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鬼神の番〜払いの力を失った贄嫁は、唯一の番として溺愛される〜  作者: 高八木レイナ


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三話 鬼の溺愛

 夜刀神の本邸の朝は、澪がこれまで知っていたどの朝よりも澄みきっていた。

 障子越しに差し込む光はやわらかく、白砂を敷き詰めた庭は夜露をまとって淡く輝いている。低く枝を張る松の葉を渡った風が、かすかに青い匂いを運んだ。遠くで柄杓が水面を打つ音がして、屋敷の梁や柱までもが静かに呼吸しているようだった。

 

(――こんな朝を、私は知らなかった)

 

 実家の朝はいつも慌ただしかった。

 廊下を行き交う使用人の足音。

 父の重い咳払い。

 本家から来た従姉・香織の、耳に残る高い声。

 目を覚ますたび、胸の奥に灯るのは焦燥だった。

《払いの力》が少ないのだから、せめて努力で補わなければならない。香織と比べられ、劣っていると暗に告げられながら、それでも両親の役に立とうと必死だった。

 そうでなければ、存在を許されない気がして。

 けれど――。

 

(……今は、違う)

 

 ゆっくりと意識が浮上した瞬間、澪は温もりに包まれていることに気づいた。

 胸元に彼の顔がある。

 呼吸に合わせて上下する規則正しい鼓動。

 鼻先をかすめるのは、彼の髪の毛から漂う香木の匂いだ。

 逃がす気のないとでも言うようにきつく抱擁されていた。

 

(……重い)

 

 そこにいるのは、鬼の本家当主。鬼神を宿す鬼の頂点にして――澪の夫、暁刃だ。

 彼は澪を逃がすまいとするように腕を回し、強く抱き寄せたまま眠っていた。

 日中の威圧感は影もなく、伏せられた長い睫毛が形の良い頬に落ちている。額にかかる黒髪は朝光を受けて艶めき、整いすぎた横顔は、ただの若い男のもののようだった。

 けれど澪の肌に触れているその腕の奥には、確かに鬼神の力が息づいている。

 

(私は、このかたの番……)

 

 その事実が、胸の奥で静かに灯る。

 そのとき、腕にわずかに力がこもった。

 

「……澪」

 

 低く、まだ眠りを含んだ声。

 名を呼ばれるだけで、心臓がひとつ跳ねる。

 

「起きていらしたのですか?」

 

「……最初からだ」

 

 嘘だ、とすぐにわかる。

 けれど澪は微笑むだけに留めた。

 暁刃は目を開き、至近距離で澪を見つめる。

 

「今日も、無事だな」

 

「……はい?」

 

「昨日も消えなかった。今日もここにいる」

 

 それは確認というより、祈りに近い声音だった。

 暁刃の母は瘴気に侵されて早逝し、父は鬼神の暴走の末に討たれたと聞いた。

 ――失うことは、彼にとって常に身近なことだったのだろう。

 澪はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れる。

 

「私は簡単には消えません」

 

 指先にわずかに熱が走る。

 

「あなたの番です。あなたが暴走しない限り、私はあなたのそばにいます」

 

 暁刃の瞳が揺れた。

 鬼神ではなく、一人の男として。

 

「……俺が守る」

 

「いいえ」

 

 澪は小さく首を振る。

 

「私も、あなたを守ります」

 

 一瞬、空気が張り詰めた。

 鬼神の気配がわずかに揺らぐ。

 次の瞬間、強く抱き寄せられ、唇が重なる。

 深く、長く、確かめるように。

 鬼の気配が一瞬だけ滲み、空気が甘く震えた。

 

(……怖いほど、愛されている)

 

 けれど同時に思う。

 

(もし、また大切な人を奪われることがあったら……)

 

 濡れ衣を着せられ、孤独な闇の中に閉じ込められたら、と思うと恐怖が走る。

 座敷牢の湿った匂いが一瞬だけ脳裏をよぎった。

 澪の不安を察したように、彼女を抱く腕の力がさらに強まる。

 

「二度と離さない。お前を誰にも渡さない」

 

 低く、断言する声。

 澪はその胸に額を押しつけた。

 

「……ええ」

 

 もう、あのときのようなことは起こらない。

 

 ◆

 

 昼の暁刃は、完璧な当主だった。

 一族の裁定。都を覆う結界の維持。瘴気の流れの監視。

 膨大な責務を前にしても、その背は揺るがない。

 だが澪が廊下で側近の鬼に声をかけられただけで、空気が不穏なものに変わる。

 

「……澪から距離を取れ」

 

 低い声が落ち、暁刃の首筋に鬼紋が浮かぶ。

 

「はっ、はい! 申し訳ありません!」

 

 側近が怯えたように静かに一歩下がった。

 

「俺の番に不用意に近づくな」

 

 廊下の空気が凍りつく。

 

「暁刃様、私たちはただ挨拶を交わしただけなのに、いくらなんでも……」

 

 澪はそう取りなそうとしたが、暁は真顔で言う。

 

「奪われる可能性のある芽は、すべて摘む」

 

 澪は呆れ混じりにため息をつく。

 

「誰も私を奪いませんよ」

 

 暁刃は首を振り、澪の腰を引き寄せる。

 

「お前は自覚がない。俺を狂わせるほど魅力的なのに」

 

 指先で顎を持ち上げられた。

 額を寄せ低く囁かれると、ビクリと腰が震える。

 

「知らなかったのか?」

 

「あ……っ」

 

 澪の顔面が紅潮する。

 恥じらいながら顔を背けると、いつの間にか暁刃の側近は姿を消していた。

 こうして所構わず暁刃が澪に近づく者をけん制するのだ。

 けれど、その狭量ささえ、澪は愛しいと思ってしまう。

 こんなにも必要とされたことは、これまでなかった。

 

「鬼の独占欲を甘く見ないことだ」

 

 澪はそっと暁刃の胸元を掴む。

 

「……私だって、あなたを離して上げませんから」

 

 照れ隠しに顔を背けると、無理やり両手で顔を包まれて顔を上げさせられる。真っ赤になった顔を凝視されてしまう。

 長い沈黙の後、暁刃は苦しげにこぼす。

 

「……本当にお前は……愛らしすぎて困る。俺をこれ以上、惑わさないでくれ」

 

 深く、甘い口づけを繰り返す。

 彼の腕がやわらかく澪を包み込む。

 鬼の愛がこれほど深いとは知らなかった。

 

(――彼のいるところが私の居場所だ)

 

 いまでは心の底からそう思えて、澪はそっと目蓋を閉じる。 

 彼の懐は、驚くほど心地良く、温かった。



  

 ――その頃、都の外れの夜刀谷やとかや家にて。

 屋敷に張られた結界がわずかに軋んだことに、まだ誰も気づいていなかった。




 

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