4-1c. 悪夢の夜【石榴の烙印】
夜の帳が降りていた。執務室――
ゼルダが傍にいた。
「兄上、もう、宵を過ぎています。お倒れになります、帰られて下さい」
「ああ、ありがとう。夢見が悪かった」
どうして今さら、忘却の淵に沈めた記憶の夢を――
何度も、繰り返し言い聞かされるうち、彼はいつしか、母妃の言う通り、父皇帝は彼を苦しめ抜いて殺すのだと、思い込んでいた。
それでも、母妃の言う通りにするしかないとは、思わなかった。父皇帝の望み通りになっても構わないだろう。間違いなく、彼が、アーシャ皇妃を殺したのだから。
ただ、父皇帝には憎まれているのだろうから、何か願うことは出来ないのだと思っていた。
終わりにしたい、もう。
ヴァン・ガーディナは棚から酒瓶を取ると、割りもせずにウィスキーをあおった。
ガシャンと、グラスを叩き割って、故意に指を切った。
鮮血の色が美しい。
何もかも忘却したまま、母妃が約束を違えたことにさえ、気付かずに――
誰がために、愛した人々が死んだのか、思い出したくなかったばかりに、皇后宮で剣を修め、学問を修め、母妃の意向に従い続けていた。そうしなければならないと、己が記憶の断片に、強迫され続けていたのだ。愚かだった。卑劣だった。
「ゼルダ、ご褒美だ」
「兄上――!?」
心配して覗き込んでいたゼルダの髪を引きつかむと、ヴァン・ガーディナは飲んでいた強い酒を口移しにした。ゼルダが苦しがってむせるのに構わず、力ずくで押し倒して、心ごと引き千切るようにそのベストとブラウスを剥ぎ、ゼルダの鎖骨のあたりに吸い付いた。
「な、やめっ――!」
「これまでにも、施術してやろうと思ったことはあったのにな。どうしてためらったのかな――」
死霊術を施されたショックに、身を震わせるゼルダが、憐憫の情さえ誘い愛しかった。
「兄、上……?」
忘却しても、なかったことにはならない。失った命は戻らない。もう二度と、約束の場所で待ち続けても、会えはしないのに。
喘ぐゼルダをキスで黙らせ、その額から頬へ、首筋へと、ヴァン・ガーディナは続け様にキスを降らせていった。狂気の真紅を呈した、冥魔の瞳で支配して、いいようにゼルダを嬲った。
兄皇子に組み敷かれるのを、泣き喚いて厭ったゼルダが、終いに抗う意志さえ失い、されるままになる――
ヴァン・ガーディナはようやく、弟皇子を嬲るのをやめた。残酷に微笑んで、ゼルダの耳元に囁いた。
「ゼルダ、私がいなくなっても悲しくないふりをおし。上手に出来たら、ご褒美をやるよ」
施術したのは石榴の烙印だ。支配印とは異なり、ゼルダが彼を愛していなければ、効き目はない。効かないと、知りたくなかった。
憎まれたのは今夜であって、ずっと、憎まれていたわけではないと――
ゼルダを蹂躙したのは、それと思い込むためでもあっただろう。
取り返しのつかないことをして、今夜、ゼルダを失ったのだと思えば、終わりにするのはたやすい。
父皇帝も、亡きアーシャ皇妃も、兄皇太子も、彼の死を望むのだから。
ゼルダも、同じことを望めばいい。
愛欲の熱に浮かされ、美しく澄んだガーネットの目を見開いて、ゼルダがヴァン・ガーディナを見た。
「この場で胸を一突きにして、私の命を絶ってやるから――」
ゼルダがいよいよ目を見開いて、何か言いかけて首を横に振り、引き止めるように、ヴァン・ガーディナの袖をつかんだ。
「おまえ、嬉しいだろう? アーシャ様も、兄上もきっとお喜びになるよ」
どうして、ためらったのか。もっと早く、終わりにしていれば――
慕わしい人々に死を望まれるのが悲しいのか、今日まで、それに応えられなかったのが悲しいのか、ヴァン・ガーディナには、わからなかった。
「兄上、やめっ……! あぐっ……!!」
伝い落ちたゼルダの涙が、綺麗だった。
「ゼルダ、苦しそうだぞ。どうして泣くんだ?」
「ガーディナ兄様、やめて下さい! 母上も、アルディナン兄様も、あなたが死んで喜んだりしない! ……っ……やめて下さい!!」
「ゼルダ」
ヴァン・ガーディナはもう一度、ゼルダにキスした。その肢体に血濡れた指を這わせる。
「憎まないのか? ――酔狂だな、愛しているよ」
その辺りで意識を失い、ヴァン・ガーディナが次に目を覚ました時には、翌日の午後になっていた。





