲスト権限)があること。
現実の武器も、この世界の金も、コネも一切ない丸裸の現状で、この『観測コンソール』の存在は、何よりも大きく、そして唯一の手がかりとなる絶対的なアドバンテージだった。
「ところで、フェル」
温かい茶の入ったマグカップを両手で包み込みながら、タカは真剣な声色にトーンを落として口を開いた。
「はい? 何でしょうか」
「さっき、暗い路地裏でお前が絡まれてた理由、聞いてもいいか? あいつら、ただの柄の悪い道端のチンピラやゴロツキって感じじゃなかった。もっと組織的な、取り立て屋特有の油断のない陰湿な目をしていた」
タカのストレートな問いに、フェルはビクリと小さく肩をすくめ、ピンと立っていた大きな狐耳を、しゅんとするようにぺたんと頭の両側に伏せた。
俯いたまま、膝の上に置いたマグカップの縁を細い指で所在なげになぞるようにしながら、彼女はぽつりぽつりと、消え入りそうな細く震える声で、自らが抱える冷たい重荷の事情を語り始めた。
「……タカさんの言う通りです。あいつらは、街の悪名高い高利貸しの金貸し商人の使いです。私は、この街の端っこにある、この古い小さな『迷い神の神社』で……両親が亡くなってから、幼い頃からずっと一人きりで、巫女としてお社を守ってきたんです。でも、もう何年も前から、神様を信じる信者さんも減ってしまって、お賽銭も入らず、この古い神社の屋根の修繕費や、この土地そのものの地代を、領主様に払うお金が全く無くなってしまって……。それで、あの悪い商人から、無理やり、本当にお金を借りちゃったんです」
「借金か。事情はわかった。……ちなみに、元金はいくら借りたんだ?」
「最初は……たったの銀貨で50枚くらいでした。屋根の雨漏りを直すための最低限のお金です。でも、契約書に小さな文字で書かれていた利子が暴力的なほどにすごく高くて、雪だるま式に増えていって、気づいたら今はもう……金貨2枚分くらいの、一生かかっても払えないような莫大な額に膨れ上がってて……。来月末までに耳をそろえて返せないなら、私が街の娼館に一生奴隷として売られるか、この神社を完全に明け渡して更地にして、今日中に出て行けって、毎日毎日脅されてて……」
(神社の維持費という弱みにつけ込んだ滞納に、プロの悪徳商人が周到に仕組んでふっかける多重債務。俺の世界でもニュースで嫌というほど聞いたような、胸糞の悪いありふれた悲惨な話だが——)
目の前で、小さな震える肩をぎゅっと自ら抱え、大粒の涙をポロポロと畳にこぼしているのは、ゲームの中のモブキャラクターでも、ニュースの中の顔の見えない被害者でもない。温かい血の通った、今ここに生きている一人の懸命な少女だ。
全く見ず知らずの、ドブに倒れていた胡散臭いタカの命を無償の善意で助けるために、自分自身が極限の恐怖の中にいながらも、あの小さな華奢な体で必死に70キロの大人の男を担いで、息を切らして泥だらけになりながら走ってくれた「命の恩人」の、切実で悲痛な心のSOSの声だ。
自分がこの世界から元の現代日本に帰る手段を探すにしても、まずはこの大きな恩を返してからだ。彼女を見過ごして、一人でのうのうと生きていけるほど、タカの心はシステムのように冷え切ってはいなかった。
「……フェル。ちょっと顔を上げて、そっち向いてくれないか」
「えっ? ……はい」
「大丈夫、怖いことは何もしないから。少しだけ、君のいまの『本当の状態』を、俺の目で見させてほしい。解決の糸口が見つかるかもしれない」
タカはじっと彼女の翡翠色の瞳を見据え、空中に視線を固定すると、再びあの透明な緑色のシステムコンソールを、網膜の裏側へと完全に呼び出した。
『> get_status -target Entity_1042-FEL -detail』
カタカタカタ……ッ、と無音の高速のタイピング音が脳内で小気味よく響く。
瞬時に、涙で目を潤ませてこちらを縋るように見つめるフェルの頭上の空間に、緑色のホログラムのようなステータスウィンドウと、極めて詳細なシステムパラメータの階層データ群が、滝のように展開された。
```
Entity ID: 1042-FEL (Race: Fox-DemiHuman)
Class: Shrine_Maiden (Level: 12)
HP: 45 / 50
MP: 120 / 120 (Status: SEALED_BY_CONTRACT)
Active Debuffs:
- [Exhaustion_Local_TBD]
- [Debt_Curse_Bind: 20,000G] <- HIGH PRIORITY ALERT
```
(……MPのステータスが、自然回復ではなく『契約によって封印(SEALED)』されて完全にロックされている? それに、このアラートを出している [Debt_Curse_Bind](借金の呪縛)っていう、悪意のあるステータス異常のプロセスは一体なんだ?)
タカは、ただの書類上の借金にしてはシステムに食い込みすぎているその異常なパラメータの紐付けに、エンジニアとしての強烈な違和感を覚えた。
「……フェル。君、亜人ってことは、もともと魔法の素養があるのか?」
「えっ!? あ、うん……狐人族なので、生まれつきほんの少しだけ幻術とか、傷を癒やす神聖魔法の祈りが使えます。でも……今は、この左手につけられている、魔力封じの『枷の腕輪』みたいな魔法アイテムを、商人たちに無理やりはめられてて、今は全くと言っていいほど自分の魔力が使えないんです。借金を完済するまでの、絶対逃げられない担保代わりだと言われて……」
タカの鋭い視線が、フェルの細く白い左手首に不自然にはめられた、重々しく古めかしい黒塗りの無骨な金属の輪に止まった。
蝋燭の光に照らしてよく見ると、それはただの物理的な金属の手錠や枷などではない。その冷たい黒鉄の表面には、微細で複雑な幾何学模様の『魔法陣のスクリプト』のようなものがびっしりと狂気的に刻み込まれており、それがフェルの生命力であるシステムレベルでの強力な状態異常・常駐制限プログラムとして、裏側で常にメモリを食いながら悪質に機能しているらしいことが、コンソールの光で読み取れた。
さらには、本来であれば人間同士の物理的な契約書や現実の金銭のやり取りであるはずの『借金』そのものも、単なる紙切れ上の話ではなく、この魔導具と魔法陣を介して、 [Debt_Curse](借金の呪い)という取り外し不可能な重篤なステータス異常として、彼女自身のシステム(魂)のIDに直接深く紐付けられ、ハードコードされているようだ。
もしこの数値を無視して逃げたりすれば、この呪いが発動し、文字通り命に関わるか、強制的な隷属状態に置かれるのは明白だった。
(——なるほど、そういう仕組みか。相手が単なる暴力や紙の契約書ではなく、この世界の裏側の『魔法システム(プログラミング)の仕様』を悪用して彼女を縛り付け、絶対的な優位に立っているというのなら。それはもう、完全に俺の土俵だ)
タカは小さく、しかし長年積み重なったストレスを吐き出すように深く息を吐くと、不可視のキーボードを叩く指先のイメージ作りに集中した。
今のGuest権限では、相手のデータを直接書き換えて全額借金をチャラにしたり、腕輪を強制解除する管理者権限(Root)はないかもしれない。だが、どんなに強固に組まれたシステムや契約魔法陣にも、必ず人が作った以上、『致命的なバグ』や『論理的なロジックの脆弱性の穴』が存在する。それを見つけて徹底的にハッキングし、論破してぶっ壊すことこそが、歴戦の泥水すすってきた元SEの、最大の得意領域だ。
「フェル。命の恩返しってわけにはまだ全然足りないかもしれないが……もう少しだけ、俺の『一族秘伝のハッキング魔法』に付き合ってくれないか?」
「え……? 秘伝の、魔法……?」
タカの口元に、デスマーチの最中に何重にも隠されたやっかいで陰湿なバグやシステムの矛盾をソースコードの奥底に見つけた時特有の、静かだが、獲物を追い詰めるような不敵で極悪な笑みが、深く刻み込まれるように浮かんでいた。
「一族秘伝の魔法……ですか?」
フェルは翡翠色の大きな目をさらに丸くし、信じられないものを見るようにタカを見つめた。
無理もない。先ほどの治癒でさえ、神官のような神聖な詠唱もなければ杖もないという怪しい仕様であった。それに加えて、魔力の気配すら微塵も感じさせない見ず知らずの異邦人の男が、絶対に解けないはずの「契約の魔具の呪縛」を解くなどと唐突に言い出したのだから。
「ああ。とはいえ、俺もこういう……他人のステータスデータにかかった『状態異常』の根本的な仕組みを外側から直接見るのは初めてのケースでね。少しだけコンサルさせてほしい」
タカは真剣な眼差しで、フェルの白く細い手首にはめられた黒塗りの金属の腕輪に視線を固定し、再び空中のコンソールを起動した。
現在のユーザー権限が最低ランクの「Guest」レベルである以上、フェルのステータス画面に表示された `[Debt_Curse: 20,000G]` の文字列を直接Deleteで消去したり、あるいは自分の所持金パラメータを書き換えて無から借金返済用の金を錬成するような、暴力的な神のズル(チート)はできない。
(システムの直接書き換えが権限エラーで弾かれるなら、原因となっている『ソースコード』の仕様の穴を探すしかない。どんな堅牢なシステムにも必ず抜け穴は生じる)
タカはキーボードがない虚空で、熟練のブラインドタッチのごとく高速でコマンドを叩く。
『> scan -target Item_Black_Bracelet -detail』
『Scanning...
Item ID: 8892-CURSE_RING
Type: Contract_Binding
Linked_Contract: 0x9A2B_MERCHANT_LEDGER
Condition: Release upon 20,000G payment to Linked_Contract.』
(なるほどな。この手首の黒い腕輪自体はただの受信機で、拘束処理の大元は商人が持っている『契約台帳(MERCHANT_LEDGER)』の側か。そっちへの支払いがトリガーになって、こちらのロック解除処理が走るわけだ。典型的な親子関係のプログラムだ)
タカはさらに指を動かし、その大元である契約書のプロパティをリモートで参照(Read)してみた。Guest権限でも、データの中身を「覗き見る」だけならシステムプロセスに咎められない。
『> get_status -target 0x9A2B_MERCHANT_LEDGER -property Contract_Rules』
次の瞬間、コンソールの画面に、契約魔法の複雑な動作条件を定義した長ったらしいソースコードもどきの緑色の文字列が、滝のようにスクロールして無数に流れていった。
タカは懐かしい感覚に口角を上げると、深夜のオフィスでデバッグをしていた時のあの異常な集中力を発揮し、その文字列を一字一句舐めるように解析し始めた。
(……うん? なんだこの中途半端な処理。例外処理(Exception)の定義が甘くないか? いや、甘いなんてもんじゃない。ザルだ)
最後の方の行に、どう見ても開発者がテスト用に適当に残してデバッグを忘れたような、奇妙で雑なIF文の記述があった。
```
if (Offering_Item.conflictsWith(Contract_Base_Material)) {
Throw Exception(Paradox_Error);
// CONTRACT AUTO-DESTRUCT ON PARADOX
}
```
(……致命的な例外処理のバグだ。『契約台帳の基礎素材』と、システム定義上で属性が矛盾(conflict)するアイテムを、借金弁済の『捧げもの』として供えた場合。契約魔法のプロセス自体が論理的パラドックスを起こして、強制終了して自壊するのか。まともな取引をしている限り、誰もそんな矛盾した組み合わせのアイテムを弁済品としてわざわざ捧げたりしないから、このIF分岐に到達することは絶対にないっていう前提で放置された、三流プログラマーの書いた雑なコードだ)
タカはすぐさま、契約書の基礎素材(Base_Material)のプロパティも確認する。
『Base_Material: Holy_Silver_Ink』
(聖銀のインク……。こいつと「矛盾」するフラグを持ったアイテムってことは、対極にある邪悪な属性のもの——たとえば、呪術で使うような呪われた安い触媒とか?)
タカは一旦コンソールを閉じると、口元に歴戦のいろはをかいくぐってきたシステムアナリストのような、ひどく意地の悪い笑みを浮かべた。
「フェル。この神社に、呪い除けのお守りとか、使い古した護符みたいなものはないか? もう何十年も前の、古くて使い物にならないようなガラクタでもいい」
「えっ? ええと……ご神体を守るための『魔除けの黒札』なら、裏の木造の倉庫に何枚か……でもそれ、結界の呪い除けの力はもうとっくに干からびて抜け落ちてて、ただの埃を被った古い紙切れですよ?」
「上等だ。それだ。一枚持ってきてくれ」
フェルは首を傾げながらも、言われた通り薄暗い倉庫の奥から、縁がボロボロに崩れた煤けた黒い御札を恭しく取り出してきた。
タカがコンソールでスキャンすると、案の定——その古い黒札には『Cursed_Silver_Residue(呪銀の残滓)』という微弱な、しかし明確なシステム属性が残っていた。「聖なる銀」の対極にある、穢れた「呪いの銀」。これなら契約システムの基礎素材と完璧にパラドックスを引き起こす。
(よし。準備は整った。あとは、あの悪徳商人にこいつを『借金の返済の一部』として、契約の魔具の台帳に『自分の手で』捧げ(登録)させればいい。俺がやっても意味がない——契約のオーナー権限を持つ商人本人が台帳を操作しないと、例外処理のプロセスに到達しないからだ)
タカは頭の中で完璧な攻撃作戦を練り上げ、フェルに向き直った。
「フェル。借金取りの連中が次に来た時のために、打ち合わせておきたいことがある」
***
翌日の午後、太陽が西に傾きかけた頃だった。
バァン! と、神社の粗末な木製のドアが蝶番をきしませながら乱暴に蹴り開けられた。
ヒィ、とフェルが短い悲鳴を上げて、反射的にタカの背中に隠れるようにしてしがみつく。
土足で遠慮なく怒鳴り込んで来たのは、脂ぎった顔に高価そうな絹のローブを着込んだ肥満体の商人だった。その後ろには、薄汚れた革鎧を着込み、丸太のように太い腕を持った筋骨隆々の「用心棒」らしき大男の戦士が二人控えている。
彼らの体からは、安酒の饐えた臭いと獣の血の臭いがむせ返るように漂ってきた。
「とっくに猶予の期限は過ぎてんだぞ、クソガキ! 今日払う金がねぇなら、お前自身を夜の街に身売りして払ってもらうからな!」
(来たな。……予定通りだ)
タカは震えるフェルを庇うように前に一歩踏み出し、わざと揉み手をするような卑屈な笑みを浮かべてみせた。
「あ、あのー、すみません旦那。こちらは金策の当てがどうにもないもので……ただ、一つだけ取引の提案があるんですが」
「あぁ? 提案だと? 部外者のヒマな男が何の口出しだ」
「この神社には、古い魔道具の残りカスみたいな『魔除けの黒札』が眠っていましてね。もう大した金銭的価値はないガラクタですけど、『契約の一部弁済品』として旦那の魔具に登録していただければ、次の利息の足しくらいにはなるんじゃないかと」
タカは懐から、あの煤けてカサカサに乾いた黒札をひらひらと見せた。
商人は豚のように鼻を鳴らし、胡散臭い目で油ぎった視線を黒札に向けた。
「ふん。こんなカビの生えたボロ札が金になるかよ。……だが、一部弁済の担保として契約台帳にとりあえず『登録』するだけなら手間じゃねぇ。利息の猶予期間に1日だけ無情の加算をしてやるから、さっさと寄越せ」
強欲な商人は取るものもとりあえず、懐から厳重な革包みを取り出した。それは羊皮紙に複雑な魔法陣が赤黒いインクで焼き付けられた、分厚い契約の魔具である。彼はタカの手から胡散臭そうに黒札をひったくった。
そして、弁済品の登録手続きとして台帳の上に黒札を乱暴に載せると、商人自身の魔力を用いて契約の魔力回路を起動させる。
ジジジジジジジッ……!!
「な……なんだ!?」
突然、魔力回路が繋がった契約の台帳が激しく明滅し、バチバチと不吉な火花を散らし始めた。
『聖銀のインク』で精密に書かれた契約の基礎プロセスが、『呪銀の残滓』を含む「完全に矛盾した属性アイテム」を、システム上正式な弁済品として内部に読み込んでしまったのだ。
契約システムの奥底で発生した致命的な論理的パラドックスが、修復不能な例外エラーの連鎖を無限ループのように引き起こしていく。
パキッ、パキパキパキッ——! バツンッ!!
「うわあっ!?」
契約の台帳の羊皮紙そのものに真っ赤な亀裂が走り、赤黒いショートした光が火柱のように噴き出す。
それと同時に、離れた場所にいたフェルの細い手首にはめられていた黒い「魔力封じの腕輪」にもそのパラドックスの連鎖が波及し、強固な金属の表面を硬質なガラスが砕けるようなひび割れが、一瞬にして蜘蛛の巣状に広がった。
「え……?」
フェルが呆然と、自分の悲鳴をあげている手首を見下ろす。
次の瞬間、ガシャン! という鋭い破砕音とともに腕輪が黒い砂と化して崩れ落ちた。何年もの間彼女の奥底に封印されていた本来の魔力が、枷を失って一気に解放される。
彼女の身体から温かな淡い緑色の光の粒子が間欠泉のように噴き出し、ボロ小屋の中を満たしていたカビ臭く澱んだ空気を、春風のような柔らかな熱と爽やかな香りで一掃した。
「う、腕輪が……!? 嘘、信じられない、体がすごく軽いです……魔力も……動きます! タカさん、これ……!?」
驚きのあまり、頭の大きな狐耳がピンとまっすぐに跳ね上がる。
「 私、もう娼館に売られなくていいの……?」
「ああ。契約のシステムプログラムが、自ら処理不能の論理矛盾を食らって、強制的に自壊した。もうお前を縛る呪いの契約は、システム上完全に消滅したよ」
「お、お前……! 一体どういうイカサマの魔法を使った!? ただの黒札で、俺の数百万Gもする契約書がいきなりおかしくなりやがったんだぞ!」
商人が顔を豚のように真っ赤にして怒鳴り散らす。彼の手の中に残った台帳は、強烈なエラーで焼け焦げ、もはやただの黒い煤の塊と化して原形をとどめていなかった。
「ふざけんな! 俺の懐には銀貨一枚すら入ってきてねえんだよ!! ええい、そのふざけた男を半殺しにして叩き出せ! 狐のガキは捕らえて今日の夜には売り飛ばす!」
「へいへい。お安い御用で」
「死なねえ程度に手足の骨を折って痛めつけてやるよ」
商人から怒号を受けた用心棒の二人が、下卑た笑いを浮かべて首の骨を鳴らしながら、タカに向かってずしり、ずしりと重い歩みを進めてくる。
先ほどの、路地裏で容赦なく顔の骨を砕かれそうになったトラウマの痛みが蘇り、タカの背筋を冷たい汗が流れる。真っ当に物理的に殴り合えば、間違いなくタカは1秒も持たずに瞬殺されるだろう。
(でも、今はあの時みたいにただの「丸腰のパンピー」じゃない)
タカは深く深呼吸をして息を吸い込み、再び視界の右下にコンソールを起動した。
『> scan -radius 5m -filter Hostile』
『Found 3 hostile entities.
ID: 4410-MERC (HP: 250, STR: 85)
ID: 4411-MERC (HP: 260, STR: 90)
ID: 1099-MERCHANT (HP: 30, STR: 12)』
(よし、相手のステータスの固有IDは捕捉した。だが無能なGuest権限の俺には、こいつらのSTR(筋力)を直接『1』に書き換えて無力化するような強引なコマンドは打てない)
「死にやがれヒョロガリが!」
屈強な用心棒の一人が、タカの顔面めがけて丸太のような太い腕を振り下ろしてきた。拳には金属製の分厚いガントレットがはめられている。
フェルが「タカさん、危ない!」と張り裂けんばかりの悲鳴をあげる。
タカは迫りくる致死の拳を冷徹な目で見据えながら、脳内で最速のタイピングを行い、対象の固有IDから「装備品」のプロパティをスキャンした。
『> get_status -target 4410-MERC -property Equipped_Items』
『Result: [Iron_Gauntlet(Durability: 100/100)]』
(人間本体の生体データは神の保護領域内でも、後付けの「装備品」の演算プロセスならどうだ? しかもこいつらの物理攻撃の衝突判定処理、どういう計算式になってる……?)
タカは飛んでくるガントレットの「衝突と摩擦の判定処理」のバックグラウンドプロセスをRead権限で割り出して素早く確認した。
案の定、物体の速度と重量の変数のみからダメージを計算しているだけの、処理の軽量化を優先した安直なプログラムだった。
(質量や速度そのものを直接いじらなくても、参照している物理変数の一つ、『摩擦係数(Friction)』を一時的にシステムから除外(Suspend)させてやれば……!)
タカは、敵の物理攻撃計算に関わる環境変数プロセスを、強制的にエラーで一時停止させるコマンドを叩いた。
『> suspend_process -target 4410-MERC -process Physics_Friction -duration 5s』
『Executing... Success.』
スッ……。
タカの鼻先数ミリのところを、凶器のようなガントレットの拳が死の風圧を伴って掠めた。前髪が強風で激しく煽られる。
だが、その拳が顔面を捉えることはなかった。用心棒の巨大な肉体そのものが、まるで油をぶちまけた氷のスケートリンクの上でまともに足を取られたように、完全に姿勢制御を失って宙を舞ったからだ。
「「……あ?」」
ドシャアアアアッ!!
「ぐああっ!?」
「いっ、痛ぇ! なんだこりゃあ!? 床が滑るぞ!?」
足元の『摩擦係数』という絶対的な物理計算プロセスを5秒間だけ失った用心棒たちは、踏み込んだ強烈な勢いを殺しきれない。彼らは盛大に自らスリップし続け、部屋の奥の柱や壁に顔面から激突すると、無様なカエルのように重なり合ったまま悶絶した。
「おい、どうした馬鹿共! 遊んでないでさっさとその男をぶちのめせ!」
「い、いやアニキ……なんか、急に足腰が、まるで氷の上みたいに滑って……立てねえんだよ!」
もう一人の大男も、不格好に床に手をついた傍からツルツルと手足が滑り、生まれたての巨大な小鹿のようにプルプルと震えて起き上がることすらできない。
「な、なんだお前……! どんな恐ろしい怨念の呪いを使いやがった!?」
「呪い? 馬鹿を言うな。ちょっとだけ『環境変数を無効化して、お前たちの足元の摩擦をゼロにした』だけだよ」
タカは、床でのたうつ巨漢たちを見て顔面蒼白になっている商人に向かって、悪魔よりも恐ろしい、冷たく不敵な笑みを浮かべてみせた。
「さて。フェルの借金は消えた。お抱えの用心棒は生まれたての赤ん坊以下だ。……次はお前の番だな」
タカは静かにコンソールを操作し、今度はGuest権限で閲覧できる範囲ギリギリの階層で、商人の「過去の取引ログ」をスキャンした。
『> get_status -target 1099-MERCHANT -property Transaction_Logs -filter "Illegal"』
『Found 42 hidden records regarding slave trade and tax evasion.』
タカは空中に浮かび上がった血生臭いログの文字列から、いくつかの具体的な「違法な取引先」と「金額」を、事務処理のように冷酷で淡々とした声で読み上げ始めた。
「昨年の三月、ルミナリス王国の税務官の記録から抹消した『金貨300枚』の違法ポーション密売取引。それと、隣国の悪趣味な貴族に高値で売り払った『違法奴隷15名の隠し名簿』……なるほど、真っ黒だな。このログデータを、王都の衛兵所や王国の監査機関に『匿名で一斉にシステム送信』してやろうか?」
「なっ……!?」
商人の脂ぎった顔から、一瞬にして全ての血の気が引き、土気色に変わった。
絶対に誰にも見つからないよう、最高級の隠蔽魔法をかけて金庫の奥底に厳重に保管してあるはずの『裏帳簿』の具体名。それを、この得体の知れない男は紙切れ一枚持たずに、呼吸をするかのように正確に言い当てたのだから。
フェルもまた、商人たちを圧倒的なまでの絶対的優位で蹂躙するタカの背中を、言葉を失って見つめていた。
暴力を振るうわけでも、派手な魔法をぶっ放すわけでもない。ただ虚空を睨み、謎の言葉を呟くだけで、誰も逆らえないはずの世界の理すらも軽々と書き換えてしまう。それはもはや魔法という枠組みを超えた、得体の知れない未知の力に対する本能的な恐ろしさだ。
だが同時に、その絶対的な力が自分を守るために使われているという事実が、フェルの胸の奥にどうしようもないほどの温かい安心感を植え付けていた。
「あ、あばばばばば……!? ど、どうしてそれを……っ! お前、何者だ!?」
「俺のデバッグツール……いや、俺の『目』を誤魔化せると思うなよ。……二度と、本当に二度とこの神社とフェルに近づかないなら、このバグまみれのログのことは黙っていてやる。わかったら、そこの転がってる馬鹿共を連れてさっさと失せな!」
「ひぃぃぃぃぃぃいっ!! わ、わかった! わかりましたからっ!!」
強欲な商人はプライドもかなぐり捨て、這うようにして立ち上がると、いまだに床で転倒し続けている用心棒たちの襟首を無理やり掴んで引きずり、半狂乱の金切り声をあげながらボロ小屋から逃げ出していった。
「ヒ、ヒィィッ……!? ば、化け物め、覚えてろよ!! いつか必ずこのツケは……っ!」
悪徳商人と護衛の用心棒たちの、システムエラーの痛みと絶対的な恐怖により涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった汚い怒号と悲鳴が、神社の敷地の外、深い森の向こうへと完全に遠ざかり、やがて全く聞こえなくなった。
ボロ小屋のような小さな神社の静かな本殿に、再びもとの秋虫の鳴くしんとした静けさと、蝋燭の小さな灯りによる平穏が戻ってきた。
タカは、ピタッと周囲の気配がないことを確認すると、ふう、というよりは「ハァーッ」と、ひどく緊張で肺に溜まっていた熱い息を長く、何度も繰り返して吐き出し、膝に手をついた。
右目の網膜の裏側に展開していた、滝のようにエラーログを流し続けていた緑色の虚空のコンソールを、疲労困憊でパタンと閉じた。
(……あー、マジでギリギリだった。なんとかうまく俺のはったりとブラフが効いてくれてよかった……。一歩間違えれば、あのハゲた用心棒の斧で、俺の首が物理的に飛んでたぞ。マジで寿命が十年は縮んだわ……)
緊張の糸が切れた途端、今までアドレナリンで麻痺していた恐怖が蘇り、冷や汗で安いシャツの背中がびっしょりと肌に冷たく張り付いているのを感じながら、タカは内心で心からの安堵の溜息をついてその場に力なくへたり込んだ。
先ほど、余裕たっぷりに商人を脅し抜いたあの極悪な言葉——あのアクシデント的に引き起こしたエラーによる腕輪の破壊や、システム上の違法な取引ログを抽出し、他人の頭の中に「一斉送信」して社会的に抹殺するなどという大層な機能は、実際のところ、ただの『Guest権限』しか持たない今のタカのコンソールでは絶対に実行不可能な、エンジニア特有のハッタリと口から出まかせに過ぎなかった。
本当のことを言えば、他人の所持ゴールドをゼロにする権限も、物理法則を恒久的に書き換えて勇者のように無双するようなチート権限も、今のタカには何一つない。他人のステータスや実行中のプロセスを「ちょっとだけ覗き見て、極めて限定的な干渉で一時的にエラーを吐かせる」ことしかできない、名ばかりの最弱の管理者もどきだ。
だが——。
(人間ってのは、自分では理解できない『未知の絶対的なシステム』や『見えない権限』の前に立たされると、勝手に最悪の想像をして自滅してくれる生き物だ。情報の弱点さえ正確に握っていれば、人間という不完全なハードウェアはどうとでも誘導して動かせる。腕力では勝てなくても、仕様の穴を突く泥臭い知恵と脅しのテクニックなら、こっちのファンタジー世界の人間には絶対に負けない)
タカがガクガクと笑うように震える膝をごまかしながら、エンジニアとしての確かな勝利の余韻に浸っていると、背後から急に、ギュッと、小さな柔らかい腕が彼の腰に強くしがみついてきた。
「タカさん……っ! た、タカさぁんん……っ! ありがとうございます……! 本当に、本当に……私、私……っ!」
タカの広い背中に、フェルの温かい体温がいっぱいに押し付けられ、ポロポロと崩れ落ちるような大粒の熱い涙の感触が、服越しにじわじわと伝わってくる。
(ああ、タカさんの背中……大きくて、すごく温かい……。見ず知らずの私なんかのために、あんなに恐ろしい大人たちに一人で立ち向かってくれた……)
驚いて振り返ると、銀色の大きな狐耳をぺたんと伏せたフェルが、肩を大きく震わせて子どものように顔をくしゃくしゃにしてしゃくりあげながら、タカのジャケットの裾を、絶対に離すまいと必死の力で握りしめていた。ただの感謝ではない、明確な「すがりつきたい」という切実な想いと熱がそこにあった。
長年彼女の命と自由を縛り付けていた真っ黒な『借金の枷』から解放され、本来の魔力が彼女の体内で優しく循環を取り戻した影響か、彼女の銀糸のような美しい髪が、障子の隙間から差し込む月の光を受けて、微かに神々しいほど淡く輝いているように見えた。
「うおっと。いや、いいってば、そんなに泣くなよフェル。元はといえば、俺が右も左もわからない見知らぬ路地裏に転移してきてすぐ、お前が追われている身でありながら、自分の怪我や危険も顧みずに、無償の優しさで俺を担いで助けて世話してくれたんだしな。これはただの、その時の恩返しの貸し借りのおあいこだ。気にするな」
「だ、駄目ですっ! 駄目です! そんなの、釣り合うわけないじゃないですか! 首の皮一枚繋がったなんてものじゃない、私の人生と心を丸ごと救ってくれたんです! おあいこになんて絶対に、絶対になりません!」
フェルはしゃくりあげながらも、きつくタカの服を握りしめたまま、必死の剣幕で首をブンブンと横に振った。
「私……私、一生タカさんについていきます! この寂れた神社のお掃除やご飯も全部作りますし、タカさんの『従魔(使い魔)』にでも、夜伽の奴隷にでも何にでも喜んでなりますから……! だから、絶対に出ていかないでくださいっ……!」
(従魔って。完全にRPGのペット扱いかよ。それに夜伽の奴隷だなんて、いくら純粋無垢でもそんな危ないこと、冗談でも口にするもんじゃないぞ。この世界にはそういうのがリアルにありそうだからな)
必死な涙目で、鼻を赤くして全力で訴えかけてくる狐耳少女フェルの、やわらかな銀髪の小さな頭を、タカはポンポンと不器用だが優しい手つきで撫でながら、心底困ったように苦笑した。
彼の手のひらをくすぐるフェルの狐耳の感触は、上質なベルベットのように驚くほど滑らかで、そして命の温かさを持っていた。
見知らぬ理不尽で不吉なファンタジー世界にいきなり放り出され、最初は路地裏の冷たい泥水の中で「なぜ自分がこんな理不尽な目に」という絶望と死の恐怖しかなかった。だが、今は違う。
(俺の視界にある、このチートとは程遠い「閲覧専用の観測コンソール」と、現代日本の過酷な社会で培った泥臭いデバッグのノウハウがあれば、なんとか知恵とハッタリでこの世界でも生き抜いていけるかもしれない。ただ……現実問題として、俺自身の『レベル1、HP:100』という一般人レベルの紙装甲のステータスや戦闘力は全く変わらないままだ。この世界に溢れるモンスターに一発でも殴られたら即死だろうし、何よりこのファンタジー世界の法律、お金の稼ぎ方、地理が、まだ全くの無知で分からない)
タカはゆっくりとフェルの目の前にしゃがみ込み、彼女の真っ赤になった目元を不格好に覆う涙を親指の腹で軽く、優しく拭い取ってやると、彼女の純粋な翡翠色の瞳に真っ直ぐに視線を合わせて、真剣な大人の顔で穏やかに告げた。
「フェル。一生ついてくるとか、奴隷になるとか、そんな大袈裟なことや、お前自身を安売りして卑下することは二度と言わなくていい。俺はお前を助けたかったから、俺の意志で勝手に助けただけだ。俺自身のためでもある。でも……もし、本当に俺に恩を感じてくれているなら。少しの間でいいから、この世界における俺の『専属ナビゲーター』になってくれないか」
「ナビゲーター……? えっ、と、それは、案内役や秘書みたいなこと、ですか……?」
ぱちくりと瞬きをして小首を傾げるフェルに、タカは深く頷いた。
「そうだ。俺、さっきごまかした通り本当にド田舎の、すごく遠い国から来た田舎者でさ。まずはこの世界の常識やお金の稼ぎ方、それに文字の読み方から冒険者ギルドへの登録の仕方まで、お前に色々と基礎から手取り足取り教えてほしいんだ。家賃の代わりに、な」
「……はいっ! はいっ!! 私なんかでよければ、なんでも、何百回でも聞いてください! このアルベロの街のことなら、裏道の抜け道から一番美味しいお肉の屋台まで、お社の神様へのご挨拶の作法から全部知ってますから! タカさんの最強のナビゲーターになります!」
フェルは涙をごしごしと袖で拭い、太陽が昇ったような、ひまわりのような明るい満面の笑みで何度も大きく力強く頷いた。
タカの隣にいられるという嬉しさをごまかしきれないのか、彼女の背中のふさふさとした大きならくだ色のしっぽが、まるで犬のようにちぎれんばかりに左右にぶんぶんと激しく揺れている。
それから数日間、タカとフェルの穏やかな、だが慌ただしくも充実した「異世界での日常」が始まった。
フェルは宣言通り、最高のナビゲーターとしての才能を遺憾なく発揮した。タカがギルドで身分証を作るための最低限の読み書きを教わったのも、この頃だ。彼女自身は借金の呪縛から解き放たれたことで、本来の無邪気でよく笑う、年相応の明るい少女の顔を取り戻していた。
朝は早く起きて神社の境内の枯れ葉を掃き清め、昼はタカが手先と現代のDIY知識を活かして、雨漏りのひどかった本殿の屋根や、ギシギシと鳴る縁側の板を修繕した。
「わあ、タカさん! これ、ただ板を打ち付けたんじゃなくて、隙間に布を少し噛ませてるんですね。全然音が鳴らなくなりました!」
「ああ、クッション材代わりさ。湿気で木が縮んでもガタつかないようにするちょっとした工夫だよ。まあ、ホームセンター……じゃなくて、大工道具がもうちょっとあれば、もっと綺麗に直せるんだがな」
縁側の修繕を終えて二人で座り、フェルがいれてくれた熱いお茶をすする。木漏れ日が優しく降り注ぎ、時折吹き抜ける秋風が、周囲の木々を心地よくざわめかせる。
遠くから微かに聞こえるアルベロの街の喧噪や、荷馬車の車輪の音。そして隣で嬉しそうにお茶菓子を頬張るフェルの、ほのかに甘い体臭と温かい体温。
「……」
タカはふと、視界の右上に見えないように固定している自らのデバッグコンソールを見つめた。そこには無機質な緑色の文字列で、この世界を構成する環境変数が絶え間なく流れ続けている。
システム的に見れば、この風の音も、木漏れ日も、あるいは隣で笑うフェルでさえも、ただのデータの出力結果に過ぎないのかもしれない。
だが、彼がこの数日間で得た「実感」は違った。指先に残る木のささくれの痛み、お茶の苦味、そしてフェルから向けられる純粋な感謝と信頼の重み。これらは決して、仮想現実やただのプログラムから得られるような希薄なものではなかった。
(俺は今まで……現実の世界で、ただ仕様書と締め切りの間に挟まれて、エラーを吐き続ける機械のように生きてきた。でも、今は違う。エラーもバグも溢れているこの理不尽なファンタジー世界が、なぜか……あっちの『現実』よりも、ずっと血の通った、生きている手応えがある)
タカは小さく笑みをこぼし、茶碗を置いた。
「タカさん? どうかしましたか?」
小首を傾げるフェルに、タカは優しく短く首を振る。
「いや、なんでもない。ただ……この神社、結構居心地がいいなって思っただけだ」
フェルの顔が、ぱぁっとひまわりのように明るく輝いた。彼女の大きなしっぽが、背後でパタパタと嬉しそうに床を叩く。
「はいっ! タカさんがいると、神様もきっと喜んでくれてます! ここは、タカさんの『おうち』ですから! いつでも、ずっといてくださいね!」
こうして、理不尽なシステムと仕様の穴にまみれた異質なファンタジー世界と、最弱ながらも深層を覗き見ることができる「デバッグコンソール」を手にした元システムエンジニアの男。
そして、彼に命と心を救われ、無類のお人好しである純白の狐耳少女フェルの、長く泥臭く、しかし決して退屈しない冒険の旅が、この静かで古びた『迷い神の神社』から、確かに幕を開けたのだった。




