第1話 最初の一針
花の香りがした。
朝の光を受け、磨き上げられた銀器が白くきらめいている。廊下を行き交う使用人たちは、花瓶や菓子皿を手に、いつもよりわずかに速い足取りで東棟へ向かっていた。
「その薔薇は東の応接間へ。リディア様のお席から、正面に見える位置へ置いて」
「フェルノア伯爵家の馬車は、予定どおり十一時に到着なさいます」
「では、リディア様にも最後の確認を。主役を立てる振る舞いを、今一度お教えしておきませんと」
階段の踊り場で、私の足が止まった。
主役を立てる。
視線が集まる席。花の位置。立つ順番。歩く道筋。
一つひとつは、ごくありふれた茶会の準備に見える。けれど、使用人たちは誰一人、花瓶の位置を尋ねず、椅子を一寸動かすことさえしない。初めから同じ完成図を見せられているかのように、迷いなく手を動かしていた。
茶会を開くのなら、客人の好みや子どもたちの気分に合わせ、直前まで細かな変更が出るものだ。それが今日はない。歓迎のためというより、決められた光景を崩さないための準備に見えた。
この段取りに、妙な覚えがあった。大勢が同じ場所を空け、同じ向きへ視線を誘導する。どこで見たのだったか。
今日の茶会には、あらかじめ見せたい光景がある。
そう気づいた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
知らないはずの景色が、濁流のように押し寄せてくる。手のひらに収まる薄い機械。画面に映る色鮮やかな少女たち。選択肢。好感度。攻略対象。そして、何度やり直しても同じ場所で断罪される侯爵令嬢。
舞台の袖で進行表を握っていた自分の姿まで蘇る。ゲームを遊んだ夜も、舞台監督として働いた日々も、今とは別の人生の記憶だった。
淡い金髪に、青灰色の瞳。
リディア・アルヴェイン。
私の娘だ。
「……ここは、『セレスティアの花冠』」
唇からこぼれた題名を聞く者はいなかった。
王立学園を舞台に、平民街で生まれた少女が光の祝福に目覚め、友情と恋を手に入れる乙女ゲーム。その主人公がアイリスだ。
ゲーム本編は、彼女が王立学園へ入学してから始まる。けれど現在のアイリスはまだ七歳。両親を亡くしたのちに光の祝福が見つかり、遠縁のフェルノア伯爵家へ引き取られてから、まだ一年足らずしか経っていない。伯爵令嬢と呼ばれてはいても、貴族社会の中では周囲の顔色を窺うことしかできない少女だった。
そして私は、主人公でも、悪役令嬢でもない。
ローゼリア・アルヴェイン。侯爵アルベリクの後妻であり、前妻の忘れ形見であるリディアを厳しく育てる継母。
愛情を与えず、他人を見下すことだけを教え、最後には娘の行いをすべて教育係のせいにして切り捨てる女。
画面の中では、そう描かれていた。
でも、私はまだ何もしていない。
――いいえ。
本当に、そう言い切れる?
アルベリクと結婚して、もうすぐ一年になる。
亡くなった母親の代わりになろうとしてはいけない。突然現れた後妻が距離を詰めれば、リディアを戸惑わせるだけだ。周囲からそう諭され、私自身もそれが正しいと思っていた。
朝食の席では体調を尋ねた。季節ごとにドレスや本を贈った。教師から届く報告にも目を通していた。
けれど、あの子の好きな花を、私は知らない。
眠れない夜に誰を呼ぶのかも、悲しいときにどんな顔で泣くのかも知らない。
踏み込まないことを思いやりと呼び、私はあの子を教育係に任せていた。
指先が急速に冷えていくのを感じた。
今日、東の応接間で開かれる小さな茶会は、ゲーム序盤の回想で語られる出来事だった。
七歳のリディアが、同い年のアイリスへ初めて棘を向ける。大人たちは「侯爵令嬢らしいこと」と笑いながら、傷ついても健気に微笑むアイリスへ好意を寄せる。
それから何年もかけて、リディアは嫌われる言葉ばかりを覚えていく。
今日の一言が、リディアの悪評の始まりになる。
「リディアはどこにいるの」
近くにいた侍女へ尋ねると、私の声が思った以上に低かったのだろう。彼女は肩を揺らし、慌てて頭を下げた。
「お、お部屋でお支度中でございます。コルネリア先生がおつきです」
「そう」
返事だけを残し、階段を上る。
裾が足へ絡みつく。普段なら侯爵夫人らしく歩けと注意される速さだったけれど、今は構っていられなかった。
娘の部屋の前へ着いたとき、中から細い声が聞こえた。
「あなたのような方とは、釣り合いませんわ」
たどたどしい声だった。
「身の程を、お知りなさい」
一語ずつ、間違えないよう確かめている。
「そのような品のない振る舞い、見ていられませんわ……」
最後の言葉は震え、かすかに途切れた。
私はノックをすることも忘れ、扉を開けた。
大きな鏡の前に、小さな背中が立っている。
淡い金髪はきれいに結い上げられ、薄青のドレスには銀糸の刺繍が施されていた。胸元から裾まで、一針ずつ重ねられた蔓薔薇は見事だった。
白い指先が刺繍の蔓を握り込み、せっかくの銀糸を引きつらせていた。
「リディア」
名前を呼ぶと、彼女の肩がびくりと跳ねた。
振り向いた顔に浮かんだのは、喜びではない。叱られる前の子どもが見せる、硬い緊張だった。
「お、お義母様……。申し訳ございません。まだ最後まで、きれいに言えなくて」
喉の奥が苦くなった。
「誰に教わったの?」
「コルネリア先生です。立派な令嬢は、相手との違いを正しくお示しになるものだと」
リディアの視線が、部屋の奥へ動く。
そこには、教育係のコルネリアが立っていた。灰色の髪を隙なく結い上げ、濃紺のドレスには皺一つない。左手には革張りの小さな帳面があり、私が入室したとき、開いていた頁を音もなく閉じていた。
「格の異なる相手へ曖昧な態度を取れば、ご自身だけでなく侯爵家まで軽んじられます」
コルネリアは悪びれる様子もなく答えた。
「リディア様はいずれ、多くの者の上に立つお方。情けと威厳を使い分けることも、必要な教育でございます」
「そのために、人を傷つける言葉を暗唱させているの?」
「傷つけるかどうかは、受け取る側の問題かと。リディア様には、侯爵令嬢として適切な型を身につけていただいております」
「型……」
「型があるからこそ、令嬢は迷わず振る舞えるのです」
迷わず。
たしかにリディアは迷っていた。人を傷つけたくない気持ちと、言われたとおりにしなければ愛されないという恐怖の間で。
その迷いをなくすために、嫌な言葉を何度も繰り返させる。
それは教育ではない。
「リディア」
私は彼女の前へ歩み寄り、目の高さまで腰を落とした。
近くで見ると、青灰色の瞳には薄く涙が張っていた。泣けば化粧が崩れるからと、こらえているのだろう。
「立派な令嬢は、人を見下すの?」
「その……下の方には、きちんと線を引いて、負けないようにしなくてはならないと……」
「あなたは、その言葉を言いたい?」
リディアは答えなかった。
すぐにコルネリアの顔を見て、それから私の表情を窺う。どちらが求める答えを言えば叱られないのか、必死に探している。
私は自分の問いを恥じた。
また、この子に正解を選ばせようとしている。
「ごめんなさい。今すぐ答えなくていいわ」
「……え?」
「言いたくないことは、言わなくていい。それだけ覚えて」
「でも、上手にできなければ、侯爵家の威厳を損なうと……」
「そんな品のない言葉を、あなたの口に載せる必要はありません」
私は、リディアの目をまっすぐに見た。
「あなたが背を伸ばし、相手へ礼を尽くして座っていれば、それで十分です。誰かを貶めなければ保てないほど、アルヴェイン家の名は軽くありません」
私は、少し傾いていた髪飾りへ手を伸ばした。
触れる前に、リディアの肩が小さく強張る。許しを得るようにゆっくり直すと、彼女は瞬きもせず私を見つめた。
「ここまで覚えようとしたのね。よく頑張ったわ」
「……ほんとうに?」
「ええ。本当に」
褒められると思っていなかったのだ。
その顔を見た途端、胃の底で燻っていた後悔が、鋭い怒りへ変わった。
七歳の子どもが、愛されるために誰かを傷つける言葉を覚えている。
こんなことを、今日まで見ようともしなかった。
「奥様」
コルネリアの声が冷たく割り込む。
「一時の感情で教育方針を変えられては、リディア様が混乱なさいます。本日の茶会は、これまでのお稽古を実践する大切な機会でございます」
「そう」
私は立ち上がった。
「では、私も同席します」
コルネリアの眉が、ほんのわずかに動いた。
「奥様は、午前中に王都救貧院の理事とのご面会があると伺っておりますが」
「先方へ時刻の変更をお願いします。娘の初めての茶会より優先すべき面会ではありません」
「しかし、急なご同席はフェルノア伯爵夫人にもご迷惑を――」
「侯爵家で開かれる、侯爵家の娘の茶会です。母親が同席して、何か不都合があるの?」
返事はなかった。
代わりに、コルネリアは左手の帳面を腰の物入れへしまおうとした。その動きだけが、先ほどまでの彼女にはなかった速さだった。
閉じられる寸前、頁の端に並んだ文字が見えた。
――あなたのような方とは、釣り合いませんわ。
つい先ほど、リディアが暗唱していた言葉だ。
「その帳面を見せてちょうだい」
コルネリアの手が止まる。
「リディア様の教育上の覚え書きでございます。奥様にお見せするほどのものでは」
「侯爵家の娘について記したものを、母親である私が見てはならない理由があるの?」
私は彼女の前へ歩み寄り、手を差し出した。
声を荒らげる必要はない。視線を外さず、指先を動かさずに待つ。沈黙へ耐えられなくなったほうが先に譲ることを、私はよく知っていた。
コルネリアの口元が硬くなる。
それでも侯爵夫人の命令を公然と拒むことはできず、彼女は帳面を差し出した。
私は受け取り、先ほど開かれていた頁へ戻る。
今日の日付と、東の応接間という場所。その下には、茶会の進み方が整った文字で並んでいた。
――アイリス嬢、薔薇の菓子について質問する予定。
――リディア様、「あなたのような方とは釣り合いませんわ」と返答。
――アイリス嬢、一度目を伏せ、一拍置いたのち、悲しみを隠して微笑む予定。
心臓の音が、耳のすぐそばで跳ねた。
覚えている。
ゲームの回想で、まったく同じ順番、まったく同じ言葉を見た。
けれど、それ以上に異様なのは、他家の娘であるアイリスの問いかけや仕草まで記されていることだった。
コルネリアがリディアへ命じるだけでは、こんな進行は成立しない。
フェルノア伯爵家の教育係と、事前に示し合わせているの?
それとも――この女も私と同じように、ゲームの筋書きを知っている?
考えたくはない。だが、どちらかでなければ説明がつかなかった。
「教育上の手控えに、なぜフェルノア嬢の仕草まで必要なのかしら」
コルネリアは答えない。
その沈黙だけで、今日の茶会が子ども同士の自然な交流ではないことは十分に伝わった。
私は帳面を閉じた。
「これは私が預かります」
「ですが、奥様」
「異論があるなら、茶会のあとに聞きましょう」
誰がどこまで関わっているのか。何のために、二人の少女へ同じ場面を演じさせようとしているのか。
今ここでコルネリア一人へ背後の事情を問いただしても、用意された答えを聞かされるだけだ。まずは、東の応接間で何が待っているのかを自分の目で確かめる。
ただ一つ、もう疑いようのないことがある。
これは、令嬢教育の覚え書きなどではない。
リディアとアイリスへ違う役を与え、決められた場面を演じさせるための台本だった。




