4-3a. 逃亡者
ゼルシア皇妃の旧姓は、ランガーディア。
ベアトリーチェの女奴隷、金貨三万枚で取引され、幼い少女を殺して追われた、傾国のフルーレイア。
知り過ぎた。もう駄目だ。
人々の悲鳴と断末魔。夜に炎上した大邸宅。月の女神の裁きが下る――
カレンは顔を覆った。お腹の子もきっと産めはしない。男の子だったら、皇位継承権第一位ともなり得るのだ。
サンジェニに戻る?
駄目だ、きっと、皇妃の手が回っている。サンジェニに戻れば、ザルマーク皇子のように、父や姉までが滅ぼされてしまう。
ザルマーク皇子の母妃アイジェリス様を頼る?
駄目だ、ザルマーク皇子の子だと、認めてもらえるはずがない。間違いなく、ザルマーク皇子の子なのだけれど。認めてもらうには、彼女には華やかな噂があり過ぎた。
「はっ……」
身一つで逃げてきたカレンは、苦しい息を吐いた。
**――*――**
夜闇にまぎれ、真夜中のライゼールを一台の馬車が行く。
その馬車はゼルダの私邸の門前で停まり、気難しげな御者が降り立った。
**――*――**
「ゼルダ様」
深夜、妃を抱いて眠っているゼルダを執事が起こしに来るなど、よほどのことでなければ許されない。ゼルダは起き出すと、廊下に出た。
「何があった?」
「名を明かさぬご婦人を乗せた馬車の御者が、金貨三十枚を要求しております。ご婦人が、この首飾りの所持者であると伝えれば、ゼルダ様が支払うと、持ち合わせもなく馬車に乗られたようです。どうなさいますか」
ガラス張りの手提げ灯に照らされたそれは、それ自体、金貨三十枚ではきかないような逸品だった。大粒のエメラルドを象嵌した、精巧な首飾りだ。
ゼルダが支払わなければ、御者はこれを取り上げるつもりで彼女を馬車に乗せたのだろう。
もっとも、裏面に刻まれたカムラ皇室の紋章こそが、その所持者が誰であるかを物語っていた。
「私が出る。金貨三十枚――いや、二百枚、持ってきて」
馬車を敷地内の庭園に入れ、ゼルダが直々に御者を出迎えた。
「さて、彼女をどこから乗せたのですか?」
「――グーデンバーグ」
ゼルダはやや驚いた。ライゼールのどこから乗せたにしても、金貨三十枚は法外だと思ったけれど、領内ではなく、帝国の遠方から乗せてきたのか。
「驚いたな、金貨三十枚は支払わせて頂きましょう。――首飾りの持ち主を、こちらへ」
ゼルダは引き出されたカレンの様子を確かめ、二言、三言、言葉を交わすと頷いた。
「あなたは心掛けのよい方だ、親切に、彼女の頼みを聞いてくれたこと、礼を言います。レイディア、彼に謝礼を」
執事がゼルダの指示通り、金貨二百枚の謝礼を御者に手渡すと、御者も驚いたようだった。
「一つだけ、あなたにお願いがあります。あなたは私の許へ誰も連れて来なかった。彼女のことは、忘れて下さい。そうして頂けるなら、あなたは、彼女の命を救ってくれたのだから、少しばかり多い謝礼は、私の気持ちです。ですが、あなたが彼女のことを口外する時には――」
ゼルダは残酷に微笑み、左眼を真紅に輝かせた。それだけで、御者が察したようだったので、ゼルダもあえて、その続きを言葉にはしなかった。
「あなたの名は?」
御者はごくりと唾を呑み、名乗った。
「クレイス・ワイズマン」
「覚えておきます」
**――*――**
「カレン、どうしたの。すぐに部屋を用意させるから」
恐怖のためか、話は明日でもいいと言ったゼルダに、カレンは眠れない様子で経緯を話した。ゼルダはミルクで煮込んだパンと湯を用意させ、カレンに食事と入浴を勧めた。寝台に横になったカレンから、一通り話を聞いた後も、彼女が眠るまで傍についていた。
「大丈夫、私がついているから。安心しておやすみ」
羽根の掛け布団の上からゼルダが軽く、カレンを安心させるように叩きながらそう言うと、彼女は枕に顔を埋めて泣いた後、ようやく落ち着いた様子になって、眠りに落ちた。
アデリシアのこと、カレンのこと、ヴァン・ガーディナのこと。
部屋に戻りながら、ゼルダは誰かを傷つけずには、誰かを守れないのかと、やるせない気持ちになった。
こんなことになったのは、皇妃の身辺を探って欲しいと、カレンの手腕にゼルダが頼んだせいでもあるのだ。
兄皇子ザルマークのこともあるから、カレンは頼まれずとも、いずれ、動いたかもしれない。それこそ、忘れ形見の命を守るために。
カレンはゼルダにとっては二歳年上で、ヴァン・ガーディナと同い年だ。
ゼルダはまだ、ヴァン・ガーディナに出来ないことなどないと錯覚したままだ。カレンにも、探れないことなどないと思っていた。
けれど、皇妃を敵に回してしまったカレンは、命からがら、ここまで逃げて来るだけで精一杯だったのだ――





