55-2 応援屋(後編)
いつもより文字数多めです。
後日談的○年後のおはなし。
「化粧しなくても、かわいいのに」
なんの前振りもなく放り込まれた爆弾。爆弾だ。威力を鑑みて、爆弾で間違いないだろう。
その証拠に、衝撃のあまりゆかりは乳液をドレッサーにぶちまけかけた。コットンが蓋代わりになったおかげで事なきを得たが、危機一髪である。
これはもの申さねばなるまい。鏡越しに寝室のドアへ軽く身を預けた元凶を窺う。
えっ、なんでこんなにご機嫌なの?
目にした姿はつい呆けてしまうほど眩しい。キラキラのエフェクトが今にもかかりそうだ。さらにその視線は真っ直ぐゆかりにだけ向けられていた。
夫である和樹は時折こうしてゆかりを瞳に映したがる。できたらやめてほしいことのひとつだ。だって気恥ずかしすぎる。けれども、満足すると蕩けそうに微笑むものだから言えないまま、今日まできてしまった。
多分、この先も言えず仕舞いなのだろう。これは予感ではなく確信だ。
気配を消すのが上手い彼は、そろそろ定年へのカウントダウンが始まるとは信じられないほど若々しい。醸し出す気迫というべきか、雰囲気がそうさせるのだろう。そうゆかりは常々思っている。
実際は夫婦揃って年齢不詳と近所では有名なのだが。
ともかく夫の視線を感じるとどうにも落ち着かない。しかも今回は謎のリップサービス付きだ。
彼は軟派に見られがちな甘めの容姿をしている。しかし実際の性格は逆だ。少し頭の固い昔ながらの日本男児。だからなのか、どちらかといえば愛情表現は行動が主で、先程のようなあまい言葉はなんだかんだで貴重だった。戸惑うなというのが無理な話だろう。
「……う、ん?」
たっぷり時間をかけたはずなのに、やはりゆかりの口からでたのは意味をなさない音だった。辛うじて疑問を伝えられている。そう思いたい。
思っていいかな。怪しいかも。
「だからね、ゆかりさん。君はこれ以上素敵になってどうするつもり?」
やっぱりだめだった!
きゅっと顔のパーツが真ん中に寄る。言い換えて欲しいわけではない。いつもはエスパーかと疑ってしまうほどゆかりの思考を当ててくるくせに、どういうことなのか。いったいなんの気まぐれを起こしたのだろう。
じっと見返してみても答えはでないし、与えてももらえないようだ。真実を知っているひとは、ゆかりを翻弄するだけして機嫌よく微笑んでいる。
もしかしたら。はた、と気がついた。
和樹さん暇してるから構ってほしいのかもしれない。それならそうと言ってくれればいいのに。
ゆかりはほんのりくちびるを尖らせた。しかし口には出さない。言ってしまったら最後、本当に彼が満足するまで解放してもらえない可能性がある。それはまずい。ちらりと時計を見ればもう二時過ぎだ。
今日はこれから近く生まれる初孫へのプレゼントを選んだあと、外で食事の予定になっている。午前中に洗車をしていたから、ドライブもつくかもしれない。
もちろん家でゆっくり過ごすのも好きだ。夫は疲れた体を癒せるし、なにより独り占めできるから。けれど、それはそれ、これはこれ。今日がくるのを指折り数えていたので、やはり満喫したい。
立場が変わっても、ゆかりの夫は多忙なままだ。超をいくつつけても表現しきれない。しかし、長く連絡がつかないような出張がなくなった。それだけでゆかりは十分幸せだと思っている。
でも久しぶりのデートだし。
胸のなかだけで呟いた。
要はそういうことである。だから昨夜はスキンケアが念入りだったし、今日もいつもより化粧の時間を作った。服だっておろしたてだ。若い頃のようにはいかなくても、彼の横をより良い自分で歩きたい。
あの子たちが知ったら呆れるかなぁ。
ごちそうさまと肩をすくめる子供たちの姿が目に浮かぶ。ゆかりはいちゃついても、のろけてもいないつもりだ。しかしどうしてかこの主張は聞き入れられたことがない。
夫が何を考えているかは知らないけれど、横槍を入れられるのは困るのだ。それが愛する夫であっても例外ではない。すごく困ってしまう。
「かーずーきーさーん」
今度はしっかり恨めしそうな声がでた。すると彼がまばたきをひとつした。ぱちん、とそんな音がしそうなやつだ。
えっ。かわいい。ずるーい。
先程とは違う驚きである。こうなったらゆかりの負けは決まったも同然で、もう抗議などできるはずもない。案の定黙りこめば、気にせず準備を続けるよう夫が促してきた。
諦めよう。ゆかりは小さく息を吐き、気分を入れ換えてコットンを肌に滑らせる。その背中にまた声がかかった。
「ゆかりさんの頬って触りたくなる。ね、さわっていい?」
だから本当になんなの!
頭の中で叫ぶ。
言いたい。言えない。うれしい。恥ずかしい。
胸か、頭か、とにかくどこかがパンクしそうだ。振り向きそうな己をゆかりはどうにかこうにか抑え込む。
頑張れ、がんばれ。負けるな我慢だ石川ゆかり!
己を叱咤して、次の行程へ。
もうすぐ飽きるかもしれないし。飽きてくれたりしないかなぁ。
しかし、そうした淡い期待を当然のごとく裏切り、夫は更なる猛攻を仕掛けてきた。日焼け止めや下地を塗ればゆかりの白い肌が好きだと言われ、ファンデーションを乗せればかわいいとまた褒められる。肌の色を整えただけだ。何がかわいいのかさっぱりわからない。
この先も同じ調子なら、絶対に手元が狂う自信がある。それだけは、それだけは避けなければ。
アイブロウペンシルを握るゆかりの手に力がこもった。
「もー! 降参です! ねぇ、和樹さんどうしたの?」
考えてもわからないなら聞くしかない。丸い眉を力なく落として夫を振り向く。
するとどうだろう。こてんと首をかしげられてしまった。しかも、おかしいなぁ、とうぼやきつき。
「えっ、和樹さんがそれ言っちゃうの?」
「むしろ僕のセリフだからね?」
言い返されてますますゆかりの脳内に疑問符が増えていく。どう考えても事の発端は彼だ。それなのに、さもゆかりが原因のように言われてしまった。
はて。
「ね、奥さん。今日の昼はなんだった?」
「和樹さんのオムライス! 久しぶりだったし嬉しかったなぁ」
突然の話題転換。しかし他より優れた頭脳を持つ夫との会話ではままあることだ。特に驚くことでもない。弾む声で答えれば、柔らかな視線が返される。
「良かった。力作だった朝食のお礼」
「あれは……私が早く起きちゃっただけで」
「でもすごくおいしかったから」
「ふふ、ありがとうございます!」
遠足当日の子供のように、いつもよりずっと早く目が覚めた。どれだけ楽しみなのか。苦笑しながら時間をもて余すぐらいなら、と手の込んだものにしたのである。
何をしたか。なんちゃって旅館の朝ごはんごっこだ。
常備菜やお手製の漬物をちょっとずつ小皿に取り分けて重箱に彩りよく並べ、彩りに飾り切りのにんじんや大葉などを。さらに魚の切り身を焼いて、横にはしっかり出汁をとったお味噌汁。あぶった海苔と食べるご飯は、もちろん土鍋で炊いた。
なんちゃってなので、できる範囲だ。それでもこれは和食大好きな彼の心を直撃したらしい。大喜びですべてきれいに平らげてくれた。
それだけでゆかりは嬉しくてたまらなくなる。
「これがWin-Winの関係ってやつね」と頷いていたら、いつの間にか昼食は彼の特製オムライスになっていたのだった。
「たまごを割りながら思い出してさ」
ゆったりと続けた夫の目元は懐かしがる形をしている。こうした表情をするときは決まって、まだふたりが付き合いたてか新婚の頃のことを思い返しているのだ。
長く連れ添っても彼のことはわからないこと、知らないことばかり。だが本人さえ知らないことをゆかりは知っているので帳消しにしている。
「んー、印象深いことあったかなあ?」
「それはもう、物凄く。僕、腹筋割れるかと思ったんですからね」
「もともとでしょっ」
事実を述べれば、はは、と笑い声が返ってきた。初めて夫の鍛え上げられた腹筋を見たときの驚きは忘れられない。つい思い出に浸りそうになったゆかりは、覚えてないかな、という言葉に引き戻される。
「ほら、オムライスを美味しくするためって、僕やたまごを褒めたことあっただろ」
「えー? そんなこと」
ないですよ、そう続けかけて止まる。あった。あったわ。
夫が規格外の頭脳を持っているのでかすみがちだが、ゆかりもなかなか記憶力に優れている。ヒントさえあれば思い出すのはわりと容易だ。そうなれば芋づる式に当時のことが思い出されていく。
あの日は久しぶりに和樹と過ごせるからと、やはり早く目が覚めた。それに、はしゃいでいたのだ。とても。彼を涙が出るほど笑わせたのだって、浮かれているのを隠そうと空回りしたためだ。
私ったら全然成長してないじゃない。
いつから自分はこのひとという存在に心を奪われまくっていたのだろう。何十年ぶりに知った自身の気持ちをもて余し、ゆかりは小さくうつむいた。
「思い出した?」
顔を伏せたまま夫の問いに頷く。どうか気づかないで。
「その時、夫に褒められると奥さんの化粧のりがよくなる、って君が言ったから」
無駄のない動きでゆかりの背後に立った彼の手が、頬を隠す髪をすくい上げた。するりとそのまま耳にかけられる。皮の厚い、しかし器用な指先が耳殻をやわくなぞった。
切なる願い虚しく、きっと熱を持っていると知られてしまっただろう。本当にゆかりの夫は鋭いのだ。
「久しぶりのデートだし、試す絶好の機会かなと……どう?」
そして意地が悪い。指の背で頬を撫で上げられる。
「わ」
「わ?」
「わかんないです! だって! まだ! ベースしかしてないしっ。それに」
言いながら睨み付けた。負けるものか。いつも彼のペースだと思わないで欲しい。もう頬が赤いとばれているのならかまうものか。
窮鼠は猫を噛むものなのだ。
「和樹さんのご飯はいつもおいしいし、あの日は浮かれてただけだからわかんない!」
言い切り、化粧を再開する。ちらりと鏡越しに窺えば、夫はあっけにとられた様子で固まっていた。
ぽかん。そうとしか表現できないような顔だ。
滅多に見られない表情に溜飲が下がる。
さあ、この隙に進めてしまおう。ゆかりが眉を整え出したそのとき、鏡の中の夫がパタンと倒れた。かなり上背と質量があるので、ばふん! といった感じだったが。その体はベッドに着地したとしても少し驚く。
「うわあ! 和樹さんっ?」
化粧を放り出して振り向けば、夫が仰向けに倒れたまま手で顔を覆っていた。耳を澄ませば、何やら唸っている。
「か、かずき、さん……?」
おそるおそる話しかけてみる。するとゆかりの声に弾かれたように夫が身を起こした。腹筋だけでなされるのに勢いがすごい。
そしておもむろに据わった目で言い放つ。
「昔の僕、あの日の自分を殴りたい」
「はいっ?」
「全然、似非ウニ案件じゃなかった。めちゃくちゃかわいい案件だった」
似非ウニ案件とは。
気になる。だって何だか失礼なことを言われている気がする。けれども今聞いたところで分かりやすい答えが返ってくるとは思えない。
夫婦円満の秘訣は、ある程度受け流すことだ。
新たな謎は生まれたけれど当初の謎はとけたし、なにより時間がない。それに、夫も彼なりに今日のデートを楽しみにしているらしい。
なら、よし!
にやつきそうになるのを堪えて、ゆかりは鏡の自分と向き合った。
このあと悔やむのをやめた夫の心のこもった声援により、びっくりするほど上手にアイラインが引け、マスカラはきれいにセパレートし、チークも完璧な位置に入れられた。
だが、口紅は塗り直すはめになったのは別の話である。
いやー、すごいですね。
あれだけ褒められまくってるのに、行動のほうがずっと……と思ってるゆかりさんも、そう思わせてる和樹さんも(笑)




