プロローグ
# 第1章:ログアウトできない世界
「……仕様変更、ですか。明日の本番リリース直前で?」
無機質なLED蛍光灯の下、タカの声が深夜のオフィスに虚しく響いた。
受話器の向こうからは、クライアントの無茶な要求と上司の冷たい謝罪が入り混じったくぐもった音声が漏れ聞こえてくる。タカの目の前には、見慣れた黒いエディタ画面に赤のエラー表示で埋め尽くされた何万行ものソースコードが無情に広がっていた。
(もう、三日連続で家に帰ってないんだけどな……)
鈍く痛む頭を押さえながら、タカは重い息を吐き出した。
デスクの上には、飲みかけの缶コーヒーが三本。コンビニのおにぎりの空袋。
隣のデスクはとっくに空だ。後輩のSEは先月、「もう限界です」と泣きながら退職した。その前の月には、五年目の先輩がうつ病で休職した。チームは最初十二人いたはずが、今は三人しか残っていない。それでも案件は減らない。クライアントの要求は増え、納期だけが短くなっていく。
タカが最後に心から笑ったのは、いつだっただろう。
大学時代の友人は、一人また一人と結婚していった。SNSに流れてくる写真は、赤ちゃんの顔や旅行先の風景。タカはそれを見るたびに「いいね」を押し、その直後にアプリを閉じた。
別に羨ましいわけではない。ただ——自分の人生の画面には、コードのエラーログ以外に何も表示されていないことに気づくのが、少しだけ辛かった。
思い出せない。思い出そうとする余裕すらない。この三日間で書いたコードの行数は覚えている。四千二百行。バグの修正数は覚えている。六十三件。だが、最後に笑った日は覚えていない。そして、もう何日も充電したままろくに見ていないスマートフォン。友人からのメッセージは一ヶ月以上返していない。両親への連絡は、もう何年もしていなかった。
三十歳。独身。ワンルーム。趣味は仕事から帰って布団に倒れ込むこと。この人生に「ログアウト」というボタンがあったら、とっくに押していたかもしれない。
モニターのバックライトが容赦なく網膜を焼き、エアコンの吹き出し口から流れてくる乾燥した風が、乾ききった目をさらに刺激する。30歳という年齢以上に擦り切れた体がそこにあった。キーボードの隙間にはいつ溢したかもわからないコーヒーのシミが残り、デスクの脇には栄養ドリンクの空き瓶が要塞のように積み上げられている。
これほどまでに過酷な環境であっても、この終わらないデスマーチは、彼の人間らしい感覚を確実に麻痺させつつあった。思考のノイズを打ち消すように、タカは冷え切った缶コーヒーを無造作に胃に流し込んだ。
数時間後。
限界を迎えたタカは「もう知るか」と呟き、強制終了のショートカットキーを叩きつけてPCを無理やりシャットダウンした。鞄をひったくるようにしてオフィスを飛び出し、終電をとうに逃した深夜の駅前をふらついていた。
街灯に照らされたアスファルトは冷たく、時折通り過ぎるタクシーのヘッドライトが彼の疲れ切った顔を無遠慮に照らしていく。行きつけの安い居酒屋の赤提灯に吸い寄せられるように転がり込み、油とタバコの匂いが染み付いた古びたカウンター席へ倒れ込んだ。
言葉を発する気力すらなく、無言で指を立てて注文した泥のように冷たい生ビールを、空っぽの胃袋へ一気に流し込む。
何杯目を空けたのか、もはや数えることもできなくなった頃、急激な目眩が彼を襲った。
周囲の酔客のざわめきが薄い膜を通したようにくぐもり、天井に貼られた安っぽい木目の壁紙がぐるぐると渦を巻くように回りだす。重力に逆らうことを諦めた彼の体は傾き、ジョッキの底にわずかに残ったビールの泡を見つめたまま、意識は深い泥の底へと沈んでいった——。
***
「……っ、痛ぇ……」
頭の奥でガンガンと鐘を打ち鳴らすような鈍痛が響いた。タカは顔をしかめながら、接着剤でくっついたかのような重い瞼をどうにかこじ開けた。
口の中に広がるのは、ひどい二日酔い特有の胃液の酸っぱさと、ザラザラとした埃っぽい泥の味だった。
「ここは……?」
ぼやける視界を手の甲でこすり、ゆっくりと周囲を見渡す。
そこにあるのは、見慣れた自室の白い天井でもなければ、オフィスの殺風景なパーテーションでもない。
周囲には、大小さまざまな形の石が不規則に敷き詰められた石畳の路地裏が広がっていた。壁面には青々とした湿った苔がびっしりと張り付き、それが雨上がりのような土と緑の入り混じった青臭い匂いを放っている。そして、中世ヨーロッパの裏通りを思わせる、年季の入ったレンガ造りの建物の壁がどこまでも高く立ち並んでいた。
(……ああ、なるほど。飲みすぎたな。こりゃ夢だ)
タカは仰向けのまま、石造りの建物の隙間から覗く見知らぬ群青の空を見上げながら、最初にそう結論づけた。
三日間の徹夜デスマーチの末にヤケ酒をあおったのだ。脳がショートを起こして突拍子もない夢を見ていたとしても、何の不思議もない。あの手のストレス性の悪夢は、理不尽な仕様変更の連絡が来た直後によく見る。大抵は終わりのない無限ループのエレベーターに閉じ込められるか、本番環境のデータベースが全件吹き飛んでいる夢だが、今回はずいぶんと凝ったファンタジーな舞台セットだ。
そう思って大きく深呼吸をした。
身を起こしたタカは、己の突き出した両手を見下ろした。
手のひらは赤黒い泥と細かな擦り傷で汚れていたが、指先にはキーボードを何年も叩き続けてきた証である薄いタコの感触がしっかりと残っている。親指の爪の形も、左手の中指にある、子供の頃にカッターで作った古い切り傷の跡も、紛れもなく自分の手のものだった。
だが、左手首に常に嵌めていたはずの、長年愛用している安物のデジタル腕時計がない。チノパンのポケットを両手で探っても、昨夜までは確かに持っていたはずのスマートフォンの硬い感触も見当たらない。残っているのは、キーリングについた自宅のディンプルキーと、使い古した革財布だけだった。
(所持品の一部が消えてる……? いや、酔って落としたのか。それとも掏られたか)
タカは壁際に手をついて立ち上がり、赤茶けたレンガの表面に指を這わせた。
ざらついた石の立体的な感触。指先でゆっくりと撫でると、目地に詰められたモルタルのような粗い素材の、日の光が当たっていない部分の微妙な温度差までが皮膚を通して伝わってくる。爪を立てて引っ掻いてみると、小さな砂粒がポロリと崩れて足元へ落ちた。
そうして薄暗く湿った路地裏を抜け、眩しい光の射す表通りへと歩き出したタカの前に、彼の常識を根底から覆す異様な光景が広がった。
活気に満ちた、石造りの大通り。木組みと焼きレンガで強固に造られた背の高い建物が立ち並び、道端には色鮮やかな見たこともない形状の果実や、ジュージューと音を立てて豪快に肉を焼く屋台が軒を連ねている。人々の熱気と笑い声の波とともに、強烈な香辛料と野性味あふれる獣の脂の匂いが熱風に乗って鼻腔を強く打った。
何よりタカの目を釘付けにし、その場に縫い止めたのは、そこを行き交う人々の姿だった。
麻布や使い古された革でできた、ひどく実用的で粗末な服を着た人間たちに混じり、犬や猫のようにピンと尖った獣の耳を持つ者、屈強な爬虫類のように全身を分厚い鱗で覆った者たちが、ごく当たり前の日常風景としてその場に溶け込んでいる。
飛び交う言葉の響きは、日本語とも英語とも全く異なっていた。母音と子音の組み合わせすら未知の法則で構成されており、耳慣れない摩擦音が混ざっている。軒先に吊るされた木製の看板に刻まれた文字も、幾何学的な記号を組み合わせたような、地球上のいかなる言語体系にも属さない未知の文字列だった。
タカは慌ててポケットの奥を探り、財布の中身を改めて確認する。
出てきたのは、くすんだ銀色のディンプルキーと、福沢諭吉や野口英世が印刷された紙幣、そして数枚の硬貨だけ。当然ながら、この見知らぬ異邦の地では、なんの価値もない無力な金属片とただの紙切れにすぎない。
「……冗談だろ。おい」
タカは大通りの端にある石柱に背中を預け、両手で頭を抱え込んだ。
パニックになりかかる思考を無理やり押さえつけ、仮説を整理する。これは長年のSE生活で染み付いた職業病であり、生存本能でもあった。どんなに突拍子もない障害が発生した状況でも、まずは冷静に問題の切り分けから始めなければ、二次災害を起こして終わる。
(仮説1:夢。——却下だ。痛覚がはっきりしすぎている。匂いも手触りも、夢で感じるぼやけた感覚とは次元が違う。手のひらのタコも爪の形も現実の俺と完全に一致しているし、石の温度まで感じられる)
(仮説2:最新のVRゲーム。——却下寄り。今の技術じゃ匂いはまず再現できない。触り心地だって、コントローラーの振動レベルで『押された錯覚』を出すのが精一杯で、石の表面の『温度差』や『砂粒がポロッと崩れる感触』なんて到底無理だ。脳の神経に直接信号を送るフルダイブ型デバイスに至っては、2024年現在まだ研究室レベルの与太話だし、一般に出回るはずがない。これが現代技術で実現可能だとしたら、俺は知らないうちに国家機密級の人体実験に巻き込まれて薬漬けにされていることになる。流石にそれは陰謀論が過ぎる)
(仮説3:薬物による幻覚。——可能性は残るが、居酒屋のビールに何か混ぜられたとして、これほどまでに論理的で一貫した物理法則や世界構造を持つ幻覚は聞いたことがない。幻覚なら普通、もっと空間が歪んだり、脈絡のない風景がフラッシュバックするはずだ)
タカは乱暴に自分の頬を思い切り平手で叩いた。
パーンと乾いた音が響き、じんと痺れるような痛みがはっきりと残る。叩いた手のひらも、叩かれた頬も熱をもっている。
足元の硬い石畳を踵で強く蹴ると、鈍い衝撃がつま先から膝の関節まで骨を伝わって響いた。石畳の目地の割れ目から雑草が顔を覗かせていて、その緑の葉を親指と人差し指で摘むと、ぷちりという繊維のちぎれる感触とともに切れ、指先にわずかに青臭い緑色の汁がにじんだ。
この圧倒的な情報の解像度。この五感の忠実なフィードバック。そして何より——自分がこうしてパニックに陥ることなく、冷静に「仮説の立案と検証」をできていること自体が、夢や幻覚の中では起こりにくい「高度なメタ認知」だった。
(……認めたくないが、消去法で残る仮説は一つしかない)
これは、現実だ。
俺は、本当に見知らぬ世界に飛ばされたのか。
じわじわと腹の底から湧き上がる、どす黒い絶望感。現代社会で培ってきたサーバー構築のノウハウや、データベースの最適化、プログラミング言語のスキルなど、この剣と魔法のような世界では1ドットの価値すらないだろう。
だが、このまま大通りの真ん中で途方に暮れてへたり込んでいても始まらない。
(まずは情報だ。言葉が通じるかは怪しいが、どうにかして自分が『役立つ人間』であることを証明して、その日の水と飯、安全な寝床を確保しなきゃ、あっという間に野垂れ死ぬ……)
タカは重い足取りで石柱から背を離し、再び歩き出した。
異形の人々が行き交い、目立つ大通りでの無用なトラブルを避けるため、人通りの少ない薄暗い裏道や路地を選びながら、どうにかコミュニケーションを取れそうな、隙のある相手を探してあてもなくさまよう。
どれくらいの時間、迷宮のような路地を歩き続けただろうか。
ふと、さらに奥まって入り組んだ別の路地裏へ差し掛かった時、タカは遠くから聞こえてくる、何やら言い争うような、くぐもった声に気づいた。
足元をふらつかせながら、声のする方へとレンガの壁に身を隠しながら慎重に歩みを進める。
路地はさらに狭くなり、両側の建物が覆い被さるように頭上で接近している。空は細い一筋の青にまで縮まり、足元の石畳は日が差さないせいで苔と泥に覆われて、ひどく湿っていた。排水溝から這い出てきた腐った野菜くずと、獣の糞尿が混ざったような悪臭が、ドブの底からじわりと立ち昇ってくる。
薄暗い路地裏のどん詰まり。日が差し込まないその場所で、タカの目は信じられないものを捉えた。
「おいおい、そんなに嫌がらなくてもいいじゃねぇか」
「少し遊ぶだけだって。減るもんじゃなし、な?」
ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる男たちが2人。彼らは手入れの悪い薄汚れ、所々ヒビの入った安い革鎧を着込んでおり、腰には無骨な鉈のような剣を提げている。むせ返るような汗と安い酒、そして獣の脂が混ざったような体臭がここまで漂ってきそうな、いかにもガラの悪い風貌だった。
そして、彼らに汚いレンガの壁際へと追い詰められ、身を縮こまらせて震え、怯えている小柄な少女が1人。
タカが驚愕したのは、乱暴な男たちに対してではなく、その震える少女の方だった。
背中の真ん中あたりまで伸びた、月明かりを思わせる美しい銀色の髪。そして、その頭の頂点からピンと上に向かって生えている、毛並みの良い「狐の耳」。
怯えて膝を折る彼女のスカートの裾からは、同じくふさふさとしたボリュームのある銀色の尻尾が、不安と恐怖を代弁するように小刻みに揺れている。
その服装は、いわゆる中世ヨーロッパ風の質素な村娘の服というには少し洗練されており、どこか古風で、タカも見覚えのある日本の神社で見かける「巫女装束」に近い、白と赤を基調とした意匠を帯びていた。
(……狐耳? マジかよ。本物のファンタジー世界の住人か?)
だが、路地裏のドブが腐ったような酷い臭いも、ズキズキと脈打つ二日酔いの頭痛も、あまりにもリアルすぎる。
少女は壁に背中を押し付け、必死に身を守るように自分の肩を両手で抱いていた。翡翠色の大きな瞳には涙が溢れ、狐耳は恐怖で完全にぺたんと伏せられている。
——彼女の表情は、「これから何をされるかわかっている」人間のそれだった。
タカの脳裏に、一瞬だけ、まったく無関係な記憶がフラッシュバックした。
新人の頃、隣の席で炎上プロジェクトの尻拭いを一人で押し付けられて、毎日トイレで泣いていた後輩SE。彼女が「もう限界です」と訴えたとき、チームの誰もが見て見ぬふりをした。あの時の自分も、結局は黙って見過ごした一人だった。
あの時の後悔だけは、どれだけコーヒーで流し込んでも、二度と胃の底から消えなかった。
頭では状況を整理しきれていないまま、タカの身体は無意識のうちに暗がりから一歩を踏み出していた。
「あー……すいません。そこ、通っていいですか?」
とぼけたようなタカの声に、男たちの刺すような鋭い視線が一斉にタカへと突き刺さる。
狐耳の少女——フェルも、びくっと肩を跳ねさせてハッと顔を上げ、すがるような目でタカを見た。
「あァ? なんだテメェ。引っ込んでろ、痛い目見たくねえならな」
「あ、いや、道を聞きたいだけなんですけど——」
タカが引きつった愛想笑いを浮かべながら、両手を軽く上げて間を取り持とうとした、次の瞬間。
男の一人が苛立たしげに舌打ちをしたかと思うと、まったく予備動作のないまま踏み込み、タカの腹に向かって重く鋭い一撃が放たれた。
「ぐはっ……!?」
肺の中の空気が一瞬で強制排出され、呼吸が止まる。
胃液が逆流し、唾液と混ざって口の端からだらりと垂れた。想像を絶する衝撃——日本でどんなに理不尽な上司に怒鳴られても、終電を逃して深夜の道を歩いても、こんな物理的な暴力を受けたことはない。これが『現実の暴力』なのだと、30年間温室で育った身体が遅れて理解する。
反射的に胃の腑を押さえてうずくまったタカの視界の端で、泥にまみれた男の汚れたブーツが、今度は顔面に向かって容赦なく振り上げられるのがスローモーションのように見えた。
ドスッ!
「がっ……!」
顔面にモロに蹴りの直撃を食らい、タカの身体は路地裏の汚水溜まりへと、無様にボロ布のように吹き飛んで転がった。
冷たい泥水が頬を打ち、口の中に砂利と泥が入り込む。口の中の粘膜を激しく切ったのか、鉄錆のような生臭い血の味が口いっぱいに広がる。
(痛ぇ……。痛すぎるだろ。検証するまでもねぇ……。骨の髄まで響く、容赦のない現実の痛みだ……)
うつ伏せに倒れたまま、泥水の中で指先が微かに痙攣する。視界の端には、男たちの汚いブーツと、その向こう側で、壁際にへたり込んだフェルが口元を両手で押さえ、声にならない悲鳴を上げているのが、ぼやけた視界の中で遠く見えた。
焦点が合わなくなり、急速に薄れゆく朦朧とした意識の中で、男たちの品の無い嘲笑と、フェルの悲鳴のような甲高い声が水底から響くように遠く聞こえた。
そして同時に、タカの視界の隅、暗闇のキャンバスに直接描かれるようにして、見慣れたターミナルのような「緑色の文字列」がチカチカと点滅し始めていることに、彼はまだまったく気づいていなかった——。




