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秋の亡霊  作者: 山口遊子


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第1話 キャラバンサライ。逃亡

『Isfahan Half of the World』(https://youtu.be/yV3E5nXJcVc)って曲を音楽AI、sunoで作った関係で、こういうのを思い立って書いてみました。いちおう17世紀初頭のペルシャ(イラン)を舞台にしていますが、登場する国名などは架空です。

よろしくお願いします。


 ここはシルクロードが交わるホルシード帝国の都イスファハーン。

 夕暮れのイマーム広場に、モスクのドームから跳ね返る青い光が満ちる。広場に隣接するバザールからスパイスと革の匂いが漂い、噴水の音がわずかに聞こえてくる。


 そのバザールの一角にサルヴ・エ・ゼリン(黄金の糸杉)と呼ばれるキャラバンサライ(隊商宿)があった。そこに客のロバの手綱を引いて、中庭の中央の噴水の周りの水場に案内する男の姿があった。


 男の名はナシール。男の左頬には生々しい刀傷が残っている。1カ月ほど前にイスファハーンに着の身着のままで流れてきた男だ。


 夜明けから日暮れまで、キャラバンの馬やロバの世話、それに厩舎の掃除、そして荷運びを続けた1日の給金は20フィルス(注1)だった。20フィルス=1ディルハム(銀貨1枚)といえば、サライの1泊分の宿賃だし、食料だけなら数日分買うことができる。生きていくには十分かもしれないが、その報酬では何かをなそうとするにはあまりに足りなかった。それでも男は黙々と働いていた。


 その日もナシールは仕事を終えてサライのあるじであるガザルから1日分の給金を貰った。

「今日もご苦労さん」

「どうも」

「ある程度は金が貯まってるんだろ? たまには酒でも飲んで羽目を外しちゃどうだい」

「いえ、酒は」

「そうかい。無理にとは言わないがね」


 ガザルは、カシュマールで傭兵隊長をしていた、と自慢げに語るのが常の隻眼の老婆である。カシュマールはホルシード帝国の東北、キャラバン(隊商)だと、ここイスファハーンから10日ほどの距離にある小国である。


 ガザルから受け取った銀貨1枚を腹帯に大切にしまったナシールは、ガザルの部屋から厨房の裏口に回ってその日の夕食をもらい、それを持って中庭に出て、庇の下に座って右手で食べ始めた。夕食の内容はいつもと同じで、丸パンが1つと、具が多めに入ったスープが一皿だ。


 食べ終わったナシールは厨房に礼を言って皿を返し、サライで働く人夫たちの雑魚寝部屋に帰っていった。そしてナシールは暗い部屋の片隅で体を横たえ、明日の仕事に備えた。


 その雑魚寝部屋の片隅はナシールの専用として、人夫頭に認めてもらっている。そのことは他の働く者たちも承知しており、わずかなナシールの私物が盗まれることはない。


 ナシールが目を閉じてしばらくしたところで、噴水のある中庭のあたりから若い女の歌声が聞こえてきた。

 気になったナシールは起き上がり、部屋から出て中庭に歩いていくと、月が雲で隠れた暗い空の下、若い女が中庭の真ん中にある水場の水辺に腰を掛けているのが見えた。


 ナシールが歌声に向かって歩いていくと、歌声は急に止み「誰!?」と女がナシールに向かって硬質の声を上げた。


「ナシール。ここで働いている」

「そう。それならわたしの同僚ね」

「同僚ということは、あんたもここで働いているということか?」

「そう、食堂の雑役婦として住み込みで働いているの。よろしくね。あれ? あなたその顔の傷は?」

 暗がりでもナシールの左頬の傷ははっきり顔に浮き出ていた。

「盗賊とやり合ったんだ」

「まあ、かわいそう。でも生きて、ここにこうしているってことは勝ったってことよね?」

「なんとか」

「その傷がなければ十分ハンサムだったのに」

「世の中とはそういうものじゃないか?」

「そうね。全てが揃わないのが世の中よね」

 達観したようなその言葉にナシールも頷いたのだった。

 その時、雲から青白い月が覗き、女の顔を照らした。


 あっ!


「うん? 今何か言った?」

「いや、何も言っていない」

「そう。でも、その傷のおかげで、男らしさは増してるんじゃない?」

「ありがとう」

「嘘じゃないから安心して」

「君と知り合えてよかったよ。明日の仕事があるから、それじゃあ」

「それじゃあ」

 ナシールは逃げるようにその場から雑魚寝部屋に戻っていった。

「変な人」



 雑魚寝部屋に戻ったナシールは、自分の寝床で横になり、一言つぶやいた。

『彼女は確かにハサンの妹に面影がよく似ていた。ハサンの妹の名前は確かシリーン。会ったのはもう5年も前だから、彼女かどうかはわからない。でも先ほどの若い女の歳は今のハサンの妹と似たようなものだろう。ハサンが自分を助けたことはもちろん計画的だったわけだから、事前に妹をカシュマールから逃がしたことは十分考えられる。ハサンの両親は二人とももう亡くなっていたから、たった一人の身内のはずだ。もし彼女がハサンの妹なら、自分には彼女に対して責任がある。ただ、今の自分では何もできない』



 目を閉じたナシールのまぶたの内側に2カ月前の出来事が蘇ってきた。


 カシュマール大公が住むカスレ・サルヴ館の前の広場、午後9時少し前。公開処刑の準備が進められ、処刑台には既にシャリアール公子が横向きに引き据えられている。刑場はシャリアールの実兄である現大公バフラームの近衛兵たちで囲まれ、彼らを遠巻きに取り囲む群衆は、刑の執行を待って静まりかえっている。


「……。よってシャリアール公子を前大公を弑逆した罪によりこれより腰斬の刑に処する」


 刑務官が巻物状の命令書を拡げて読み上げていき、最後に群衆に向け命令書を差し上げて示した。

 シャリアールの手足は革紐で繋がれた腕輪と足輪で拘束され、処刑台の上に横向きに寝かされて身動きは取れない。兄バフラームが刑の執行を眺めているはずだが、うつぶせに引き据えられて身動きできないシャリアールからは刑場の奥から己の刑の執行を眺めているであろうバフラームの姿は見えなかった。


 シャリアールは息を大きく吐き出し、執行人が大型の円月刀を振り上げるのを待った。

 そこで、群衆の輪から一本の矢が放たれ、執行人の胸を射抜いた。

 群衆が状況を理解する前に、その輪の一部が割れ、10人ほどの男たちが刑場を囲む兵士たちに斬りかかっていった。


 怒号が飛び交う混乱の中、乱入した男たちの中の一人が刑場に飛び乗って、動きの止まった刑務官を切り伏せ、そして、手にした大刀をシャリアールをつないだ革紐に打ち付け、4本の革紐を全て断ち切ってしまった。

「公子!」

「ハサン!」

「公子、わたしについてきてください」

 刑場前に乱入した残りの男たちが近衛兵を抑えて作った間隙に向かってハサンと呼ばれた男が刑場から飛び降り、そのあとを追ってシャリアールが飛び降りた。


 遠巻きにして成り行きを見守っていた群衆の中にハサンが突っ込んでいき、そのあとをシャリアールが続いた。シャリアールの背中では、男たちが兵士たちと切り結んでいる剣戟の音が怒号に交じって聞こえていた。


 広場を通り抜けたハサンは、広場に続く大通りに出て、さらにそこから裏道に入って行き、しばらくして立ち止まった。追手の気配はまだないが、時間はそれほどない。

「公子、そこの蓋を開ければ地下水道への梯子があります。梯子を下りたところに地下水道の地図、ランプ、旅装など置いています。このままホルシードに逃れて下さい。わたしは追っ手をまきます。追手が近づいてきています。公子早く!」


 シャリアールは道横の格子状になった蓋を開けて梯子を下っていき顔が隠れたところで、すぐに蓋が閉まる音がした。そしてハサンが駆け去っていく足音が聞こえてきた。


「済まない。ハサン」





注1:

通貨単位   現代の価値イメージ

1フィルス銅貨 約100円

1ディルハム銀貨(20フィルス)約 2000円

1ディナール金貨(50ディルハム)約 10万円


物価の目安:

パン1個、桶一杯分の飲み水、馬の餌(一食分)、チップ=1フィルス

市場の定食、安酒のボトル、洗濯代行=10フィルス

サライの雑魚寝1泊=1ディルハム

丈夫な革靴、並の短剣=2~3ディルハム

サライの個室1泊(食事付)、良質なナイフ=5ディルハム

街着=10ディルハム

上質な絹の衣装一式=10ディナール、一般的な乗用馬

軍用の名馬、特注の武器、貴族の婚礼衣装=20ディナール

一流の暗殺者への依頼料、小さな商船、家一軒=100ディナール



カリフ:日本でいえば天皇に相当。権威はあるが権力はない。名前だけ登場するかもしれません。敬称は陛下。

スルタン:日本でいえば征夷大将軍に相当。本作では皇帝ないし王と表記。敬称は陛下。

アミール:日本でいえば大名に相当。本作では大公と表記。敬称は殿下。

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